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2024年6月の記事一覧
シン・現代詩レッスン29
テキストは『文選 詩篇(1)』から「献詩」曹植「躬を責むる詩」。そもそも漢詩に興味を持ったのは中国ドラマを観ていて、やはり漢詩がでてくるのである。中国ドラマでは『光る君へ』で和歌が重要なポイントになっているように漢詩も重要なポイントになっているのである。そもそも日本の歌物語(『源氏物語』のような)も中国の古典の影響を受けているのであった(『白氏文集』とか『文選』などはテキストして引用されたりした)
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テキストはエーリヒ・ケストナー『人生処方箋詩集』。そもそも詩が作者の意図通りに読まれるということがあるだろうか?例えばここにまとめられた詩は、ナチス・ドイツによって禁書とされ、ドイツ人の学生たちの焚書のターゲットとなった詩なのである。それ以前の詩は、ドイツの若者たちを熱狂させた詩であると言われている。それはケストナーが意図してベストセラーを狙ったり焚書の憂き目に合わせるために書かれた詩でもなかった
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テキストは寺山修司『戦後詩』,第五章「書斎でクジラを釣るたまの考察」から。最終章はベスト7選出なのであった。ベスト5でもなくベスト10でもなくラッキー7が寺山修司らしさなのだろうか?あまり数は問題ではなく、寺山修司がどんな詩人を選ぶかだった。詩ということだけれども、俳句と短歌も入れている。それは桑原武夫「第二芸術論」を踏まえてのことだ。つまり俳句でも短歌でもそれが十分文学として成り立つとした上であ
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テキストは寺山修司『戦後詩』,第四章「飢えて死ぬ子と詩を書く親と」から。サルトルの言葉「飢えている子共たちの前で詩は可能か」。詩ではなく文学となっていたのだが、そういうサルトルは文学を続けてきたのではないのか?ひとりサルトルだけが特例ということはあるまい。要は飢えている子供たちとは関係ないような資本家の手先になるような詩ばかりがこの時代横行していたのかもしれない。
こういう言葉は考えなくてもいい
シン・現代詩レッスン24
テキストは寺山修司『戦後詩』に戻って第二章「戦後詩の主題としての幻滅」から。寺山修司が否定する戦後詩は「荒地」派の日本の先行き真っ暗だぜという、今読むとけっこう惹かれてしまうのだが、寺山修司は今いる若者のようにそんなに未来がなくてどうするというものだった。そこで持ってきたのが朝の思想という「おはよう」詩というような谷川俊太郎を上げるのだった。だが今の日本の状態が谷川俊太郎のような詩が一人勝ちのコピ
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テキストは『教科書の中の世界文学: 消えた作品・残った作品25選』から尹東柱「たやすく書かれた詩」。90年代は学校教科書に尹東柱の詩も載せていたのだ。韓流ブームだったからか?直接の契機は茨木のり子が紹介した本『ハングルへの旅』がヒットしたからとあった。他にも李正子(在日歌人)の短歌が掲載されていたりいた。1989年の芥川賞が李良枝(在日作家)だった影響もあるようだ。
ただし同じ頃に高史明のエッセ
シン・現代詩レッスン22
テキストはハン・ガン『引き出しに夕方をしまっておいた』。ハン・ガンは小説が紹介されて韓国文学ブームを起こした韓国の作家。私もハン・ガンは大好きな作家で過去にもnoteに紹介していた。
今日はそのハン・ガンの詩で韓国では最初詩人としてデビューしたそうである。韓国では詩が盛んな国なのは民主化運動とかあったからかもしれなかった。日本の60年代の雰囲気で言葉に対して熱かったのだ。今はその後の日本のように
シン・現代詩レッスン20
テキストは『続・長谷川龍生詩集』。続になると散文詩もあったりして難しくなっていく。ちょうど、70年代の万博の頃から、この頃が高度成長期の衰退の始まりだったとか。絶頂期にも思えるが。公害問題や学生運動の敗北やらの陰が見え始めた時期だろうか?実存主義から「しらけ」世代という感じなのかと思う。長谷川龍生は外タレの客引き(広告業か?)をやっていたが排除されたという。そうした中で企業主体の暴力性社会があった
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