☆学級経営59☆「正解」ではなく「解」を求める姿勢
自分の考えをただ一つの「正解」だと考えてしまうと、その他の考えを排除してしまおうという気持ちになってしまうかもしれない。
ここでの「正解」とは、文字通り「正しい解(=こたえ)」と定義しておきたい。
正解というものがあるとしたら、それは既に人々が論理的で、かつ一般化されたこたえをもっている問いに対するものなのではないか(数学のこたえなど)。もしくは、正解がある問いとこたえというものは、正解があることによって個人の能力(いわゆる学力)を測るために意図的に作り出されたものであるとも言えるかもしれない。例えば、入試のテスト問題は答えが一つ(または、ここは満たしていないと点数を加点はできないという条件が明確にある)でないとその性質上不都合が生じる。
しかし、わたしたちが生活していく中で、「正解」と呼べるものは果たしてあるのだろうか。
一見、正解に見えそうなすばらしく良質な選択や判断があったとする。しかし、それは様々な要素(関わる人々や一人一人の考え方、時代やタイミング、場所や文化などなど)が組み合わさった過去にも未来にも、世界中にも、ただ一つしかないその状況だからこそ正解に見えるだけかもしれない。
そもそも「正しい」ということが、文脈によって変わってくるものである。
だからといって、「正解はないのだから何でもいい」とか「正解はないのだからどんな選択をしても正解」というような、投げやりであったり、「正解」というものの質を落としたりするような思考ではいたくないとも思う。
私たちの生活は様々な要素が組み合わさった、文脈である以上、そこで直面する課題に対する正解を導き出すことは非常に難しい。(結局のところ、「できない」ということになってしまうかもしれない)
だからこそ、「正解」を考える姿勢が大切になるのだと思う。正解を目指そうとする姿勢があるからこそ「正解」という考え方の存在価値があるとも言えるのではないだろうか。
正解を目指そうとする姿勢をもちながら、自分の「解」をもち、みんなで「解」を練り上げていこうとする意識が大切なのではないだろうか。
ここまでお読みいただきありがとうございました。