今、高速船の中にいます。本州から100キロ離れた島から、そして本州へと向かう船で、これは2時間で100キロという距離をすいすいと進んでしまうようです。しかしこの揺れ具合と言ったらすいすいとは言えない具合。ゆらゆらよりもぐらぐら。私が今、と言葉を手の中の光る板に打ち込むだけで、この今は、今、という言葉の中に閉じ込められてそのまま保存されて、その今、という言葉はこの今、をそっくりそのまま孕んでいることになるわけです。それはなんとも面白おかしい事だけどやはりこの今、は今の中にしかな
どうしても、口を開けば開くほどに伝わらない何かが溢れてきてしまう。 きっとそれは何かを伝えようとするには逆効果で、沈黙が何かを伝えることがあることも知っていて、口をきつく結んでしまえばいいものを、それでも果てしもなく生まれては流れ出てしまう言葉。 喋り倒すことと、口ごもることしかしらない子供のように、目の前の人の目には映らない自分の姿はあまりに惨め。 言葉を信じない人、それに対して私が信じる言葉は空虚で無力。沈黙という名の言葉ですら、その人に届く前に空気の中でほどけて消えて
秋が来るということは なにかを失いかけるということ 秋が来るということは 残ったものを数えるということ 秋が来るということは 耳と肌でその新しさを感じるということ 秋が来るということは 何かを手放そうと試みるということ
ラムネの乾杯で幕開けた幻想のように美しく季節が過ぎ去っていくことの表象であるように速く過ぎ去った日々のすばらしさを胸に抱えきれずに夏が終わる予感に目を閉じている
あーあーああ来たね来たよねこの感じ。 つらいね、見慣れた顔だね。その切ない体つき。 懐かしいね、でももうお別れしたかったんだけどな。 それはきっと夏のせいかもしれなくて、窓の外から飛び込んでくる蝉の声や、その熱の中にこもった音のせいでもあるみたい。 そうきっと、それは俺のせいではないでしょ。 目の前が暗くなる。もう何も見たくないと願ってしまう。厭になっちゃうな、なんだって出来るはずなのに。 眠ってしまえばなんともない。明日には全て上手くいっていて、でもどこかなんとなく、明日が
移り住みました。六畳一間、木造アパートの二階、築三十年以上。日当たり良好、角部屋二面採光で風通しも抜群。文章を書いていなかったのは、ばたばたばたとしていて文章を書く暇もなかった、という訳ではなく文章を書く心的余裕或いは心的窮屈が無かったからです。 今までは実家に住んでおりました。家族と共に。昏々と過ぎ行く毎日に嫌気がさしたという訳でもなく、しかしながらにどうにか何かを変えなければという焦りが常にあり、そんな訳で一人暮らしをようやく始めたという訳です。 実はそれも建前かもしれ
花火がとっても好きでして。なぜならそれは短いから良い、短いことが良い、を体現するような現象だからです。 だって一時間も二時間も続く線香花火があっても誰も惹かれないでしょう? あの短さや、あの儚さ、あのか弱さ、いくつかの一瞬だけで構成されたあの時間。 火花をそこら中にまき散らして、完璧な命を見せびらかす花火。 それと終わったあとの静けさ。終わってしまった喪失と虚無、それからの未来を予見する空白。 海で花火をやるとまたこれいいんですよね。 花火の音の空隙を波が埋めて。 でも波
突然鳴り響くサイレンに もうやめてくれと耳を塞ぐ それでも赤く点滅するランプの間隙が どうしようもなく焦らせる ある程度の余裕を持って もっと誰かを受け止められる視界の広さで この世界を闊歩、しかしゆるやかに確実に 歩くことが出来ればそれは素晴らしい 優しくありたいと願う時 自分には優しくなれていないので 誰かに寛容であるということは 自分に不寛容であるということ 自分に寛容であるならば 誰かにはきっと不寛容 人身事故の影響で 電車の到着が遅れております あ、私の指先
ホームにやってきた電車を一本見逃した。 特に理由もないけれど、電車が滑り込んでくるところから遠くへゆくまでを見ていた。 電車に乗ってしまえば、なにか大きな流れに追いやられて考える時間がなくなってしまうような気がして。 ドアが開いて、乗客と目が合って、そのままドアが閉じる。ひとつのドアが忙しさを境に私と電車の中を分断するように閉まる。 営みを乗せて走っていく電車、さようなら。 もうすぐ私もそちらへ行きますよ。 ただもう少しだけこうして居られればいいから。 次に来る電車に私は
本棚の余白がうまっていくのは季節が過ぎてゆくのと似ていますね。 いつかはこの余白もうまっていくんだろうけども、目下うまりそうにもないな、などと思っていたらそれはいつの間にかうまっていて、うまっていなかった頃の自分を忘れてしまいそうになります。 今の私は、春が来る前の頃の私を覚えていますでしょうか。覚えていると思っているそれは、ただの外郭であって私ではないのではないですか。 どうにか覚えておきたいと思うのは、いなくなってしまう寂しさが怖いからであり、しかし寧ろ忘れてしま
なにやら常に焦っている気がします。 時が流れて季節が変わっていくことやら、年齢を重ねて大人と呼ばれる存在になることやら。 自分のしたいことをしたいままにできるのは一体いつまでなんでしょうと思います。それは、したいことなんて死ぬまでできるんですわと言える人もいるのでしょうが、そないなことは若いうちにしかできまへんがなと言う人もいて、私はおそらく後者。 そうやって若さに価値を見いだしてしまうから、それが徐々に損なわれていくことに焦りを感じるわけなのです。 さてでは若さとは一体な
自分の思っていること考えていること悩んでいることが、これが他人には見えないのだとわかる時、もうこれ以上何もしたくないという気分になる。どこまでいっても一人なんだと、世界から隔絶される突き落とされる取り残される。生物が個体であること、それに対する絶望と失望。果てしない渇き。 伝えたい伝わらなさの葛藤。目に見えないもの、耳で聞こえないもの、感覚の損なわれた手触り。それらをどうして伝えたいと思ってしまうのかが謎、人間という生物の謎。 そういった種類の葛藤が、人間のなかに幾つもあるか
よく歩きます。とてもよく。一人でいる時、予定もなく、ほとんど時間の縛りもない時、どこまで歩こうかということも決めずにただあてどない歩行を続けてしまうのです。誰かが一緒にいてくれれば馬鹿なことはよせと止めてくれるけれど、精神と疲労との中だけでやり取りしている時には、とめどなく歩いてしまうのです。 歩くということは、ただ足を動かすだけでなく、なんと身体が移動を続けているわけです。身体が移動するというのはつまりその中に詰まっている思考や知識、経験や記憶、倫理や感情などの全てが移動
本棚が欲しくって欲しくって、欲しいと思い始めてからもう二年は経ってしまった。今現在君臨しているのは写真の通りごちゃごちゃで(ごちゃごちゃもとても好きなのだけれど、無秩序と秩序のバランス感)本棚というよりは活字置き場てな状態。 人の本棚を覗くのが好き、どんな本が入っているのかでどんな人なのかがわかるような気がする。しかしそれに留まらず、本棚それ自体が好きになってしまった。自分の好みの本棚を探しているうちに、こだわりは強くなってしまって更に見つからない。 さて私はどんな本棚が良く
どんどんどんどん、季節の流れる速さが増している。 それもそのはず、私が一歳だった頃のひとつの季節というのは、人生のたった4分の1だった訳だが、今は人生の19分の1の4分の1、つまるところ76分の1でしかないわけなのであるのだ! こんなはちゃめちゃ理論はさておいたとしても、やはり体感的には異常なスピードで季節が流れていくわけで、さらに私はひとつの季節が過ぎ去った時、それが取り戻せないものであり、季節は円環ではなく直線だということを知ってしまっており、季節が過ぎ行くというその事
写真が下手なんです。 携帯がAndroidで画質が悪いということもあり、手もよく震えてるので、いざ写真を撮ろうとしてもブレブレ、光もどうなってるのかよく分からんとんでも写真が撮れてしまいます。上手く補正してくれるカメラを買えばそれでいいわけですが、どうにもその気にはなれません。ブレてはいてもいい写真というのも世の中には沢山ありますが、私のそれはただただ下手くそなだけであり、それを見ると写真を撮るのをやめようと思ってしまうという円環が出来上がるわけですね。 しかし、写真を撮ると