桶狭間の戦いの考察3
今川義元が何故桶狭間で破れたのか、を考察する記事のその3。
今回は桶狭間のもう一人の主役織田氏について。
■実は越前出身の織田氏
斯波氏には有力な被官が三家ありました。甲斐、朝倉、そして織田です。
越前国織田荘の国人で、斯波氏が尾張守護を拝命した後、守護代として尾張に根付くことになります。
ちなみに、この織田氏は代々伊勢守を自称したため、「伊勢守家」と呼ばれました。しかし守護代ながら、京都にいた当主斯波氏の側にいたため、実際は「大和守家」と呼ばれる織田氏が尾張の地で統治を行っています。
守護代の守護代という、よくわかない状況なんですが。
この二家、斯波氏の家督争いである「武衛騒動」や、さらには将軍家や畠山氏の家督争いから勃発した「応仁の乱」で対立します。
応仁の乱では伊勢守家が西軍、大和守家が東軍に与しました。
応仁の乱以降も骨肉の争いを続け、将軍家の仲裁等もあって、尾張上四郡を伊勢守家が、下四郡を大和守家が支配することになります。
しかし、下四郡の内、知多郡、海東郡は一色氏の領地なので大和守家に不利な分割でした。
そして両家、伊勢守家が右を向けば、大和守家は左を向く、といった具合に対立。
美濃土岐氏の家督争いである「船田合戦」等、争いを続けた結果、両家とも弱体化するという始末。
で、主の斯波氏はというと、応仁の乱以降、越前を朝倉に奪われ、遠江では今川氏親とその配下にいた伊勢宗瑞(北条早雲)という、この時代のチートクラス両名が率いる軍勢相手に戦うことに。
「こんなバケモノ相手に戦えるか!」と大和守家は謀反を起こしますが、斯波氏に鎮圧され没落。
もちろん、斯波氏に氏親・宗瑞と対抗できる武将はおらず、1515年には当主が今川方に捕らえられるという、決定的な敗北を喫します。
斯波氏、織田伊勢守家・大和守家が揃って没落する中、勢力を強めていく家がありました。
それが海東郡津島に居館を構えていた織田弾正忠家でした。
弾正忠家は大和守家の分家筋で、その家老格の家柄です。
当時、津島は木曽川から伊勢湾に臨む港と津島神社の門前町として尾張下四郡ではかなり栄えていました。その経済力を背景に弾正忠家は尾張で勢力を強めます。
その弾正忠家から傑出した人材が輩出されます。
「器用の仁(ひと)」と呼ばれた織田信秀、そう信長の父親です。
信秀は津島だけでなく熱田も支配してさらに経済基盤を拡大させて主家の大和守家よりも勢力を強めると、事実上、尾張下四郡の支配者となります。
信秀の力は、今川氏にとってはかなり脅威となっていました。
なにしろ戦に強いだけではなく、教養もあり朝廷に対しても経済力を武器に多額の寄進をするなどしていましたから。
美濃の斎藤道三には及ばないものの、その時代のエース格といっても良い武将です。
この信秀、今川氏相手にとんでもないことをします。
当時、愛知郡那古野は今川那古野氏が支配していて、居城の那古野城には今川氏豊がいました。その氏豊から信秀は謀略を駆使して那古野城を奪い取ります。
氏豊は、義元の弟とも言われています。
さらには人質にするはずだった松平竹千代(後の家康)を奇策で奪ったりと、今川氏に散々煮え湯を飲ませた人なんです。
とはいえ、今川氏も松平清康(家康の祖父)を囃して尾張の地を切り取らせたりしていますけど。
でも直後に起きた清康暗殺事件である「守山崩れ」の際、混乱に乗じて西三河に乱入しています。
さらには朝廷に寄進して「三河守」の名乗りを許されたりしています。
「三河の正当な支配者は織田信秀だ」といわんばかりですね。
転んでもタダでは起きない。失ったら取り返すどころか三倍返しで奪う。
織田信秀とはそんな人です。
そりゃお互い危険視するよね。
ようするに、織田氏と今川氏はお互い不倶戴天の敵としてみていたわけです。
しかし、まだまだ尾張は動乱・分裂の時期でした。信秀の力をもってしても弾正忠家が尾張一国を統一することはできなかったんです。
尾張統一を果たすのは、信秀以上の器である信長の登場を待つことになります。
そして信秀の時代は、桶狭間まで続く今川氏と織田氏の戦いの歴史となっていくのです。