シモーヌの場合は、あまりにもおばかさん。----ヴェイユ素描----〈16〉(終)

 ヴェイユがティボンの元を離れる、その別離の際に、ティボンは彼女にこう言葉をかけたと言う。
「また会おう。この世でなければ、あの世ででも」
 それに対して、ヴェイユは答えた。
「あの世では、もう会うことはできないのですよ」
 ティボンはこのときのヴェイユの言葉の真意を、「…この世で各自の〈経験的な自我〉を形作っている境界は、永遠の生命の中でひとつとされるとき、消えてしまうという意味だったのだろう。…」(※1)と読み解いている。
 「あの世ででも会えれば」というティボンの願いは、たしかに叶うことはなかっただろう。しかし一方で、「永遠の生命の中でひとつとなることで、それぞれの自我は、消え去ることになる」というヴェイユの「予測」も、おそらくその通りには的中することにならないだろう。もし、この世自体が消えてしまうというのでない限りは。そしてそのことを、彼女自身が望んでいるのではない限りは。
 何一つ満足に成し遂げることもなく、そして何者にもなるに至らず、ただ自分自身という孤島において、自分自身の不幸を独占しきったその生涯。そのような人生をわれわれが知るに至ったのは、しかしまさしく「この世」においてであり、そしてそれは、自他の区別もつかない無名=アノニムなものとしてではなく、他に代えることのできない「シモーヌ・ヴェイユ」という一人の人のものとして、われわれはそれを知るに至ったのである。それは、彼女の本意ではなかっただろうか?しかし、それ以外にわれわれは、彼女に出会いようがなかったのだ、この世界において。
 そしてわれわれはそこに、むしろわれわれ一人一人の生涯を、まさに合わせ鏡のようにして見出さないだろうか?何一つ満足に成し遂げることもなく、そして何者にもなるに至らなかったとしても、ただともかくたしかに今この場に生きている、「事実」としての自分自身という存在を。

 「この世での、あなたの生」は、この世で生きている者が一人残らず消えてしまうというのでない限り、必ず誰かが見ているだろう。もし、「あなた」が一人で生まれてきたというのでない限りは。ゆえにまた、他の誰かが見ているのである限りは、「この世での、あなたの生」は、けっしてなかったことにはならないのだ。もし「あなた」が、生まれてはこなかったと言えるのでない限りは。
 「あなたの生」は、必ずどこかで誰かの目の前にあらわれているだろう。おそらくは、そのほとんどの機会では、「あなたの言葉」として。だからわれわれは、「あなたの生」と必ずどこかで会うことになるだろう。そしておそらくそれは、きっと「この世でのこと」なのだ。
 だからもし「あなた」が、自分自身をなかったことにして、この世から消え去りたいと望んだのだとしても、もし「あなた」が孤独に囚われることから免れなかったのだったとしても、われわれは「あなた」を見つけ出さずにはいられないし、「あなた」を孤独にしておくことができないだろう。
 この世界でわれわれは、「あなた」をきっと見つけることになる。われわれが見つけ出すところの「あなたの生」とは、他の誰のものとも全く異なっているが、それが、「一つのまぎれもない人生」であるという点において、他の誰のものに対しても互いに共通しているものとして、まさしく「あなた」として見つけ出されることになるだろう。ゆえにわれわれは、「あなたの生」を見つけ出しながらも、同時に「われわれ自身の生」をも見つけ出すことになる。それはひとえに、「あなたのおかげ」なのだ。
 「あなたの生が存在した事実」が、けっして消えてしまうことがないがゆえに、われわれは、「あなた」を見つけ出しながら同時に、われわれ自身をも見つけ出すことができる。そしてこの「事実」において、われわれ自身もまたけっして消えてしまうことがないのだと知ることができるのであれば、この事実を「救いとすること」は可能なはずではないか、われわれにとっても、「あなた」にとっても。
〈了〉

◎引用・参照
(※1)ティボン「『重力と恩寵』解題」(『重力と恩寵』所収)

◎参考書籍
シモーヌ・ヴェイユ
『抑圧と自由』(石川湧訳 東京創元社)
『労働と人生についての省察』(黒木義典・田辺保訳 勁草書房)
『神を待ちのぞむ』(田辺保・杉山毅訳 勁草書房)
『重力と恩寵』(田辺保訳 ちくま学芸文庫)
『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー』(今村純子編訳 河出文庫)
吉本隆明
『甦るヴェイユ』(JICC出版局)
冨原真弓
『人と思想 ヴェーユ』(清水書院)

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