シン・現代詩レッスン27
テキストは寺山修司『戦後詩』,第五章「書斎でクジラを釣るたまの考察」から。最終章はベスト7選出なのであった。ベスト5でもなくベスト10でもなくラッキー7が寺山修司らしさなのだろうか?あまり数は問題ではなく、寺山修司がどんな詩人を選ぶかだった。詩ということだけれども、俳句と短歌も入れている。それは桑原武夫「第二芸術論」を踏まえてのことだ。つまり俳句でも短歌でもそれが十分文学として成り立つとした上であるのだが、その句一句ということではなく詠まれてきた作家性に対してのような気がする。
「事物の経験」というカール・ヤスパースを引用したりしてかなり難解である。
事物(自然)そのものの現れは経験論でしか推し量れないということなのか?自己の問題として事物があるのだろう。それを見通す冷徹なる視線だらうか?
逆に塚本邦雄では、その反骨精神と諧謔性を評価するのであった。
その中で俳句からは西東三鬼で短歌は塚本邦雄だった。短歌ではもう一人近藤芳美に言及しているのは、戦後の叙情性短歌の青春性を体現しているのだが、それが後の彼の短歌には停滞感しかないという。
塚本邦雄は、そこをどこまでも異端者であり続け短歌の中心には組み込まれない気概があったのだ。また歌謡詩の叙情性は戦後詩には外せないものであり、その代表として星野哲郎を上げている。
これは時代の叙情性として例えば阿久悠だったり、井上陽水だったりするのだろう。流行歌という大衆の心情はそもそもその時代の根底にあるものなのか、それともそうした情緒に誘導されるものなのか、なかなか難しい問題ではある。特に日本のように単一民族(事実はそうではないというが)とみなされる風潮は全体主義に染まりやすい。
例えば寺山修司『戦後詩』は海外の詩も取り上げられているが、ラングストン・ヒューズの黒人詩やケストナーのユダヤ人詩における情緒性は少数民族の中にある思考の違いを伝えているのかもしれない。そうした抒情性に感じるものがあるのだ。寺山修司のベスト7にどうして外国詩は選ばれないのか?翻訳の問題とかあるかもしれないが歌謡詩を取り上げるなら取り上げもいいと思った。事実本の中では取り上げているのだから。
そしていよいよ現代詩に入る。谷川俊太郎と岩田宏。黒田喜夫と吉岡実。このなかでは、吉岡実はこの本を読む前に注目していた詩人だったと気がついた。何よりも彼の代表作『僧侶』が収められている。
物語詩。想像力を刺激される。四人の僧侶という分身の術。「こうもり」が出てくるので象徴詩なのだろう。象徴詩は想像力を働かせて登場人物を膨らましていくことだ。ここでは四人の僧侶と女という登場人物たち。女は欲望の対象だろうか?こうもりに成る女なのだ。罪なる女なのか?悪魔の女なのだろう。
四人ぐらいに分裂していると人間楽な感じがしてくる。それぞれ思い通りに行動すればいいのだ。無論それは現実世界ではなく言葉の世界ではあるのだけれども。一人ぐらい死ぬやつもいるだろう。分裂する欲望はあえて統一させる必要もない。
物語詩なので結末は必要だ。好評ではなかったら書き直せばいい。それが自由詩というものだ。現実に合わせる必要はないが現実から大いに影響を受ける。