指導のタイミングは今ではないと考えて、気付いてはいたけれど言っていなかったことを、いざ口に出そうというときに、その「気付いてはいたけれど、今でないと思って言っていなかったんだ」を伝えることは大事だと思います。「え、どうして今更言うの」という気持ちにさせることになってしまいます。
「知っている」と「できる」はちがう。「知っていてもできない」ことはよくある。自分の場合は、①知っていても行動するまでの壁が高い ②知っているけれど行動しない方が「都合がいい」。こんな気持ちに負けてしまうことがある。「できなさ」は受け入れて、少しずつよりよい方へいけるようにしたい。
「与えられたことをやる」ことの意義と「自分でつくっていく(余地がある)」の目的は全く違うのではないか。それならば、同じ学校行事に取り組んでいても、どちらに重きを置かれているかによって、子どもが身につける力は全く変わってくるのだと思う。
体調を崩して数日投稿できなかったのですが、体調を崩すと、健康のありがたみをひしひしと感じます。でも、それが続くと、それが当たり前になってありがたみを忘れてしまう。不思議です。
効率を求める働き方と、心を大切にした働き方の、どちらも大切なのだと思っています。多忙感や体力的な辛さは、効率によって解消される。そして、人間関係など人と人との関わりも大切にすることで、心の通った働き方ができるのだと思います。
子どもがしにきてくれる話に、目的があるとは思わない方がいい。モヤモヤやソワソワした気持ちをとりあえず聞いてほしい、と思って来ていることもある。「話す」「聞く」それ自体が目的のときだってあっていい。そんな気持ちでいると、心にゆとりをもって子どもの話に耳を傾けられるのかもしれない。
「思いやりをもって接しよう」ではなく、「相手の立場で、物事はどう見えているのか?」と想像してみることで、結果的にそれが相手を思いやった言動につながるのではないかと思う。考え方の習慣だけで、言動も変わると思います。
どの人にも長所があり、子どもも同じ。「相手は子どもだから」「自分は大人だから」というフィルターを外すことで、声掛けの仕方は変わる。「なぜ自分は、こういう指導をしてしまうんだろう?」と悩むときには、このように思考してみることで内面から変えることもできると思います。
表情と目線。その子が自分に対してどのような感情を抱いているか感じ取る最も重要な要素だと思います。目は口ほどに物を言う、は本当だと感じる。ここをよく観察することで、自分のその子に対する働き掛けを見直すきっかけにもなります。
日々子どもたちを間近で見ている担任からしたら、子どもたちの成長は小さなものに感じるかもしれない。でも、期間が空いた時点と現在を比較してみると、大きく成長しているはず。ときにこのように考えることで、子どもたちの見え方も変わるのではないか。
恥が恐い。この気持ちは誰でも少なからずもっている気持ちかもしれない。恥を避けようとすることはできるかもしれないが、恥は学ぶ機会ととらえることで、マイナスなものとはとらえないようになれるかもしれない。積極的に恥をかいていこう。(自分に言い聞かせています!)
「ほめる」ことも「叱る」ことも、教師の基準で子どもに「良い」「悪い」のジャッジをくだすことになる。それらの是非を語ることは難しいことだが、ジャッジをくださず、単純に教師の「気持ち」を伝えるコミュニケーションも大切にすべきなのだと思う。
「すぐに使える」技術や知識は速攻性があり便利だが、それだけになってはいけないと思う。「本質」や「なぜ」という根底の部分を少しずつ積み重ねていくことが、「考えのある自分」をつくっていくのではないかと思う。
その分野にくわしい人が知識を分け与え、全員が高まっていく。分け与えられた知識から、興味・関心の我が広がり、実践してみようという気持ちにつながり、それをまた仲間たちに還元していく。そんな波及を広げたい。
教科学習を語るときに、「~のプロを育てるわけではない」と表現されることがある。(体育指導の目的はスポーツ選手を育てるわけではない、など)一つ一つの教科に学ぶ目的があるわけだが、もっと大きく見るなら、結局「学ぶ楽しさを感じられるようにすること」から外れてはいけないのだと思う。