シン・現代詩レッスン24
テキストは寺山修司『戦後詩』に戻って第二章「戦後詩の主題としての幻滅」から。寺山修司が否定する戦後詩は「荒地」派の日本の先行き真っ暗だぜという、今読むとけっこう惹かれてしまうのだが、寺山修司は今いる若者のようにそんなに未来がなくてどうするというものだった。そこで持ってきたのが朝の思想という「おはよう」詩というような谷川俊太郎を上げるのだった。だが今の日本の状態が谷川俊太郎のような詩が一人勝ちのコピーライティングのようでもあり、そこに希望を見出したとして老いていく者は切り捨てられるのだった。彼らには「おやすみなさい」しかないのだろうか?それを弱者の文学というのだ。しかし文学は弱者のためにあるのではないのか?強者ならばイケイケで今の時代をアホみたいに謳歌すればいいだけのことである。弱者ならば弱者なりにその存在を賭けた意地があるのである。虫けらにも五分の魂ということだった(正確には「一寸の虫にも五分の魂」というのだった)。意訳してしまった。
寺山修司は十八歳の谷川俊太郎の自己紹介の詩『二十億光年の孤独』を親しい友人の手紙のようだと感じるという。そこが違ってしまうのだ。谷川俊太郎が親から引き継いだ財産もあり、才能もあって、とても友達とは見なせなくなっているのである。そのことに気がついたときにどうするか?
からまつとかしらかばとかの風景が「浅間の美しいわがまま」と言われる別世界なのだ。それは軽井沢の避暑地的な林間学校で行った朝の空気なのかもしれない。それらの歌える者たちは特別な者だけなのだと気がつくべきだった。僕の感傷と言っているそのセンチメンタルリズムを憎む。彼には驟雨も恵みの雨だった。
二行詩のリフレインから、三行詩になるのは、尹東柱「たやすく書かれた詩」でも出てきた手法だった。それは三行目が重要だということだった。
「いぶかしいようなおそれの気持ちでみつめながら」に収斂していく詩なのだろか?と思う。つまり逆説の詩なんだ。おめでたいように若さを気取りながら、その底にあるのは不安だった。つまり空元気みたいな若さなのだろうか?谷川俊太郎のその底にある不安に触れることが出来るのはエリート詩人しかいないような気がする。その詩(記号的な言葉というのか)によって贅沢さが保証されているのだから。