(ヴェイユ) 芸術的な創作における霊感の超越性を経験した者にとって、世界の美にまさる明確な神の存在証明はない。
(ヴェイユ) 美は、人間生活における唯一の価値基準である。すべての人間に適応し得る唯一のものである。それ なしには、安逸しか残らない・・・・・・。充実した生活の条件はすべての人間にとって等価であるが、もちろん、その形態は異なる。
「星辰」 おまえたちは突然の輻射で魂を貫き、魂を押しひらく おまえたちは苦もなく魂を天に運びあげる。神のごとき星辰よ。 おまえたちはわれらを貫いて突然の輻射を投げかける。 われらはみつめる、おまえたちの輻射に釘づけられて われらはみつめる、おまえたちの輻射がわれらを釘づける・・・
(ヴェイユ) 一晩じゅう漁をしたがなんの収穫もない。漁師の忍耐は、忍耐のひとつのかたち、ひとつの美しい表象イマージュである。(漁師に固有の霊性はこの点に基をおいて築かれるべきであろう。それぞれの生業における霊性)
美、純粋な歓びとは、超自然的な同意の能力に魂の肉的な部分や「からだ」が荷担すること。これらは欠くことができない。十字架を召命として受けた者にとってさえもそうだ。 美の感情は、われわれには強制である必然が神には従順であることを、魂の肉的な部分のみならず「からだ」にさえも感じさせる。
(ヴェイユ) ―より端的には善の不可能性――は、教義の不条理性が知性にたいして演じる役割を意志にたいして演じる。 この不可能性という試練には、意志を愛に変容させる作用がある。
あらゆる労働、労働におけるあらゆる行為あらゆる祝祭、社会の階層的秩序におけるあらゆる関係あらゆる芸術あらゆる科学そしてあらゆる哲学のなかに超自然的な真理が読みとれるようなそんな生きかた。 そうだ。しかし戦争はどうか。戦争のなかにも、悪にかかわる超自然的な真理を読みとらねばならない
(ヴェイユ) 〈被造物と神をつなぐ霊感が生みだす稀なる接触でさえ、神の永続的な不在にくらべれば、たいした奇蹟ではないし、さほど驚嘆すべき愛の証でもない。 神の不在は完璧な愛のもっとも驚嘆すべき証言だ(?)だからこそ純粋な必然、善とはあきらかに異なる必然はかくも美しいのである〉
(「カイエ4」ヴェイユ) 悪は無辜の存在においてしか感知されない。しかしそこに は悪は存在しない。悪は自分自身に対して外在的である。悪が存在するところでは悪は感知されない。 悪が存在しないところで悪は感知されるのだ。悪を感知することは悪ではない。(???)
(ヴェイユのおそらく私訳系) 「つまらぬことをおこなっている者はみな光を憎む」(ヨハ3) 「私は最良のものを見、それに同意する。しかし最悪のものに従ってしまう」 (これはオウディウス変身譚らしい。まぁパウロ掛けだろう)
(ヴェイユがギリシャ語から私訳 ヨハネ福) わたしが与えるパンは、わたしの肉である。世の命のために、―――宇宙の生命のために。