投影は自我の防衛機制の一つだが、対人関係そのものでもある。友人だろうと親子や恋人だろうと、人間は必ず相手に何かを投影している。自分が相手に何を投影しているかを少しでも自覚し、できるだけ相手を客観的に捉えようとする試みを「投影の引き戻し」と呼ぶ。離別を含めて、関係改善に繋がりうる。
鷗外森林太郎の【脚気問題】から、柳田國男や折口信夫の「民俗学」に託されたもの。それはちょうど欧米の学問におけるフロイトやユングによる「深層心理学」の確立に対応したものだと、私には思はれる。漱石夏目金之助における心の闇は【子規問題】で、その表出が小説『こころ』だと、私には思はれる。
放送大学の「フィールドワークと民族誌」という、文化人類学の講義を視聴している。それまで学んできた深層心理学、臨床心理学と通底するものを強く感じるが、逆に言えばそれらを学んでいなければ今の講義もピンと来なかったと思う。文系の学問ならではの意義深さを痛感させられているところだ。
浦島太郎が玉手箱で老人となる、という結末は実は乙姫による救済ではなかったかと夢想する。老いた男性はただの老いぼれのこともあるが、老賢者にもなり得るからだ。大人になれない少年をどうにかするには、現実の年齢に気づかせるしかない。そのまま亡くなった話も、鶴になって空を舞った話もある。
深層心理学の「深層」って単語が好きなんだけど、心に関する問題を、上下、前後、左右で捉えず、表層ー深層で捉えたとこが、自分の実感ともピッタリくるからだと思うようになった。 「自分の心」について、優劣に繋がりかねない上下や、時間的な前後、他者との比較が必要な左右では捉えきれない。
今の私が深層心理学に夢中になるのは、あのとき「周りに気づいて欲しかった」という苦しみが、本人には言語化できない抑圧された情動を、身体化や行動化、自傷行為といった困りごととして周りに出せたときに、そのシグナルを正しく繊細にキャッチできる自分になりたいという願いに転換されたからだろう
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