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深淵

「個々の存在はひとりで生まれ、ひとりで死ぬ。ある存在と他の存在との間には深淵があり、非連続性がある。この深淵は、たとえば私の話を聞いているあなた方と、あなた方に話をしている私との間にも在るのだ」。ジョルジュ・バタイユの言葉である。
 私達は一人で生まれ、一人で死んでいく。ジャンケレヴィッチの著書『死』に書かれているように。「あらかじめ有限である生を満たすものとは神秘的な愛だ」と彼は述べたが、本当にそうなのだろうか?生が有限であるのは事実だが、それを満たすのは神秘的な愛なのだろうか?
 確かに死について考えると、その恐怖から逃れるために愛と赦しが必要である。人間は不確かな世界へと投げ出され、それを当然のように受け取り、そして当然のように剥奪される。世界を。神を。真理を。その不条理に打ち克つには神秘的な愛が必要である。それは一見真実のように思われる。けれども、その根底には愛こそ真理であるというキリスト教の教えが存在するのではないだろうか?
 私達は愛を絶対的なものとみなしている。けれども、愛とは私達にとって時に残酷なものとなることもある。愛が生の原動力になることもあれば、憎しみがそれに取って代わることもある。私達は愛を選ぶことは出来ないのだ。愛とはア・プリオリな条件ではなく、神から与えられる恩寵なのである。だからこそ、ヴェイユは「真理は、常に死の側にある」と言ったのである。
 私達はどれほど近くに存在するにしても、その間には必ず深淵がある。それは私達がいくら理解しようとしても埋められない深淵である。それは私達がいくら愛し合っても埋められない深淵である。とてつもなく深くとてつもなく暗い深淵。私達を震え上がらせるような裂け目が人間の存在の根底に横たわっているのである。
 存在同士の間には深淵があり、非連続性がある。それが私達の深い秘密であり、それが私達の深い絶望でもある。私達はどんなに愛し合っても深淵から逃れられない。私達はどんなに理解し合っても非連続性から逃れられない。私達の生を神秘的な愛が満たすというのはただの幻想である。私達の生は不条理そのものなのだから。
 けれども、深淵があるからこそ、私達は愛し合おうと努力するのではないか?非連続性があるからこそ、私達は理解し合おうと努力するのではないか?
 私達の存在の狭間にある裂け目を見つめることにだけ、私達は生の意義を見つけるのである。そして、深淵が存在するからこそ、私達の死が意味あるものとなるのである。

         fin

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