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世界の悪いニュースに疲れきっているあなたへ

今回は、大テーマなしで徒然なるままに書く。コイツの雑談につきあってやるか、という気持ちで読んでほしい。

珍しく、個人的な話から書きはじめる。

高校受験の日をまだ覚えている。中学校で3年間成績トップだった私が……田舎の公立がやっているのは努力比べだ。都会の私立がやっているのが学力比べだ。私?前者だよ😂……(地元の)受験で合否の心配をするはめになるとは、思いもしなかった。私に事件が起こったのだ。それは、一日中とある曲のフレーズがリピートし続けるというものだった。数学の問題を解いている時も、英語の長文を読んでいる時も、鳴り止まず。さすがに、落ちるのではないかと思った。

ちなみに、『め組のひと』だ。出だししか知らないのになぜ……子どもがなぜこんな渋いチョイスを……なぜ真冬に夏を連れてきてしまったのか……。謎は深まるばかりである。

「め」じゃないわよ!ふざけてる場合じゃないわよ!

私は、誓って、ふざけてなどいなかった。


これは、実は、ある調査によると90%もの人々が経験している現象で。ドイツ語で Ohrwu​​rm・英語で Earworm と呼ばれるものである。

犯人はおまえかー!このハゲー!
(虫に頭髪がないことを中傷していくスタイル)

約20秒のループする音楽セグメントであり、自動的に意識に入り、繰り返し再生され続ける。イヤー・ワームになりやすい音楽特性というものがあると。

才能あふれるクリエイターや素晴らしい歌声をもつシンガーが、そのフックで私たちを釣り上げる科学を発明したのだと言われても。彼ら彼女らが私たちの心を乗っ取ってからというもの、この世にメロディー・マニアと呼ばれる病人が続出するようになったのだと言われても。

やはり、そうだったのか。と思えるが。

まぁ、実際は脳の話だ。

聴覚皮質と海馬などの側頭葉深部領域とのつながりは、記憶の符号化や検索に関与することが判明している。要するに、音韻ループは脳内のメモ帳的なプロセスと関連している。

受験当日にイヤー・ワームが起こった私は、ふざけていなかったどころか、とてもまじめに試験を受けていたのかもしれない。記憶をフルに活用していて、音楽に関わる領域まで刺激されてしまったとか。

注意欠陥障害など作業記憶に問題がある人は、イヤー・ワームを経験しないかもしれないと示唆されている。

不器用のパターン1、2みたいなものだ。みんな地球のおもろいメンバーなのだから。

テキトーによさげなことを言っているのではない。私は道徳心の高さになど大した自信はないが。地球のおもろいメンバーにおもろい!!と心底思っている。


音楽はあらゆる文化に存在する。歌は、文字のように、歴史や伝承を保存したり伝えたりするのに役立ってきた。感情の伝達や一般的なコミュニケーションに必要な「音程の変化」となると、先史時代や進化にも関わってくる。

(上に貼った過去回をふまえて)ダンスもそういうものなんだろうな。

私はピアノの演奏もとても好きだ。お気に入りの1人はこの人。ミュージック最高!


次の話題。

私は時々思うのだ。私たちは選択するために生まれてきたのか、と。

「サイド・メニューはポテトでよろしいでしょうか」「こちらからドリンクをお選びください」「サイズはMで?」

スタバにでもおとずれようものなら、人生の全てほどの選択肢が用意されている。

『Trainspotting』より「生きることを選べ」。

「仕事を選べ。キャリアを選べ。家族を選べ。クソデカいテレビを選べ。洗濯機を、車を、コンパクト・ディスク・プレイヤーを、電動缶切りを選べ。健康を、低コレステロールを、歯科保険を選べ。固定金利の住宅ローンを選べ。スターター・ホームを選べ。友人を選べ。レジャー・ウェアとそろいのバッグを選べ。生地を選べるとかぬかしてくるスリー・ピース・スーツをレンタルすることを選べ。DIY(日曜大工)を選び、日曜の朝に一体自分は何者なんだと疑問に思え。ソファーに座って退屈で気の滅入るクイズ番組をながめながら、ジャンク・フードを口につめこむ暮らしを選べ。自分らのおきかえにと産んだワガママなクソガキからみっともないと思われるだけの存在になり果て、みじめな家庭で小便をもらしながら朽ちていくことを選べ。未来を選べ。人生を選べ。けど、俺はそんなことをしたいと思うだろうか。俺は生きることを選ばなかった。別の何かを選んだ。理由?理由などない。ヘロインを入手した時、理由なんていらないだろ」

これの主旨は「人生を空虚なものに感じたとしても、ドラッグには手を出すな」だけどね。

物議をかもす政策論争では、世界中のどんな党も「選択」というキーワードを使う。そうすることで、自らの立場を主張しているのだろう。

アダムとイヴの物語は、選択の力強さと自由さを感じさせてなどくれない。

431年の第3回公会議で教会は、マリアは神の母であると宣言したが。女性のリアルな社会的地位向上には、ほとんど寄与しなかった。エデンの園で人類の堕落をひき起こしたイヴと、その堕落を救う存在を産み出したマリア。女は誘惑者か処女神のどちらかで。その中間はない。

アキレスが長生きと英雄的な死のどちらを選ぶかというシナリオは、私たちに、意思決定が2つの不平等な選択肢にしぼられていることを感じさせてくる。いや、もっとか……。2択に見せかけた1択だ。男にとっての生とは死だと言わんばかりである。


「資本主義文化と民主主義文化が交差する統一点」と表現する学者もいる。

チップどれだけ払う?と笑顔で選択肢を見せられる。
現代の新手の拷問だ。しかもデイリーな。

個々人(チップ・ワーカーや1人1人の消費者)のせいではない。構造レベルの問題だが。どんなことにも歴史や背景がある。

外国人旅行客の、日本のサービスがノー・チップであることに対する感動は、自国に帰って比較した時に再度くる系だ。

本格的な消費主義の第1章は、18世紀の英国の競売人によって発明されたかもしれない。

在庫処分やガラクタ市を、人々が厳選した商品を閲覧し・自らの識別力を誇示できる社交イベントに変えた者がいた。(この部分が誰かを傷つけたらごめん)

世界には、必需品以外の商品を販売するシステムの先駆者もいたし。顧客が特定のニーズをもって市場に入るのではなく、「ショッピング」という活動としてとらえるよう奨励した者もいた。

この過去回へのリンクは後で貼る。

大きな薬局で、歯磨き粉として売られている商品の数をいたずらに数えてみたことがある。いくつだったか?同商品のフレーバー違いが3種類あったところで、何個めだったかわからなくなり、嫌になってやめた。

「顧客のニーズ」?

豊富な選択肢や最高の選択は、もはや、私たちのために用意されているのではない。私たちが、選択することを求められているのだ。我々は消費者というカタマリになった。

私たちはカオナシだ。さみしいね。


公共の場所 × 個人ブースという投票方法が現代のデフォルトだが。多くの米国人や英国人の男性が、個人的な「気まぐれ」で投票することをよしとしていなかった時代が、かつてあった。個人の選択が重視されるようになったことは、投票を全員一致型から個人型へと移行させた。

個人で決断するという慣行は、共同行動を必要とする政治活動を想像することを難しくしているかもしれない。

いずれにせよ、投票には行け。ごちゃごちゃと言い訳せずに、行け。この口調の強さは謝らないよ。

先ほど貼ると書いた過去回↓

自由市場という神話(神話に失礼か)について、まだまだ言いたいことがある。

市場は、生活できるだけの給料をもらっていない人に、じゅうぶんな価値がないと判断したことになる。この見方では、当然、マスク氏が最高の男である。

私は彼をそこまで嫌っていない。

不平等や経済的不安定性を軽減するために、何をしても。市場をゆがめ・効率を低下させるリスクがあることになる。

高速道路を提供したりするために、時に政府が市場へ介入するというのは、市場が最善を知っているという説と矛盾するように思えるが。それは程度の問題だとされ、せいぜい介入の減少を望む人らがいるくらいだ。

独占と支配は、GとAとFとAとMよりも前、巨大な鉄道会社や石油会社が存在していた時代の方が明確だった。

金融商品が複雑にからみあう今日、誰が誰と・いつ・なぜ・いくら貸し借りしているのか、非常にわかりづらい。(世界が今こんなにもケンカしている理由を端的に言うなら、要はこうだからな)

嫁コイン。私はメラニアさんをけっこう好きだ。

暗号通貨で爆益を出した息子が、「父さん、もう教科書は捨ててしまっていいよね」とたずねてきた時、父親はなんと回答すればよいのか。

みちゃみちゃやんけと。

帰結の駄作っぷりを延々と語るよりも。市場がどのように再編されてきたのか、つまり、権力の行使が経済的自由の行使をどのように変えたかなどを学ぶ方が。まだ意味があるだろう。

一旦、一緒に叫ぼうか。何なんだこの世界は!やってらんねーよ!バーカ!バーーーカ!!


また、次の話題。

アルフレッド・エドワード・ハウスマンは皮肉をこめて言った。

人間の情熱の中で最もかすかなのは、真実への愛である。

彼はこうも詠んだ。

21才の時、賢者がこう言うのを聞いた。
「クラウンやポンドやギニーは与えても、自分の心は与えてはいけない。真珠やルビーは与えても、空想は自由にしなさい」
しかし、私は21才で、話しかけても無駄だった。

21歳の時、彼がまたこう言うのを聞いた。
「胸から出た心は決して無駄には与えられない。それはため息とともに支払われ、果てしない後悔とひきかえに売られる」
そして、私は22才で、ああ、それは本当だ、本当だ。


プラトンの Allegory of the cave(洞窟の寓話)に関して書くが。基本的な話は他力本願させてほしい。動画をお借りする。

以下、画像の本から一部を抜粋(私がサマリーする)。洞窟の比喩のパロディーで、とてもよいのでシェアしたく。筆者さん、私はあなたと一緒に文章を書きたいんだ。感動を伝えるために。きっと、許してくれるよね。

洞窟に住む男は、両足を鎖でつながれ、頭を仮想の人生を映し出す装置でおおわれていた。

ある日、見知らぬ女が男を解放した。

男は、自分と同じ境遇の少年がとなりにいたことにはじめて気づいた。3人は連れだって洞窟を出て行く。

『MATRIX』のヒロインの名前にはもちろん意味がある。ホーリー・トリニティー。三位一体だ。
ミケランジェロの『ピエタ』でこれを見てもいいし。

少しずつ目が慣れてくると、男と少年は、光に照らされたぼんやりとした形を見た。形について説明するのは難しかったが、何だか心地よいものだった。

女はそれを「イデア」と呼び、それが本当に存在するものであり、それ以外は幻想であると2人に教えた。女の言っていることを理解するのは難しかったが、それでも何だか心地よいと感じた。

洞窟から解放され光の中で暮らすことができる人を増やしてほしいと伝え、女は去って行った。

約束を守る日がやってきた。

体をきたえたりして、準備が整ったのかな。

少年が危険をおかすことを望まない男は、1人でミッションに立ち向かうことを決めた。必ず戻ってくると言うと、少年は泣き出した。

少年は男に懇願した。「自分も一緒に行きたい」「自分を洞窟に連れ戻してほしい。もうここには住めない」予期せぬ言葉に男は唖然とした。

少年は本音をはき出した。

光は明るいが熱を発さず、体が温まることはない。強すぎる光が全ての色を洗い流し、観念は漂白された骸骨になっている。洞窟にいた頃は、眠ることができて夢を見ることができていた。今や私は多くのことを知りすぎている。何が現実かを知っているため、それ以外は現実にはありえないということを知ってしまっている。それはひどいことじゃないか。たとえ画面上のピクセルであっても遊び友達がほしい。あなたは私を愛していないし、私もあなたを愛していない。私たちはそんなことさえも知りあってしまっている。夢を見れる洞窟へ帰りたい。


これら全てをこう表現することもできる。「記憶の中でずっと2人は生きていける」人はそれに名前をつけた。「思い出」と。

何を話すかと同じくらい、何を話さないかということは大切で。それ自体に価値がある。とも、私は思う。自分しか知らない自分がこの世にいることを感じるのは、切なくも心地よい。Isolation はちょうどよく痛い。

彼は、「探しものは何ですか。見つけにくいものですか。カバンの中も机の中も探したけれど見つからないのに」井上陽水『夢の中へ』の歌詞に、大変感銘を受けたと語る。

アリストテレスによると、全ての人間は知りたいと願っている。

では、何なのか。明らかな真実の否定が優勢になっているように見える、特定の歴史的時代があるのは。現代人がその中の1つに生きているのは。

私たちは必ずしも真実を知りたいと願っているわけではない、ということだ。

世界は手に負えない場所であり、私たちが認めたくない事柄がそこにはある。自分たち自身に関する不快な真実もだ。それらは総じて、受け入れるのが難しいものである。幻滅の経験は痛みをともなうからだ。(前段で紹介した少年の心境)

ありとあらゆるフェイクに魅了された群衆は、突飛な予言に耳を傾け・非生産的なウワサ話に熱狂し・専門家の専門知識をはねのけている。

特定のことを知るのを避ける理由の多くは、完全に理にかなっている。サーカスのパフォーマーが危険をともなう演技に挑む前、同様の仕事に就いている人たちの保険数理表を調べるのは賢明ではない。

私を愛しているかと気軽に相手に聞けるのは、聞く前にじゅうぶん、その答えが YES であると知っているからだ。

自分がすでに知っていると信じていることに疑問を投げかける可能性のあるものに対して、内なる扉を固く閉ざす人もいる。これはプロフェッショナルの中にもいる。

忘れ去られた英語の詩の一節が一般的なことわざになったのも、不思議ではない。「無知は至福である」


あることについて知識を求めると決め、別のことについて求めないと決めるが。ベルトコンベアの上に流れているものを知りたい/知りたくないと分別していく作業ーー人生とはそんなものではない。まだ、パズルの方が似ている。

有名な、接点の動画でも生徒を客だと思っていないという動画でもない。ある学問のプロがある学問のプロなだけでなく、人生経験も大変豊富でトーク力もすさまじいことがわかる。「おもしろい話」とは、このレベルの話のことだ。

おさえきれない情熱をおびた純粋に心理的な衝動。知るということは感情的な経験だ。それは単に、感覚が脳にメッセージを送り・シナプスが活性化され・命題が形成され・その論理がテストされるということではない。

運命を変えるために現実的にやれることと言えば、キャラ変だけだった。少女の全身全霊の実行にもらい泣きした。演技という選択がわかりみすぎるのもあり。

我々は知性のタナトスにとらわれているーーと言うくらいなら、いいが。

「知り得る多くのものに対する一種の防御状態。暗闇や限界のある地平線への満足。無知に対するイエスやアーメン」とのたまったニーチェは、そこに関しては、何にせよ言い方がひどかった。彼は、言わずもがな大変聡明な人物だ。信仰心の本質が現実逃避ではないことを、絶対に彼はわかっていたよ……。


「一向に上達しないショパンを弾くサルトル。驚くほど美しく繊細な手で弾くニーチェ。ピアノを弾いていると何かが勃起するバルト。ピアノ演奏を愛した3人の思想家の知られざる側面を浮き彫りにする、哲学と音楽が豊かに共演したエッセイ」紹介文のまま。

ニーチェの手、見てみる?

上:ニーチェ。左下:ショパン。右下:リスト。

偉大になりたいと望みながらも、自分を小さく見積もる。幸福になりたいと望みながらも、自分をみじめにとらえる。

どんなに強そうに見える人だって。


「ある意味、見出しはあなたを誤解させるものだ。なぜなら、悪いニュースは見出しであり、段階的な改善は見出しではないから」ビル・ゲイツ

「悪いニュースとは、悪い人たちの方が騒がしいので、悪い人たちだけがニュースに載ってしまうことだ」ハビエル・バルデム

『食べて、祈って、恋をして』を観たくなってきた。

私たちはもがいている。もがいている間は沈みはしないと信じて、みんなでがんばろう。みんなが救世主なのだから。え、そうではなければ、逆に誰?特別な1人草。マンガじゃああるまいし。まさかキリスト?聖書の話なんかして、私より信心深いじゃあないか。

最後、至極くだらないものを観て笑おうよ😂見知ったネタだと気を抜いていると。彼のヌード写真が出てくるところでガチで吹くから、気をつけて(私は飲み物を吹いてしまった)。笑わせてくれる世界のおもろいメンバーにも感謝!

先週は仕事が忙しく更新なしになり、今週も仕事のスケジュールがあわず今日(月曜)更新しました。来週からはまた【週1回・火曜日更新】に戻します。いつもありがとう。