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シン・現代詩レッスン26

テキストは寺山修司『戦後詩』,第四章「飢えて死ぬ子と詩を書く親と」から。サルトルの言葉「飢えている子共たちの前で詩は可能か」。詩ではなく文学となっていたのだが、そういうサルトルは文学を続けてきたのではないのか?ひとりサルトルだけが特例ということはあるまい。要は飢えている子供たちとは関係ないような資本家の手先になるような詩ばかりがこの時代横行していたのかもしれない。

こういう言葉は考えなくてもいい人が考えすぎて動けなくなったり、本来考えなければ行けない人はなんとも思わないということなのかもしれない。サルトルの言葉が力を持っていた時代ならいざ知らず今の時代ではそんなことを考えられるのはよほどのエリートなのであろう。世の中に役に立つ詩というものを売り物にしているのなら、無論詐欺師であろう。「詩を作るより田を作れ」という成果主義はもともと田んぼさえない者は言葉巧みに生きていかねばならないのだ。そこに正義の思想も悪の思想もなく、ただ存在する言葉があるだけだ。それがどんなに非難されようとも彼に必要なら存在するのだ。

エーリッヒ・ケストナー『抒情的人生処方詩集』は、民間療法的な科学的知識を元にした思索的な言葉ではなないが、どこか納得させてしまうような詐欺師的な効用があるのかもしれない。それは詩なんて信じられないものいには何も響かないのだろうが、そういう詩的言語に触れたことがあるものはなるほどと思うものなのか?その秘密を探ってみたい。

自信がぐらついた場合

往ってしまいたい さりとて隠れる場所もない
自分で葬る意外に途はない
どっちを見ても 黒い斑点が浮かんでくる
ひとは死にたくなる さもなくば休暇がほしくなる

エーリッヒ・ケストナー『抒情的人生処方詩集』

思いっきりネガティブな言葉から始まる。ただそんなことは誰もが思うのではないか?ほとんど変えるところがないぐらいである。ただオリジナルティは必要だと思うのでタイトルを変えていけばなんとかなるかもしれない。

自信なんてはなっからなかった
往くこともできず、さりとて隠れるのも苦手
自分を葬るより祀り上げよ
どっちを見ても闇ばかりで
光は差し込んでこないが動くことも出来ない

もうじきこの憂鬱が消えることはわかっている
来るたびにいつも消えた
下りたと思うと こんどは上がるのだ
霊魂がまた扱い易くなる

エーリッヒ・ケストナー『抒情的人生処方詩集』

憂鬱がない人間なんて信じられない。そんなノー天気なやつとは絶交だ。天地真理の歌が流れてきて天使の声だなと思う。天使の憂鬱。

当時は「萌え」の意味は「燃え」だと思って家が火事になった子の歌なんだと思っていた。それにしても天地真理の声は天使だった。後に腹黒アイドルと知り人が信じられなくなった。霊魂のせいなのか?

もうじきこの歌声が消えるのはわかりきっている
聴くたびにいつも蘇る
安定した正息
霊魂よりもヴォイス・コントロール

一人はうなずいて言う「それが人生だ」と
もう一人は頭を揺さぶって泣く
世界は円い それにくらべておれたちはスラリとしている
そんなことが癒めになるか? そんな意味ではないのだ

エーリッヒ・ケストナー『抒情的人生処方詩集』

最終章はどうでもいい話になっているな。無駄話だった。ただ無駄話も必要なんだと思う。癒やしを求めているのではなく反発するためなのかもしれないから。

アイドル

自信なんて、はなっからなかった
往くこともできず、さりとて隠れるのも苦手
自分を葬るより祀り上げよ
どっちを見ても闇ばかりで
光は差し込んでこないが動くことも出来ない

もうじきこの歌声が消えるのはわかりきっている
聴くたびにいつも蘇る天使の歌声
安定した正息
霊魂よりもヴォイス・コントロール

アイドルなんて腹黒い者だと
そう僕はいい、それを真っ赤な顔で否定する君
僕たちはほんの少し幸せになるだけでいいんだ
悪魔だってそんなことは百も承知さ


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