シン・現代詩レッスン20
テキストは『続・長谷川龍生詩集』。続になると散文詩もあったりして難しくなっていく。ちょうど、70年代の万博の頃から、この頃が高度成長期の衰退の始まりだったとか。絶頂期にも思えるが。公害問題や学生運動の敗北やらの陰が見え始めた時期だろうか?実存主義から「しらけ」世代という感じなのかと思う。長谷川龍生は外タレの客引き(広告業か?)をやっていたが排除されたという。そうした中で企業主体の暴力性社会があったという。それがカフカの詩を書かせたりしたのか?
もともと逃避癖のあるような詩人だった。鉄道詩や象徴詩には宮沢賢治的な詩を感じる。実際にある地名でも遠い外国というような幻想感に溢れている(当時は共産圏は気軽に行けなかっただろう)。あるいは日常接する駅でもルビをふることで幻想てになっていく、「泉(ファンタン)という駅」では実際にある泉の駅を「ファンタン」と読ませて記号の詩的空間を作り出す。それは『恐山』のようにイメージ(象徴)としての「恐山」のような詩的空間であったのだ。寺山修司のコトバだと記号的体験(虚構体験)を得る芸術(芸能)だったのかもしれない。演劇から映画・TVと様変わりしていく社会の中で詩も大衆の心を掴まなくなった。今ではその記号的世界はヴァーチャル・リアリティのコンピュータ・ゲームとなっているのかもしれない。
ただ一つのコトバが映像化される芸術家は一つの役割として脚本家だったり原作者だったりするぐらいのもので、映画が大衆芸術となっていく過程ですでに芸術という作家主義よりはエンタメとして大きく変化したのかもしれなかった。そのアンバランスさが長谷川龍生の詩にはあるのだと思う。どこか大衆性を求めながら排除されていく個性のような。
「王貞治が6番を打つ日」はかつてのスーパースターが巨人から排除され地方球団(ダイエーホークスか)に引き抜かれる(監督としてだが)までの詩なのかもしれない。その不動の4番という打順が降格されていく時代の浮き沈みを詩にしたのかもしれない。その情景は時代を共有したものにはわかるが、まったく共有しないものにはセンチメンタルに響く詩かもしれなかった。ただ王貞治と特別なヒーローの凋落は神であった天皇が人間天皇になるほどの衝撃だったのかもしれない。
長谷川龍生は詩に神とか見出さない記号論的なコトバの詩人なのだが、この詩は興味深く感じてしまう。
いまでは不思議なのだが、あの頃はみな野球小僧だった気がするのはスポーツという娯楽として、野球しかなかったような時代から、「巨人、大鵬、卵焼き」という大衆が求めていた時代でスーパースターは神のような存在だったのだろう。しかしもうひとりの神がいて、例えば大鵬には柏戸というライバルもいたのだけど、もう純粋な相撲ファンしか話題にしないほど大衆性からは失墜した存在だった。王貞治の失墜もそういう面があるのかもしれないが、長島が純粋に日本人と考えれていたのに、王貞治は台湾人の血だったからなのか。そういうことが影響したのかよくわからないが野球は長島神話で溢れていたような気がする。それが「永遠の巨人軍」の姿としての企業体(読売グループ)であった。
今は共通のスポーツもなく多様性の時代だが、注目したいのは女子プロレスの世界かな。そこにある企業性と個人の闘い。まあ、そういうのもあるのだが、やはりヒールレスラーの悲哀みたいなもの。
野球との繋がり。幼少期の思い出。満州国という幻想。相撲も当時はブームだった。これは戦後だった。「巨人 大鵬 卵焼き」の時代。そのぐらいで好きなものが足りた時代だったのかもしれない。今は好きなものが多すぎる。チャンバラキネマだけの時代でもなかった。ラスト2行がいい。「草原の遊撃手」。何処かのチームにいるかもしれない選手。