シン・現代詩レッスン25
テキストは寺山修司『戦後詩』に戻って第三章「詩壇における帰巣集団の構造」から。詩より短歌や俳句にみられる結社主義みたいなもは、作者=読者であり、きわめて内輪的な「鬼ごっこ」をしているという。そういう場を以前なら否定していたかもしれないが「遊び場」みたいなスペースならそれもいいかなと思うのである。それは孤独になることは当たり前のように自分の中にあるからで、そういう2面性を生きるゲーム化はありじゃないかと思うのだ。句会はそういう世界なのかなと思う。ただ自分が入って楽しめる句会というものがないだけなのかもしれない。
だからこんなことをやっているのだ。ひとり同人誌じゃないが、まあ似たようなものだろう。そりゃ、寺山修司のように社会に出ていけるだけの才能があればいいが、はたして自分にはそんな才能があるのだろうか?あくまでも詩人は職業ではなく生き方の問題だと思っている。それで世に出ようと思う部分もあるのかもしれないが、それ以上に自分の好きなことしかやりたくないのだった。はたして自分は誰と鬼ごっこをしているのだろうか?
もう神と鬼ごっこをしているとしか言いようがないような気がする。神なんて信じる者ではないが、宝くじが当たるように神に祈るとかそのぐらいの次元で神に気づいて貰いたいのである。まあ気づかれないでこのまま終わっても後悔はしないと思うが。それはこうした記録が残っているからだろうか?発信していく藻屑となるようなネットの中でも、そうした場でしか生きられないコトバなのかもしれない。
精神安定剤のようなものなのだろうか?詩人としての活動なんて、書くぐらいしかないのだった。寺山修司の言う社会化ということは詩でなくても散々やってきたことだった。だからせめて詩ぐらいは社会からドロップアウトしようとも続けていくしかないのである。そのぐらいの覚悟はあるのだ。
あと寺山修司が「自分の言葉」なんて言うとは思っていなかった。そもそも言葉は己以前にあるのだった。だからそれを借りて虚構世界を作っていることにしかすぎない。それは「他人の言葉」であっても借りているのだと思う。そうして言霊としての言葉を後世に伝えていくのだろう。
だから割と「荒地」派の詩が好きなのはその雰囲気だけなのかもしれない。趣味なんだろうか?寺山修司が上げる茨城のり子よりも寺山修司が下げる(批判する)吉野弘の詩のほうが好きだった。今日は交互に真似てみようか?
抽象的な言葉だけれども意味はつかめる。むしろおのれに当てはめて共感したり反発したりするのではないのか?寺山修司が反発したのは、それをサラリーマンの詩だと読んだからなのか?例えば帰ろうとすればいつでも帰るのが詩人なのであるという。そのあとは無職になるわけだが。たぶん、ほとんどの者はおのれの思い通りに出来ないことの方が多いのだ。だから考えるのであり、少しでもおのれを取り戻したいと思うのだ。ふたつは同じことを言っているので今回は一回だけでいいのかな?
とりあえずタイトルなし。当たり前であまり面白みはないのかな。
描写が具体的なっているところは吉野弘の詩よりはいいのかもしれないが、そんなどうでもいいようなことは祈らないな。もっと強く祈りたいのはいい詩が書けることかもしれない。それ以外は明石の鯛が食べたいとも思わないし、幾種類ものジャムも必要なかった。吉野弘が否定的な思考なのに、茨木のり子はおのれの肯定感なのか?肯定したいものは死ぐらいしかないような。だからそれを詩に変える努力をしているのだ。
やっぱこういうコトバしか出てこなかった。まあ映画に行きたいとか面白い本を読みたいというのはあるが、そんなことはいつでも手に入れられる。
ほとんど共感しかないが、抽象的なコトバからイメージするのは個々の経験なのだろう。そして時間と書かずに時刻と書くのがポイントかもしれない。その時刻という刻んでいくコトバがこの詩のリズムを刻むのだ。間にある時間ではなく(それは他人のための社会的時間なのか。
ふたつを合わせてみた。リズムが欲しい。
結末。短いけど上手いな。「鍬」が象徴になっているのか。金に秋なんだよな。ただそれは黄金の光を纏う鍬になるのであろうか?その時刻。これは夢の詩のような気もする。
「欲望の資本主義」だな。ただその欲望から不幸が生み出されていく構図を分かっていないのか、わかろうとしないのか?欲望だけがすべてではないと思うのだが、詩を書くことも欲望であった。何が違うのだろう?自己肯定感なのか?