夢科学 #08:ユングの「人間と象徴」#03、元型と個性化の過程(下巻)
心の成長のパターン
ユングは夢を研究した結果、それが夢主の人生や体験に関係するものでありかつ配列やパターンに従うケースがあると発見した。個人個人で異なる夢の内容の意味や目的とそのパターンを、ユング倫理学では「個性化の過程」と呼ぶ。
夢や無意識に規則性を与える中心部は、仮に自己(Self)と呼称されている。それに対して、意識できる部分の中心は自我(Ego)と呼ばれる。
自己の存在は、心の超越機能に意識を開かないと探索することができない。このような隠れた自己は古来からギリシャのおけるダイモン、エジプトにおけるバーの魂、より未開の社会においてはトーテムや守護神という形で表現されている。
夢における個性化の過程 - 無用の木
夢における心の成長・成熟は、木によって象徴されるという。
荘子による「無用の木」の夢。ある大工が「この木では有用なものが作れない」と嘆くが、その日に古木が夢に現れ「人間の手に収まる“有用なもの”となってしまえば木として天寿を全うできない。だから私は勤めて無用の木であり続けた」と語る。大工はその木を社(やしろ)として保護することにした。
くだらない科学至上主義や功利主義は、このようにして夢がもたらす人格の成長に道を譲らなければならないことがある。大工の夢においては夢に現れた古木こそが自己の象徴であり、近視眼に陥った自我に教訓を与えている。多くの場合、夢における個性化の過程はこのような浅はかさや机上の空論を戒めるようにして現れるという。
ナスカピ・インディアンとミスタペオ - 自己の元型
夢と自己を信奉する話として、ナスカピ・インディアンの話が紹介されている。ナスカピは特定の儀式や宗教を持たないが、夢で指示を送るという“ミスタペオ“(偉大な人)と呼ばれる魂が心臓に住んでいると考える。ナスカピによると、隣人愛や動物に対する愛情がミスタペオが良い夢を心に送るための因果となり、逆に虚言や不誠実はミスタペオを内的世界から遠ざけるという。
真の意味で心を成長させるには薄っぺらい自我で何か計画や目標を持っても無駄で、まずは自己の奥底から湧き出る成長への内的な要請に心を開く必要がある。例えば私は衝動的に絵が上手くなりたい・お金がもっと欲しいと考えることがあるが、なぜかはわからない。無意識に自分をそう思わせている箇所があるはずである。
ニヒリズムからの癒し
人生の退屈さや空虚さに悩む人の場合。このようなニヒリズムからの癒しを象徴する御伽話は、多くの場合「王様が病気・年老いていて、そこに魔法や護符で王様を癒す若者が現れる」という形式となる。このような話では癒しに必要なものは白いツグミや金の指輪をエラに挟んだ魚、生命の水や悪魔の頭に生えてる毛など、特別で見つけ難いものとして描かれる。
このようなニヒリズムに現実で陥ると、お節介な人間がやってきてやれ薬を飲めだの、自己啓発だとか経営だの、趣味を変えろ・性格診断をしろ・転職しろ、ファシストや共産主義者になれといった、たいして役立たないクソバイス(笑)をしてくる。これらが役立たないのは、全て薄っぺらい自我だけででっち上げた計画や目標だからである。薄っぺらい自我でニヒリズムを克服することよりもより有効なのは、夢や無意識から湧き出る空想に心を開くことである。
夢や無意識を通して人格的に成長するには、無意識の人格からもたらされる自我への厳しい批判や非難に耐える覚悟が必要となる。ユングはこれを「影の自覚」と読んでいる。
夢・無意識に対する失望を乗り越える - アウゲイアスの厠掃除
夢や無意識を解釈するにあたっては、当然失望や落胆することもある。英雄ヘラクレスの伝記は、無数の牛が糞を撒き散らした(笑)アウゲイアスの厠を1日で掃除するというエピソードから始まる。自分自身の影や無意識を自覚するというのは、このアウゲイアスの厠掃除に相当する激務だという。
フロイトはこのアゲイアスの厠に自分の仕事を例えた下品な生徒のせいで自分が糞まみれになったベンチを掃除するという(笑)最悪な夢を見たという。その際、フロイトは不思議とその夢に不快感を感じなかったという。
私はこのフロイトの夢が変に印象に残ってしまって「トイレと物置が合体する」という夢を見て、その内容のせいで3日の間ずっと不愉快感が続くという精神状態になってしまった。今では「ああ、あの夢のおかげで私のアウゲイアスの厠掃除は終わったんだな」とすごく納得できるようになった。
(ヘラクレスが知られている文化圏では「アウゲイアスの厠掃除」は激務や偉大な功績を讃える故事成語でもある、ということを知れたのも良い勉強になった)
影と自己 - 敵か味方か?
夢や神話においては、影は夢を見た人と同性の人物として現れる。多くの場合、影はその人の外交性と内向性・思考-直感-感情-感覚の思考の羅針盤が反転した形で現れるという。私の考える限りでは、夢における自我そのものがこのような影の人格に近い性格になりきっている。
内向的な人は、外交的で直情的な影に伴い大きい家や通路の夢を見るという。これらはその人自身が知らない心の広がりとその未知の部分を象徴している。
外交的な人は、病気や貧困となった同性の影が夢に現れるという。外交的な人は自らの内向性を表面的に嫌うので、これは犯罪者や陰謀家という望ましくない人物として描かれるという。夢が進むと、このような影に対してかけられたあらぬ疑いが晴れることがあるという。
夢の中では、単一の影だけではなく多くの異なった影が登場する。例えば外交的な人の例では、成功した男がその人の無意識下における野心を、内向性は病気や貧困となった男として象徴的に現れている。
夢の中に登場するのは全てその人の無意識下での願望や欲求なのだが、しばしば人はそうした自分の異なる側面を外部に投影し自分ごととして考えられない。例えば、私なら成功した男に対しては「けっ、資本主義のイヌめ」と考えるし、病気や貧困の男に対しては「うわぁ、ああなったらやだなあ」と他人事にしたがるだろう。夢に成功した男・貧困の男ができてきたとして真っ先に考えるべきなのは、自分にも汚い野心や金銭欲があると正直に認められるか、貧困から脱したいとどのような努力をしているかという「自分ごと」である。
影の存在は、常に強く抑圧するべきとは限らない。しかしこれが自己の人格化か、単に表面的な人格の反対物なのかは個性化の過程にて十分に吟味する必要がある。
重要なのは、「…は…を象徴している」「夢を見ても意味不明だし、不愉快になるだけ」と拙速に判断せずに慎重に夢の観察を続けることである。
アニマとアニムス - 心の中の女性・男性
夢と無意識においては、影の他にも第2の象徴的な反対の性別のイメージが登場する。私は男性なので、ここでは私の夢に登場する女性を例にアニマを分析する。
アニマはその人の男性の心の裏にある女性的な要素に人格が付与された存在として登場する。男性の場合、アニマは感覚やムードに対する繊細さ、予知や勘、非合理的なものへの感受性、愛情や性愛、自然や動物への感情、無意識との超越機能などなどといったものを備えた女性となる。
私の場合だと、「メイン女性」がアニマの役割を果たしていると考えられる。しかしこのイメージがイマイチ安定しておらず、架空のキャラクターの間でコロコロとイメージが変化している。注目するべきなのが、そのキャラクターらは無意識の中でもおおがねイメージに真っ向と反するような言動はしないと言うことである。
「メイン女性」が無意識との超越機能を果たした例として、最近では「招き猫弁財天」を召喚して欲しいとせがむキャラクターが登場している。彼女は「招き猫弁財天を召喚するには、その名前と肩書きを唱えればいい」と言う儀式のやり方まで教えてくれている。今の所、夢の中でそのような超能力を使う・教える男性というのは登場したことがない。
女性が霊や非合理的なものを感受しやすいというある種のジェンダーロール的な迷信は、主に男性のアニマ像によるものであると類推できる。エスキモーのとある部族では、男性のシャーマンが女装する・衣服に乳房を描くなどして内的な“霊界の女性”との交信を試みるという。これはナスカピ族が夢の中で自己との対話を試みるのに酷似している。
アニマは単に男性の自我が発達するのを助けるばかりでなく、悪影響を与えることもある。アニマ像に大きく影響を与えるのは主にその人の育ての母親であり、母親が自身に悪影響を与えたと感じる人はアニマ像は短気で直情的なものに、一方母親が自身に良い影響を与えたと感じる人はアニマ像は過保護で男性を甘やかす性格となる。アニマ像を分析すればその人がどのようなマザコン(母親コンプレックス)を抱えているかを分析できると言えるだろう。
男性によく生じるアニマ像は、端的にエロい妄想(笑)の対象としての場合も多い。このような女性の肉体的側面しか見ない未熟なアニマ像はしばしばポルノ中毒やフェチシズム、ペドフィリアの元凶となる。
このようなアニマの性質は、同性の影についてと同じ性質を持っている。つまり、それは外部の人々に投影されるとともに「自分ごと」の一部でもある。
アニマ像が実在する女性に投影されると、いわゆる「一目惚れ」という現象が起こる。これは情熱的な恋愛を後押しする効果があるが、アニマ像とのズレが明らかになってくると恋愛や結婚に困難が生じる場合もある。
一目惚れ以上にアニマが演じるより重要な役割は、その人の自己の内的価値観を自我と調和せしめ、より深淵な意義深いものへと進歩させることである。
アニマの発達段階は主に4段階があるとされる。
アニマによる超越機能や個性化の過程が有効に働くのは、主にアニマを形にしようと文章・絵・彫刻・作曲などに忍耐強く励むときであるという。アニマを公然に認められた宗教のみに求めること、あるいは全く個人的な存在であると見なすことは双方ともアニマ像の発展に良い影響とならない。前者は個人的な無意識を抑圧する道具となるし、後者はゲームやアニメ・1人の現実の女性のみに執着してアニマ像の成長を妨げる。
自己 - 心の全体の中心部
影・アニマとアニムスに誠実に向き合うことに成功すると、今度は心の全体の中心部=自己に心の超越機能が働くようになる。夢や無意識では、これは巫女や魔女・愛の女神、グルや守護神・老賢者などなどとして登場する。これは一般に同性の老賢者であることが多いという。今のところ、私の夢に男の老賢者のような人が登場したことはあまりない。
自己が常に同性の老賢者として登場するとは限らない。自己はしばしば、円形物や実在する偉人などとしても登場する。流石に違うと思うが、私の夢には「邪悪なマハトマ=ガンジー」(笑)が登場したことがある。
自己を象徴するもう一つの形が、「リヴァイアサン」の表紙に描かれているような宇宙そのものを包み込む人間=コズミックマンである。インド神話においては、これは全ての物質の起源となった最初の人間=プルシャという形で表現されている。
自己を象徴するイメージは、しばしば結晶や石となる。結晶や石は、普遍で永遠の存在だからである。夢における結晶や石を磨く行為は人格の成長を意味している。
現実と自己 - 現代人を荒廃させる社会
ユング派精神分析医師のマリー=ルイス・フォン・フランツは、現代人(特に大都会の住民)を「空虚さと退屈さに悩まされ、決してやってこない何者かを待ち望んでいる」と分析する。このような空虚さを埋め合わせるために人々は映画やテレビ、スポーツ、ゲームやアニメ、政治的ショーやくだらないゴシップに熱中しては関心を失うということを繰り返す。私自身、ゲームやアニメ・政治的ショーに熱中するというマスコミやネットに踊らされる生活をしているので他人事とは思えない。
このような空虚な近代人に残った価値ある探究や冒険は、無意識であるという。
無意識を探究するには、単にヨガや禅に触れてインド人や僧侶がすでに知っていることを「又聞き」するだけでは不十分だという。真の意味で無意識を見極めるには、自分自身の生きている現実に深く注意を払うこと、現実世界での自分自身の生きがいや義務を満たすこと、夢に登場する象徴やサインを記録して分析することだという。
自己を表現する手段として、多くの文化圏において4分割された円を描くという「マンダラ」という手段があることをユングは発見している。例えばヒンドゥー教や大乗仏教・密教にはマンダラやヤントラを描く風習があるし、ナスカピ族はミスタペオをマンダラとして描くという。同じインディアンの事例だと、ナヴァホー族は「病人が宇宙との調和を取り戻して癒す」という、内的平衡を取り戻すための儀式としてマンダラを用いる。
近代人が無意識を理解することで人格を発達させることを特に困難にしているのは、近代人の生活の特徴である同じ住居、同じ商品、同じエンターテイメントや娯楽…といった「一様性」のためだとフランツは考える。特にファシズムや共産主義・ネオリベラリズムのような一様性を是とし個人の多様性や個性を抑圧する思想に支配されている生活ではこのような個性下の過程はより一層困難になるだろう。
無意識を分析して研究しようと思うと、それが意図しないものを自我に見せてくるので自分自身の意識に反した価値観と向き合ったり、あるいは社交よりも自己実現を優先しなければならない等の都合も生まれるので困難が生じる。個人的には、この困難以前に「こんなくだらない夢しか見ないなら、もう無意識や深層心理学の勉強はやめようか」と個人的なレベルで失望してしまったことがった。この困難を乗り越えると、自分自身の生きがいや他人との人間関係に積極的に関心を持つフェーズに入ることができる。
とある人がプロテスタントの価値観を夢で発展させた例として、フランツは2つの例を出している。この夢の中では、神やサタンの象徴がプロテスタント教会が教義に含めていない内容で表現されている。
夢における他者
夢に他人のイメージが登場するとき、それに対して可能な解釈は2通り考えられる。