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【目印を見つけるノート】255. シモーヌ・ヴェイユが好きなのです

抽斗の整理をしていたら、カナダドルの25セントコインを見つけました。

このような同期がよくあるのです😊
おすそわけに。
クリスマスももうすぐですね。
素敵な夜に。

きのうもお知らせしましたが、
今日からスタートです。

「鎌倉もののふがたり」(連作)の
「【番外編】もののふの末裔」
本日12月14日(月)から22日まで、9日間連日19:00頃に更新です。30000字弱の短編です。戦国武将・吉川広家のお話です。ちょっと意外な攻めかたをしました。

『鎌倉もののふがたり』
https://www.alphapolis.co.jp/novel/793313132/407276011

ほぼ見直しは終わりました。空白いっさい抜きで現在26,681字ですので、原稿用紙換算だと80枚強ぐらいになるのかな。


⚫クリスマス前のシモーヌ・ヴェイユ

不思議なのですが、この時期になるとシモーヌ・ヴェイユのことを思い出します。
つくづく典型的な日本人である私は簡単にクリスマスに便乗してしまうのですが、シモーヌのことを思い出すとバランスが取れるように思います。

シモーヌ・ヴェイユは20世紀に生きたフランス人です。バッサリのおかっぱ頭にまん丸メガネの女性。

お兄さんのアンドレは数学の天才。その業績は数学が苦手な私には説明不可能です。有名な数学者の谷山豊さんがアンドレを「天才」と言っていることだけ記しておきましょう。

シモーヌもバカロレアをパスしてパリ高等師範学校に入学、ソルボンヌにも学びました。その頃から彼女は変わり者として目立つ存在でした。同学のシモーヌ・ド・ボーヴォワールは彼女のことを、地味ないで立ちで回りにすぐ議論をふっかける人だったと書いています。あだ名は「スカートをはいた定言命令」だったそう。カントか!

ボーヴォワールの『娘時代』という作品に書かれています。
あるとき、彼女はヴェイユと議論をします。人にとって大切なものは何かというテーマだったのでしょう。ちなみに原文ままではありませんのであしからず(高校時代に読んだきりでうろ覚えなのです)。

V「最も必要なのは、すべての人に食べ物を与える革命よ」
B「うーん、人の中にそれぞれ存在の意味を見いだすことが大切なのではないかしら」

ヴェイユはボーヴォワールに言いました。
「あなたが空腹に苦しんだことがないのは明白ね」

ひゃあ、一刀両断です。
どちらも正しいのですけれどね。
この一文は思想がどうとかではなく、二人の後にいたるまでの目的とか方向の違いを表すために出されたもののようです。

ヴェイユは断定的でしたが、その根っこには弱い立場に置かれている人を救いたいというのがありました。だからと言って革命がいいと思っていたわけではありませんでした。それがあっても虐げられる人がいるということに気づいていたでしょうから。彼女はアラン(エミール=オーギュスト・シャルティエ、哲学者)に師事しましたが、彼の影響が最も大きかったようです。
そして大学を卒業。高校の哲学の教師になります。

ここまでは、想定の範囲内です。

彼女はリセ(女子高校)の教師になりますが、組合活動などが問題になり学校を転々とします。そしていったん休職してどうしたと思いますか。

工場で働くのです。いくつ?短期で8つの工場で。ルノーでも。これもひとつの実践だったでしょう。

おりしも、スペインでは内戦が勃発します。左派の政府とフランコを中心とした右派反乱軍が衝突したのです。ヴェイユはこの戦争に義勇兵として参加したのです。
補足するとヘミングウェイも同じことをしました。ピカソが『ゲルニカ』で描いたのはこの内戦です。

ヴェイユは幼少の頃、第一次世界大戦に参戦していた兵士と文通をしていましたが、兵士は戦死しました。彼女の行動にはそのような背景がありましたが、何より彼女は、「身をもって知らなければならない」と考えていたと思います。

言葉ではなく、身をもって実践するということです。そしてその間もずっとものを書いていたのです。今のようにSNSはありませんので、純粋に自分の思索を深めるために。この辺りに、私はパスカルとの共通点をみます。彼はコートのポケットの裏に『パンセ』の草稿を縫い込んでいました。

スペイン内戦の義勇軍で彼女は炊事係でしたが、大火傷をしてしまいます。そこであえなく帰国しますが、それは神の思し召しだったのかもしれません。工場労働と内戦の疲れは彼女の健康を害してしまいます。

彼女の身体は理想の通りに動くほどに壮健ではありませんでした。彼女もそれを理解したでしょう。

そこから彼女は神に、信仰に近づくようになります。ポルトガルで、聖フランシスコゆかりのアッシジで、彼女はその兆しを得ます。そしてひどい頭痛で苦しむようになったある日、ソレム修道院で彼女は決定的な経験をします。

世の中は、フランスは酷い状況になろうとしていました。ナチス・ドイツの台頭、フランスでは親ナチスのヴィシー政権が樹立されます。自由を求める人々は抵抗運動を起こしますが、激しく弾圧されます。
詩人ポール・エリュアールの『自由』という作品はこの頃書かれました。そしてイギリスの空軍機が詩の書かれた紙をフランスじゅうに撒いたそうです。
その詩は……打つ余力があったら😉

言葉に力を、人に希望という力を与えるべきときでした。

ヴェイユはこのとき、マルセイユに移っています。ここでドメニコ会のペラン神父と出会い、その紹介で農業に従事する哲学者ギュスターブ・ティボンに出会います。この二人との出会いが彼女の思索を深める力になります。彼女は救いを求めるひとりの人として神を求めることについてたゆまず書き続けます。
しかし、ナチス・ドイツ政策の余波が及ぶようになると、ヴェイユはマルセイユを離れアメリカ経由でロンドンに渡ります。本当はレジスタンス(抵抗)活動に参加することを望んでいたようですが。

イギリスはチャーチル首相の有名な台詞「Never Surrender」の通り、ナチスに対抗しド・ゴールが指導する『自由フランス』本部が置かれていました。ヴェイユはここで文書作成の仕事につきます。やはりここでも、彼女はもっと実践的な仕事がしたいとド・ゴールに伝えましたが、断られたそうです。

もう彼女の人生に残り時間はありませんでした。
彼女は体調を崩して倒れ、アシュフォードで息を引き取りました。1943年8月24日のこと。享年34歳でした。

2つの大戦の間にひそやかに咲いて散った人生でした。

彼女の行動を見ると、不器用だったし完成にいたらなかったものが多かった。それは病弱だったこともありますし、彼女の行動の基盤になっているものがあまり理解されることがなかったからかもしれません。晩年の頭痛もたいそう彼女を苦しめました。

それらすべてを通じて、彼女はひたむきで真摯でした。そこに虚飾や自己顕示欲は一切ありません。
身体の不調が続く晩年には、信仰についての思索を重ねることと祖国の自由にすべてを捧げました。

🐦

彼女の人生を知るにつけ、まるでギリシアの修道士のようだと思います。俗世を絶って修業しなければと巨石の上に修道院(メテオラ)を築くかのような禁欲、あるいはみずからに過重な試練を課すさまを。

もっとも、彼女は人から離れることを望んではいませんでした。彼女の、後年出版された著作『神を待ち望む』、『根を持つこと』を読むと彼女がどれほど信仰を大切にし、それを実践に生かそうと願っていたのか分かります。
おっと、私がそれらを読んだのは中学から高校にかけてですので、そのときの印象です。

私はいま、どの宗教にも属していません。
ミルチャ・エリアーデ(宗教学者)のような、それがどこに落ち着くのかというような考え方をしています。
そして、どこかに落ち着く場合でもパスカルやヴェイユのような思いを抱くまでは、文章にして表現することはないと思います。あくまでも個人の、自分自身に対する考えです。

と偉そうなことを言いましたが、
クリスマスケーキも食べますし、初詣もします。

けさ、五島(ごとう、長崎県)の五輪教会のガイドをされている方が出ているニュースを見ました。
その方を見ていたら、なぜかヴェイユのことを思い出したので、書いてみました。

あぁ、天草と島原と五島に取材に行きたーい!
行きたい行きたい行きたい。

失礼しました😅
しかも、もう3600字も書いちゃいました。
シモーヌのこと、好きなんだなあ。
パスカルも大好きです。
私もメテオラには登れません😅

今日の気分はこちらです。
スティーヴ・リリーホワイトのプロデュースだったのかと思いますが、この感じはやっぱり好きなのです。
テレヴィジョンのヴィジョンがあるような。
U2 『A CELEBRATION』

それではまた、ごひいきに。

尾方佐羽

追伸 そうきましたか。

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