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好きなリリックを列挙して良い〜ってなっていく

なっていきます。 1. Let It Be (Feat. Kid Fresino)/Daichi Yamamoto “中身が無いの最高だね あがれる奴ら前においで Dress code, Table charge 鼻で笑う 楽しみな 止めたら終わり (Done) 流れは切れない永遠に 泡のよう消えた記憶は Metro に置いたままになる Diamond glow like me Everything I do is shine I'm kid 赤いワイン零れ落ちる Nik

    • 水上文「特集 女と人生」感想

       「女と女」。その記号が指示する関係性は如何なるものか。「百合」? 「女同士は見栄えがしてうつくしい」? 「儚くてきれい」? 今まで女と女という記号に付与され続けたあらゆる無実体なフィクション性を、この本は大胆な身振りで蹴散らす。女と女が相対し精神の密約を交わしたとき、そこに顕現するのはきよらかで楚々とした花ではなく、生々しい脈動と性愛と愛執、捻じきれんばかりに蠢く情念と情動であったと告発する。そしてそれらを「百合」として消費し商品化しようとする欲望の手をきびしく払い除け、警

      • 「重力と恩寵」読書会後再思片・前

        1 重力と恩寵  重力(pesanteur)と恩寵(grace)。pesar(重さがある、重さを量る)の名詞としてのpesanteurと祈りや祝福などの意味を持つgraceという二つの概念による対立構造から本著は構成される。対立構造といっても反発しあうものではなく、重力の作用の外側から恩寵が存在を包みこむというような次元の違うものとして扱われている。ここで示される重力という観念も本来の意味での重力、自然界に天衣無縫の姿で現れてあらゆる事象に作用を及ぼすものとしての重力とイメー

        • 地上聖唱(5/24叢雲歌会)

          そう、夥多をかかえてしろき前腕再た人を擁きしめる 営。 この肉にはいくつの罪業ありしや───セルは菌のごと蠢きもて眸醒むる ほほ蒼きイヴのまみにし募りゆく火焔とうとうアダムしらざり こよい背なに坐す罪障したたり地上いちめんに沼 さいわいとはかくも疎ましき響きして搖籃は炎えん。ゆらゆらと・・・炎えん よもすがら指折りしたるは頬痩ける天使の毟られにし煤の灰翼 みどりごの天使郡がいっしんに西日へ墜つればほろびよ近き 贖罪よりも罪深き罪はなし ああ!炎えているソドムが見

          北上郷夏「明日なき旋律」感想

             僕達は憎む。  ただし、  憎むように愛す  孤独な炎を愛撫して  私だけの既視感(デジャヴ)にしよう  当書は序文という門扉の開きに誘われ、魔境のごとき映写が幕を上げる。詩と呼ぶにはあまりにも痛々しい、肉々しい、いまだにして血の滴る昔日の輪切りが私たちを待っている。此処には自らを韜晦するものなど何もない。露悪とも評しうる露顕、その鮮明の大きさに一見のみでは眩惑の気配に曝されるけれども、実態はあくまで徹頭徹尾、あらわである。  さて、じつは私、谷川俊太郎以外で同

          北上郷夏「明日なき旋律」感想

          短歌とは如何なる菓であるか

           短歌とは一体なんなのか。近頃私の脳髄を占めるもっぱらの疑念である。短歌とは五七五七七から成る計三十一文字の近代定型詩だ、というのが、まあ一般的な定義には相応しいだろうが、その規定枠の中で何が描かれるべきであるかは存外にも黙してみな教えてはくれない。であるので、自分なりに考えてみようというのが当記事の趣旨である。因みに筆者は短歌史の心得が薄いのに加え、趣味程度に短歌を嗜むばかりの浅学非才であるので、ぽっと出の素人の独り言くらいに捉えて戴けると嬉しい。  短歌とはなにであるの

          短歌とは如何なる菓であるか

          雑記

           光があり、闇があり、天があり、地があり、その末端にいるわたくしという毛先に自由が与えられました。その遣いは心魂に相応しからぬ肉体という器にむりくり押し込められたために窮屈で不自由な思いで起き臥しをしておりましたが、徐々にこの肉体と魂のことを体感として理解するようになると、これがまた事象と情念の擦過と起爆、爆風より産まれ落つる雲煙のゆらめきがことにおもしろく、生のあそびとして愛好するに足るものと思われる。そも、わたくしどもはうちがわから火を灯す感情なる吾子をみずからそのものか