カイエ3 ヴェイユ みすず書房

扉の敷居を越えないかぎり、霊的なことがらについては、感覚的なことがらで夢想に耽る人と同じで、想像上の安易さまたは無力さを感じていると思ってはいても、諸条件、必然、不可能性を察知していな いのだ。敷居の向こう側にいれば、これらのものをすべて察知できる。そのとき希望、信仰、隣人愛が、 超自然的な領域における自然な徳となりうるのだ。

可能性の領域において善をゆたかに宿す不可能性はすべて超自然的なものである。


アシジの聖フランチェスコの清貧は創造を純粋に享受したいという願望であった。「これらすべてを糧とし、離脱によって汝を養え。」(イーシャ・ウパニシャッド)

わたしはどこにいても呼吸と心臓の鼓動で天地の沈黙を穢しているのだ。


われわれは時間と空間の無限の厚みを横断しなければならない。だが、まず神のほうがわれわれのもとに来る。さきに横断してくるのは神なのだ。 このとき愛はいっそう大きなものとなる。そこで愛が可能だとしての話であるが。愛は乗りこえねばならない隔たりの大きさに対応する。


「われらの足、天にいます父よ」これにはある種の諧謔ユーモアが感じられる。あのかたはあなたたちの父 なのか。ならばちょいと捜しに行くがいい、あの高いところに。われわれはミミズとまったく同じで地 表から身を引き剥がすことができない。それゆえ神がわれわれのもとに来るには、神が降りてくるしか ないではないか。神と人間の実在的なかかわりを描く方法として、受肉と同じくらいに不可解なものはほかにない。受肉はこの不可解さを目にもあらわにする。受肉は神による不可能な下降を考えるもっと 具体的な方法である。となれば受肉は真理ならずなどということがありえようか。 


十字架は二元性である。〈一者〉を見いだすためには、二元性を消耗しつくし二元性の果てにまで達しなければならない。これが磔刑である。この代価をあますことなく支払わずには二元性の果てに達することができない。


人間を探しに来て、五官の不意をついて魂を奪いとらねばならぬのは神である。したがって、目的を達成するには二通りの方法しかない。自然的な美(天空、海、四季、平原、山脈、河川、樹木、花、空 開―――男や女や子どもの美しい身体や顔)、神がその内部に入りこんだ魂に由来する感覚的な兆候。(言語、芸術作品、行動………………。)

それゆえこれらの魂は重大な責任を担うことになる。かれらは花盛りの林檎の樹のような、星辰のようが在りかたで、神を証明しなければならない。従順の完璧さをもって証明するしかないのだ。 神を観照する特権を有する人びとは、内的な生命の超自然的な部分において、神の憐れみを体験する。 それは聖霊としての神の憐れみである。創造主としての神が憐れみ深いことを信じる唯一の理由は、観照状態というものが現実に存在し、被造物としてのかれら自身の体験の一部を構成しているからだ。

もうひとつ理由がある。それは宇宙の美である。それ以外には神の憐れみの痕跡を創造のなかに見いだしえない。しかし上述の特権的な人びとは、宇宙の美の枠外においても、神の憐れみを証明する。かれらに内在するものが感覚的な兆候となって発散するからである。これらの兆候の存在はじつをいうと神の憐れみの第三の証拠なのだ。

兆候がそれらを発散する人間に依存するのは、霊感インスピレーションの要請水準を下回るものを究極の注意力で排除する詩人に、美しい韻文が依存するのと同じである。かくして愛する人びとは愛の要請水準を下回る軽率な行為を退けようと注意を傾ける。(たとえば拒むも与えるも同等の価値をもつ行為であることを考慮すべきだ。)詩人は読者や神やその他のなにかのために美しい韻文を創るのではない。霊感に捕らえられたからであり、注意力が方向づけられている言明不可能な実在(なにかしら神的なものであるが、人格的なものとしての神の表明ではない)のために韻文を創るの だ。愛の行為もこれと同じである。

詩人は実在的なものに注意力を固定させて美しいものを産む。愛の行為も同じである。空腹で寒さに震えているこの人がわたし自身と同じように現存していると知ること、ほんとうに空腹で寒さに震えているのだと知ること――これで充分なのだ。その後はおのずと行動が生じる。

人間の活動における真、美、善の真正にして純粋な価値は、唯一無二の行為、充溢せる注意力を対象に注ぐという行為から生じる。

恣意性なきところに不意打ちの驚きがある、これが実在的なものが与える衝撃である

限定された事物や人物を限定されたものと知る、魂のすべてをあげて。そのうえでそれらに無限の愛をそそぐ。神と創造が触れあうために自分のなかで場を譲るとは、こういうことだ。


ここまで宇宙の詩情をことごとく失ってしまうには、われわれはよほどの罪を重ねて堕落しきってし まったにちがいない。


ディオニュソス、葉緑素の神。葉緑素は太陽エネルギーとわれわれを結ぶ仲介である。月のおかげで太陽の光をまっすぐ長く観想できるように、われわれは葉緑素のおかげで太陽のエネルギーを食べたり飲んだりできる。葡萄酒を飲むとき、われわれは太陽エネルギーそのものを飲む。いつの時代も気づいていたはずだ。むずかしいことではない。 太陽エネルギーが植物のなかに降りたち、つぎに動物のなかにも降りたつ。かくしてわれわれ人間はこのエネルギーをいったん殺してから食する。植物や動物は地上の太陽と人間の肉的な飢餓をつなぐ仲介物である。これらはみな字義どおりの真実なのだ。 


(イーリアス)「麗しき髪のニオべも食事を思った。」ジョットのフレスコ画における空間と同様の意味で崇高な情景。絶望すらも放棄させる屈辱。


それゆえ完全な離脱にいたってはじめで、偽りの価値の霧にごまかされずにありのままの事物を見ることができる。だからこそヨブは世界の美の啓示と引き換えに、全身を潰瘍と糞尿にまみれねばならな かった。苦痛なしに離脱はないからだ。また、離脱なしには憎悪や虚偽によらずに苦痛を耐え忍ぶこともできない。


「巨獣」は存在を目的とする。「わたしは在りて在るものである。」「巨獣」も同じことを言う。自分が存在するだけで充分なのだ。だが自分以外のものが存在することを認識できず許容もできない。 「巨獣」はつねに全体主義的である。

(抜粋分量多いので、後で下書きに戻します。)

わ〜い!😄