もし、信秀が竹千代を殺していたら
今回の記事は古代史ではなく、戦国時代です。
歴史では、よく「もし、〇〇が△△だったら…」ということが語られます。たいていは大げさだったり、可能性がないことが多いです。クレオパトラの鼻が1㎝低くても、世界の歴史は変わらなかったと思います。
日本の歴史では、これは変わっただろうなあという最強の「もし」があります。
1547年、今川義元のもとに人質に送られるはずだった竹千代(5才)は、田原城主・戸田康光のはかりごとによって、海路、あろうことか、敵である織田信秀(信長の父)のもとに連れ去られてしまいます。
信秀は、竹千代の父・松平広忠に「今川との約束をなしにして、こちらにつけばよし、もうそうしなければ、竹千代は殺し、三河を攻める」と文を送りました。
広忠は信秀の申し出をけったんです。「そちらが竹千代を殺すのなら、勝手にするがよい。今川との約束は破らない」と。
信秀はかんかんになり、ただちに竹千代を殺そうとしました。でもすぐに、冷静になって、思いとどまりました。
「こわっぱを殺しても、どうにもなるまい」
信秀は竹千代を殺さず、織田氏の菩提寺・蔓松寺(ばんしょうじ)に閉じ込めました。
※信秀が竹千代を殺さなかった理由は諸説あります。
竹千代は生き延び、織田の監視下での3年間の人質生活が始まりました。
この出来事は、日本史上、最大の決定的瞬間だったと思うんです。
もし、信秀が竹千代を殺していたら…。
どうでしょう、日本の歴史にとって、本当に決定的瞬間だったことがわかると思います。
家康がいなかったら、信長は安心して京に上ることができませんでした。天下統一は100年は遅れたんじゃないでしょうか。
だれが最初に京都に入ったでしょうか。織田信長ではないような気がします。武田信玄? 上杉謙信? 毛利輝元? 長曽我部元親や島津義久が神武天皇のように、四国や九州から攻め上ったでしょうか。毛利氏に野心があれば、一番可能性が高いかもしれません。
家康の子孫は全員存在しません。水戸黄門もいないんです。
3代将軍・家光がいないから、鎖国もなかったかもしれません。関ヶ原の戦いのあった1600年は、イギリスが東インド会社を創設した年です。西洋との貿易が続いていたら、当時の日本は異文化を受け入れる素地が大きかったですから、日本の文化は全然変わったものになっていたでしょう。
戦国時代が続けば、キリスト教は禁止されることもなく、布教が続き、日本は韓国みたいに、キリスト教徒の多い国になっていたかもしれません(韓国は3割がキリスト教)。
信長、秀吉、家康という戦国の三傑のなかで、僕は秀吉が一番好きでした。秀吉とか、ナポレオンとか、貧しい子ども時代から、関白や皇帝にまで上りつめた人生にあこがれていました。
派手な人生が物語としておもしろいことは確かですが、家康の「人の一生は重荷を負て(おいて)遠き道をゆくが如し。いそぐべからず」という人生訓は、学問でも、スポーツでも、芸術や技能でも、ビジネスでも、昔も今も、通ずるところがあります。
やっぱり、竹千代が生き延びて、よかった。
(トップ写真=岡崎公園の竹千代像=写真AC)
※この記事は、僕が2012年9月20日に以前のブログ(現在非公開)で書いた記事を加筆修正したものです。