『ファイト・クラブ』から出された宿題
「ファイト・クラブ」のルールその1にも2にも、語ってはいけないとあるが。今回は、『ファイト・クラブ』について語る。
この映画を観て、「過剰な男らしさ」に眉をひそめる人も……男女問わず……少なくないだろう。
しかし、この作品のコア・メッセージは「男はいつでも好きに攻撃性を発揮していい」といった類のものではない。
では、『ファイト・クラブ』のメイン・テーマとは何なのか。彼ら(ジャックとタイラー)は何と戦っていたのか。
それを解説していく。がんばって書く。がんばって読んで。
今回は特に、いつ作品の話はじまるの!?というクレームが聞こえてきそうなため、先に言っておく。ずっと作品の話だよ。
主人公(人格はジャックの方)は、いわゆる、ホワイト・カラー労働者だ。
「僕はジャックの〇〇です」作中に頻出する、この言いまわしをまねると……
僕は社会の、ポスト・フォーディズム資本主義という機械の、とるにたらない歯車です。
この意味がわからなかった人と、これらの用語がわからない人は、下段を読んで。
フォーディズム
ポスト・フォーディズム
クラシック・リベラリズム
ネオ・リベラリズム
ソーシャル・リベラリズム
わかる人は読む必要がないため、作品内容の話がはじまる部分まで、とばしてほしい。
わからないけれどわからないままでいいという人は、ここで、今回の話自体から離脱して。
Fordism(フォーディズム)とは。
自動車会社「フォード」の創業者ヘンリー・フォードが提唱し、自らそれを実行に移した、経営の思想や手法のこと。
フォーディズムは、1910年代~1960年代にかけて、アメリカの製造業を大きく成長させた。アメリカが工業大国として確立することに、貢献した。
製品を通じて社会へ貢献。顧客へは低価格を・従業員へは高賃金を。収益の社内留保による投資を目標に。
1980年代の新自由主義の台頭が、このフォーディズムをポスト・フォーディズムと呼ばれるものに変えた。
ポスト・フォーディズムとは。
消費者が、選択肢とアイデンティティーの増加によって、特徴づけられるようになった。
↓
小売業者は、トレンドや需要の変化をとらえるために、新しい情報技術で消費者のデーターを収集しはじめた。
↓
生産ネットワークでは、柔軟性の向上が求められるようになり、従業員の役割は以前より多様になっていった。
ねぇねぇ聞いた?
来月から、機械を止めた後に30分くらい、お客さんに電話して商品の感想を聞くんだって。
えー!帰り遅くなるじゃん。私困るんだけど。
お給料は追加でもらえるんだよね!?
さすがにタダ働きはないでしょ。
最初はこんなものだったが。どんどん複雑化していき、今にいたる。
古典的自由主義(クラシック・リベラリズム)とは。
経済的自由主義と政治的自由主義が融合したもの。個人の自由と小さな政府を強調する思想。
laissez-faire(レッセ・フェール)
フランス語で、なすに任せよという意味。経済はほうっておけばよいのだ、内在的秩序が働いて社会全体の利益になるのだと。
見えざる手(アダム・スミスの『国富論』などに出てくる言葉)
投資家たちが、収益性とリスク負担を熟考して資産運用をすることは、よいことだと。たとえ、その投資行動が、社会全体の利益実現をなんら念頭においたものではなくとも。個別投資家が、自らの資産運用において安全かつ効率的であろうとすることは、結果的に経済成長につながるのだと。
「見えざる手」は、現代人の方が理解しやすいのかもしれない。
実際には見えなくとも、画面の向こうには世界中の人がいること。有名な個人投資家Tさん(直感タイプの王者)は、取引きを行いながら、「あの時のアイツが入ってきた」と感じることがあるそう。この話を聞いた時、すごい!見えざる手が見えてるじゃん!と思った。
無論、「古典的」とは、後々そう呼ばれるようになっただけのことで。リバタリアニズム/リバタリアンと共通点が多い。
新自由主義(ネオ・リベラリズム)とは。
この用語には、複数の競合する定義がある。
一例。経済哲学としての新自由主義は、1930年代に、ヨーロッパの自由主義学者の間で出現した。大恐慌後の「市場を制御したい」という欲求から、古典的自由主義の人気は低下するとみられ。
あの経済的失敗を繰り返すことは、絶対に避けたいと。あの失敗は、主に、古典的自由主義(後にこう呼ばれたもの)に起因したのだと。
新自由主義は、民営化・規制緩和などの、経済自由化政策と関連づけられることが多い。
どちらもうまい風刺画だ。
ネオ?あまり変わらないのでは?
そう感じるだろう。1つの例で見ていこう。
18世紀末のフランス国民議会。
議長席から見た着席がこうだった。
左側「王政を廃止しよう。共和政府をつくろう」
中央「権限を最小限にして王政は続けよう。大きすぎる・急すぎる変化は危険」
右側「今までどおり王政で。改革反対」
19世紀中のフランス国民議会。
左内でさらに2つに分裂。
左内の右「平等大切。投票権など。貴族ダメ」
左内の左「経済体制も平等さに影響する。格差など。土地はわけあうべき、労働基準があるべき、税金額は格差に応じて異なるべき……」
右内でさらに2つに分裂。
右内の左「伝統的な制度を支持。教会や宗教団体も支持」
右内の右「王政の復権を望む。独裁政権でも軍事政権でもいい、王政の復権を望む」
なんとなく、伝わっただろうか。
あまり変わらないように見える物事も、よく見てみると違いがあるーーということを書き表してみた。
古典的自由主義「下着つけてみた」
自由主義(リベラル)「ブランド服着てみた」
福祉国家をうまく続けられないと見て
新自由主義(リバタリアン)「もうユニクロでいいよ」
こんな比喩をネットで見かけたことがある。うまい。どこも責任なんてとらないからね。
社会自由主義:ソーシャル・リベラリズムとは。
個人的で自由奔放な古典的自由主義に対して、より社会的公正を重視する考え。自由な個人や市場の実現のためには、政府による介入も必要と考え、社会保障などを提唱する。
右傾の自由主義(ネオリベ)と比べ、左傾の自由主義とみなされる傾向があるが。後者が、保守的な見解をもつこともあり得る。
中道左派とみなされる傾向があるが。左派にも右派にも、それぞれの立場からの部分的な逸脱はあり得る。
〇〇派というものは、思う以上に、流動的あるいは近似的である。当たり前だが、状況の変化に応じて、人の主義主張は変わる。
わかりやすいように、前述のフランス国民議会の様子を例に、そのまま書き続けるが。↓
左左の考える理想は、右右の望む体制によってしか叶わないーーもし、このような現実を見続けるとなると。最も遠いはずの2者が近づく可能性さえある。この場合、左左の、ある種のあきらめによって。
これをあきらめなかったのが、『シン・ウルトラマン』の神永新二とウルトラマンだ。
『ファイト・クラブ』とはまた違う形で、1体における2つの人格が共に戦う。こちらは、2者が最大級に意気投合したケース。
このMADの編集がダントツでいい。泣ける。
「君たち人類の全てに期待する」
「人間を信じて最後まで抗う」
「それが私の意思だ」
マルクス主義経済学者らによると、フォーディズムからポスト・フォーディズムへの転換は、非常に具体的な日付で示される。
それは1979年10月6日であると。1979年10月6日、連邦準備制度理事会(FRB)は、金利を20ポイント引き上げた。私たちが現在まきこまれている「経済の現実」を構成することになる、サプライサイド経済への道を開いたと。
へー。
サプライサイド経済学とは。
マクロ経済学の一派で、供給側 = サプライ・サイドの活動に着目し、供給力を強化することで経済成長を達成できると主張するもの。
生産したものが全て需要されるという、非現実的なことが成り立つ必要のある主張だとして、他経済学者らから疑問が呈されている。
金利の上昇が硬直性を柔軟性へと移行させたかどうかは、さておき。
やっと、作品の話に入る。
ここまで読めば。絶対に全員ここから先の話もわかる。
ポスト・フォーディズムからはじまった “ 柔軟性が高い仕事” というもの。これが、『ファイト・クラブ』の主人公が従事している労働なのだ。
デジタル化が進んだ世界では、資本主義的生産は、肉体労働よりも知的労働に依存している。
言わば、人々は、肉体の代わりに精神を搾取されるようになった。搾取する/搾取されると呼ぶのなら、だが。
しかし、『ファイト・クラブ』の主人公は、飛行機であちこち移動したりする仕事もしている。これは肉体労働的でもあるように見える。
ジル・ドゥルーズは、以下のように論じた。
資本主義はもはや、フーコーが理論化したような、ふかん的で場所にしばられた規律ではなくなった。永続的な運動と疑似自由の導入によって、特徴づけられるようになった。
(新しい)統制は、短期的で急速に移り変わる。しかし、同時に。(新しい)統制は、連続的で境界がないと。
要するに。現代社会は、物は言いようの柔軟性と疑似自由 = 資本が望むように行動する自由 によって定義された、管理社会であると。
これが、まさに、『ファイト・クラブ 』が批評するものである。
ポスト・フォーディズムの資本主義が、主人公に睡眠障害をひきおこしている。
医師に相談すると、健康的な食事と適度な運動をとるように、とアドバイスしてきた。
この間ついに精神科へ行った。そしたらそこの女医、なんて言ったと思う。俺が落ちこんでるのはセックスが足りてないせいだとさ。俺は叫びそうになったね。そんなこたぁ知ってるよ!!って笑笑。いや、まじめな話、このつらさはそんなんじゃあないんだ……(私の意訳)
資本主義的リアリズム。
資本主義が唯一の政治・経済システムであるだけでなく、資本主義に代わる首尾一貫した選択肢を想像することさえ不可能であるという、広く浸透した感覚のことである。
資本主義が普遍的に受け入れられている代わりに見過ごされている、多くの名もなき問題について、思いをはせる。
作中、医者が主人公に末期ガン患者の集会へ行くようにとすすめたのは、あの人たちのようでないことに感謝しなさいーーという意味だったのだろう。
(そんなことは、実質、なんの薬にもならなかろう。別に、みんな、紛争地帯に生まれなかったことなどに感謝?はしているからね……)
ところが、別の効果があった。
死に直面した人たちは、見世物的な社会に気づきやすいのだと思う。偽りの表象が消えやすく、真実が見えやすいのだと思う。
そういった集会で、クロエという脇役キャラクターが、再びセックスをしたいと願うようになったとスピーチしたように。
彼ら彼女らとともに過ごしたことは、どの程度、タイラーの誕生に影響したのだろうか。わからないが、無関係ではないだろう。
物語の冒頭で主人公が言う。
全てがコピーのコピーのコピーだと。
コーヒーカップのスターバックスのロゴがクローズ・アップされる。
コピーのコピーのコピーのちょうどいい例として。
「未来のスロー・キャンセル」という言葉がある。
21世紀に生きることとは、20世紀の文化が高解像度のスクリーンに映し出され、高速インターネットで配信されることであると。
私たちはもはや、現実的で文化的で重要な発展が起こらない世界に生きていると。
人類は、もうとっくに、天井をむかえているのだろうか。あらゆるネタは出尽くしているのだろうか。過去のミュージックやファッションが繰り返されていることは、否定できない。
ビートルズが消えた世界(パラレル・ワールド)を描く映画で。
あのエド・シーランでさえ、ビートルズの音楽を知っている唯一の人物である主人公に、完敗する。さすがエドで。一小節聴いただけで、完全なる敗北を認める表情をしている。
サイバー・スペースには無限のコンタクトの機会がある。バック・グラウンドでYouTubeへのリンクも欠かすことはない。家で1人ぼっちでも楽しめる。ますます、外でするリアルな人づきあいがめんどうになる。
複雑な社会で文化は非エロ化するーーという説がある。その説によると。バイアグラのようなものは、生物学的な問題に対応するものではなく、文化的な欠落を埋めるものであるらしい。
消費者だけでなく生産者もだ。新しいものの誕生は撤退をともなう。商店街の小売店らがつぶれて、巨大なショッピング・モールが建つ。
生活はスピード・アップし、文化はスロー・ダウンするのか。なんとも切ないね。
もう少し、『ファイト・クラブ』とスターバックス・コーヒーの話をしよう。
「プロジェクト・メイヘム」が破壊したのは、スターバックスではなく、グラティフィコという架空のコーヒー店だ。
昔の記事だが。この情報は正しくないということ。
看板を爆破していいかとたずねたら、スターバックス社に断られたため笑。あきらめきれなかった監督は、緑の円のロゴとイタリア語の名前で、できるだけスターバックス・コーヒーに寄せた笑。
おもしろい点なのだが。『ファイト・クラブ』は、批判対象の代表格のような企業を宣伝することで、利益を得ている映画である。
これには、ちゃんと理由がある。
原作者や監督は、スターバックス自体を批判しているのではないのだ。
普通のコーヒー店としてスタートした。だが、人気が高まりすぎた。米国では、各ブロックに2~3軒のスターバックスが存在するほどに。
途中から制御不能であること。あまりにも当たり前のこととして、社会に受け入れられていること。スターバックスは資本主義を象徴するものではあるが、資本主義そのものではない。
たしかに。原作者と監督が伝えたいことは「スタバ倒産しろ」ではない。
「これからの宇宙開発には、どんなものにも、スポンサーの名前がつくことになる。IBM宇宙探索船・マイクロソフト銀河・スターバックス惑星」
1999年の映画のセリフが現実になった。
約25年後、マスク氏が Twitter を X に改名した。宇宙開発事業にも使っている、お気に入りのネーミングだ。完全に自分の好きなようにしたのだから、実質、E (by Elon)などと改名したのと大差ない。
『ファイト・クラブ』は、人々が物質に執着していることにもふれている。
IKEA の奴隷である主人公のアパートは、大量生産された商品であふれかえっている。
ちなみに。英語の人はアイキーアと発音する。日本人の発音の方がスウェーデンのそれに近い。あるある。
デュべって知ってるか。
生存に必要でもないものをみんな知っている。
なぜだ。消費者だからだ。
ライフ・スタイルにつかえる奴隷なんだよ。
もってるものがお前を束縛する。
これは、ヘルベルト・マルクーゼが懸念していたようなことだ。
マルクーゼは、1960年代以後の新左翼運動に影響を与えた哲学者である。
彼は、批判的思考を喪失した人々をさして、一次元的人間と呼んだ。さらに。産業社会の中で・管理システムの中で、人は一次元的になっていると批判した。
彼によると。理性の本質とは、所与の現実を克服するための、否定の力なのだそう。
要するに。自分で考え・自分で決める能力を喪失してやいないかという、現代人に対しての注意喚起だ。
科学技術の発展・合理性ばかりがよしとされること。広告過多・大衆文化・消費至上であること。そして、労働者階級すら否定勢力にならないこと。
これでは、起こらなければならない変革も起こらないではないかと。
資本主義は、搾取をカモフラージュして隠す方法を発見した。みんながそれに加担している。
マルクスが主張していたようなことだ。
LV, Dior, Tiffany& Co., BVLGARI, CELINE, FENDI, GIVENCHY, LOEWE, Marc Jacobs, Moët & Chandon, Dom Pérignon, Hennessy, TAG Heuer ……
あなたの持ちものは “全て”、ベルナール・アルノーの持ちものである。
アルノー「私にできることは経営でありクリエイティブではない。すぐれたクリエイティブをするブランドは経営が苦手だ。そういう会社を買収して、その日のうちに財務・経理を送りこんで、金の流れを押さえる」
LVMH「パリ2024オリンピック・パラリンピックは、そのコア・バリューを LVMH と共有する。我々は、高級品における世界リーダーとしての地位を強化し、卓越したフランスという評判を世界に広める」
この人の風刺画を描いても、あまり意味がない。ここまであけすけに話されたら、皮肉る意味がない。
みんな大好き恋愛の話!にだって、このことは当てはまると、私は思う。
不快感を経験したくないという衝動につき動かされ、欲望を意識から無意識の所有物へと追いやる。
記号的に恋人がほしいからといって、好きでもない人ととりあえず付き合おうとする、12月24日の2週間前のことだ。
脈ナシっぽい = 相手の熱量が自分のよりも小さく感じるからといって、本当に好きな人にまで、私の魅力がわからない男なんてこっちから願い下げ!などと言い出すことだ。
世にあふれている恋愛指南系〇〇が、異口同音に、こんなものをイイレンアイやイイオンナだと説いている。マルクーゼがいうところの、一次元的にそれを信じる人たちも、あふれている。
宇多田ヒカル「予期せぬ愛に自由を奪われたい。激しい雨に鳴り止まない遺伝子。運命の花を咲かせてあげたい。あてどない魂の花を咲かせてあげたい」
彼女は言う。This is Love.
恋の教科書に、『ファイト・クラブ』を観たっていいのだ。
タイラー・ダーデン「酒の力を借りても、まだ言えないのかよ。じらすのをやめてハッキリ言え」
タイラーに銃をつきつけられ、本当は何になりたかったのかと詰問された青年(フリーター)は、獣医になりたかったと答える。
素晴らしい体力と知性にめぐまれた君たち。
伸びるべき可能性がつぶされている。
歴史の狭間で生きる目的もない。
タイラーはジャックの、フロイト的イドの投影である。
タイラーはシチュアシオニストであり、カルチャー・ジャマーでもある。
タイラーのすることは、小さな反抗や低俗なイタズラだ。1つ1つはなんてことはない。
だからこそ、彼は「ファイト・クラブ」を結成し仲間を集めていた。
「ファイト・クラブ」は「プロジェクト・メイヘム」になってしまった。組織の活動が、より暴力的なものになってしまった。
これはジャックの本望ではない。
前者はジャックという人格・後者はタイラーという人格がつくったもの。当然、中身も異なる。
主人公の中でタイラーが生まれて、「ファイト・クラブ」ができたんでしょう?
その通りなのだが。
「ファイト・クラブ」はギャングだが。「プロジェクト・メイヘム」は軍隊に近い。
「ファイト・クラブ」は非領土化し大衆化するが、「プロジェクト・メイヘム」は新たな領土化を生み出してしまう。
この言い方でわかっただろう。
万一、2つを同じだと思う人がいたなら。ここまで、今回の話の何を読んできたんだ。
前半で、フォーディズムやポスト・フォーディズム、ネオ・リベラリズムやソーシャル・リベラリズムの話を長尺でしたのは、何のためだと。
あくまでも、彼には元々の人格があり、そちらが主人格なのだ。第二の人格に完全に侵食されることは、彼にとって、阻止したいことである。
アイデンティティーの喪失は精神的な死だ。唯一無二であれ、なんて私は言ってない。自分を失くすことだよ。価値のステレオタイプに押し負けすることだよ。数の力に怯むことだよ。
物語がクライマックスにさしかかっているのがよくわかる。
批判したいことは消費主義だけではない、というパラニュークの想いが伝わってくる。
今さらだが。チャック・パラニューク。原作者だ。
フィンチャー監督のことは、『セブン』か『ゲーム』をテーマに、いつか改めて書く。
作者は、資本主義に対する唯一の代替案(プロジェクト・メイヘム)を、社会に混乱をひき起こすだけの下品で破壊的な組織として、描写した。
これを見せられた中道左派は、本気に、現実的なアイディアを提示さねばならない。
『ファイト・クラブ』は問題提起をしただけ。
「心配しなくていい。これから全てよくなる」主人公はポジティブさを示しただけ。
改めて聴くと、エンディング曲渋いな。
この2年後公開の映画『ペイ・フォワード』。これを夢物語ととらえるか、1つの具体策ととらえるかは、人それぞれだろう。
その他の小ネタ。
DVDには、海賊版防止の警告の後に、タイラーからの警告がある。
読んじゃった人、へこまないで。笑
ヒロインのマーラの電話番号が、後の他の映画にも登場する。『メメント』だ。ミステリアス・ナンバーという感じで、いい。
陰陽コーヒー・テーブルだけは、マンションの爆発を生き延びている。1体内の2人格を示唆しているのだろう。
タイラーの石鹸会社の名刺に、住所はペーパー・ストリート537だと記されている。ペーパー・ストリート:実際には存在しないが、将来の道路計画のために地図上にはある、道路。タイラーが実在しないことを暗示しているのだろう。
ブラッド・ピットは、役作りのために、ボクシングやテコンドーを習った。タイラー・ダーデン × ファイト・クラブの印象は、人々に強烈に刻まれたようで。以来、彼は、他人からケンカを売られやすくなってしまったらしい。笑
フリでなくガチでやれと監督から指示されていたエドワード・ノートンは、ブラッド・ピットを殴った。どうやら、耳にあたったことへのクレームは、演技中の本音だったようだ。
ペンギンのスライドが意味するところ。
ペンギンにも主人公にもあなたにも、それぞれにあった、飛ぶ以外の方法がある。
The ability to let that which does not matter truly SLIDE. 本当に重要でないことを水に流す能力。
このダブル・ミーニングだろう。
『ファイト・クラブ』は、英国最大の映画雑誌『エンパイア』の歴代最高映画ランキング500にて、10位を獲得。キャラクター部門ランキングでは、タイラー・ダーデンが1位を獲得。
以上。主人公が『ファイト・クラブ』で戦った相手について、書いてみた。
あなたは何とどう戦う。
宿題を提出するんだ。
25年間ジャックが待っている。
〆にこの歌を。
歌詞が『ファイト・クラブ』の内容に思いきり合致している。