笠井潔 『例外状態の道化師 ポスト9.11文化論』 : 追放されし偽王・ 笠井潔への〈諌告〉
書評:笠井潔『例外状態の道化師 ポスト9.11文化論』(南雲堂)
笠井潔は、とても優秀な批評家なのだが、その彼が実力相応に評価されないのは、もっぱら彼の「信用できない人間性」と、その「押し付けがましい政治性」にある、と断じていいだろう。「評論家として優秀であれば、人間性なんてどうでもいい」という「娯楽としての批評消費」的な考え方もあろうが、「有能と不誠実」が結びついたものほど危険なものはないのだから、多くの賢明な人たちが笠井潔を敬遠するのは、決して故なきことではない。笠井の批評を、のんきに肯定していられるのは、笠井潔という評論家の本質までは踏み込まず、その言葉の上っ面を断片的に消費しているかぎりにおいて、なのである。
笠井が「『容疑者X』論争」でミステリ界を去るまで、元笠井潔ファンとして「笠井潔葬送派」を名乗り、笠井潔を徹底して批判し続けてきた私としては、笠井ひさびさの単著評論書となる本書を読むにあたっても、特別待遇でこれに当たった。つまり、本書に収録されている11本のレビューで扱われた作品のうち、未読の8冊については、それらを読んでから、本書を読むことにしたのだ。そのため当レビューも、本書刊行2ヶ月後の執筆となってしまったのである。
笠井潔という評論家の本質を知るためには、現在の笠井の「子分」と呼んでよい2人の評論家、藤田直哉と杉田俊介の著作に対する、本書所収の笠井のレビューを読むにかぎる。
「ねばならない」というきわめて倫理的な言い回しが特徴的で、他者に厳しい注文をつけるのが常態である笠井潔という評論家が、「身内」に対すると、どれだけ態度が変わるものか、それがよくわかるからだ。
仮にも独り立ちしている著述家に対して、「子分」「身内」呼ばわりはひどい、と感じた人もいるだろう。だが、それは「現実」を知らないからである。特に「文芸出版業界の現実」を。
「外づらの立派な社長さん」が「社内ではブラック企業の暴君」であるなどということは、世間ではよくあることだが、「外づら」の良さだけを見ていては、その人の「本質」を理解するのは、容易ではない。少なくとも、非凡な洞察力を持ってでもいないかぎり、「外づらという仮面」の奥を洞察することなど、そうそう出来ることではないのである。
「笠井潔の実存」については、私も、本書でも扱われている、藤田直哉の『娯楽としての炎上』、杉田俊介の『戦争と虚構』についてのレビューで書いているから、まずは、その引用をお読み願おう。
私の「業界内幕話」が信用できないという方は、ぜひ「探偵小説研究会」「限界小説研究会(限界研)」「藤田直哉」「杉田俊介」などを検索し、Wikipedia等を参照してほしい。私の書いていることが「トゥルース」であると、ご確認いただけるはずだ。
ともあれ、こうした「背景」を知っていると、とても興味深く読めるのが、本書所収の杉田俊介『戦争と虚構』についての笠井レビューの、次のような部分だ。
ここに「笠井潔という文筆家の本質」が、余すところなく表れている。
こういう「後足で砂をかけるのに、ダンプカーを持ち出す」ような、トンデモない人だからこそ、その素顔を知っている人は「批判するだけ無駄だし、厄介だ」と、遠巻きにして無視を決め込むのである。
ともあれ、上の笠井文を解説しよう。
笠井潔がここで言っているのは、「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」に、従軍慰安婦の少女像や、天皇の写真が焼かれる場面のある映像作品などが出品されたことに対し、ネトウヨなどがお得意の電凸などをした際に、自分たちの立場を正当化するのに「芸術に政治を持ちこむな」といったような理屈を持ち出したのだが、その淵源にあるのは、「本格(※ ミステリ)に政治を持ちこむな」と言って笠井潔を批判し、その「そのオタク的政治意識の低さ」を露呈した「(ミステリ作家・評論家を含む)ミステリオタク」たちの存在などもあるのだ、という「難癖」だ。
笠井は上の引用部分の前段で、杉田俊介の『戦争と虚構』という著作の重要性を、次のように力説している。
要は、「子分」である、この杉田俊介の仕事は、サルトル以来の素晴らしい仕事なのだと、親分である笠井潔は褒めあげているのである。これだから、笠井潔の「子分」は辞められない。
無論ここでは、杉田を褒めるかたちをとって、「政治派」評論家としての自分自身を褒めあげているというのも、言うまでもないことだろう。自分がそうだからこそ、杉田俊介程度の評論家を、ここまで大仰に褒めちぎれるのである。
話を(1)の笠井文に戻そう。
要は、当時の笠井は、左翼の党派イデオローグだった人らしく、本来「オタクの楽園」でしかなかった「ミステリ界」に「文壇政治」を持ち込み、強引に「業界的な覇権」を握らんとしていたのだ。なにしろ空前の「新本格ミステリ・ブーム」だったので、そこに地歩を築くことは、(出版)業界的にきわめて有利なのは明らかだったからである。それに「所詮、相手はオタクだ」と。
しかし、そんな笠井潔の前に思いもかけず、ミステリ界は無論、世間からも絶賛の嵐を浴びた、東野圭吾とその作品『容疑者Xの献身』の急浮上してきた。
東野圭吾は1985年の作家デビュー(『放課後』で、江戸川乱歩賞受賞)で、1979年作家デビューの笠井潔の方が、年齢的にも作家歴でも先輩にあたるが、関西出身の飾らない性格で、文壇的なしがらみのない東野には、当時、関西出身作家が中心的だった「新本格ミステリ」作家たちも親近感を抱くと同時に、先輩ミステリ作家の質の高い仕事に対しても敬意を払っていたから、本格ミステリ作品『容疑者Xの献身』による大ブレイクを、多くの本格ミステリ作家や評論家、マニアたちが、こぞって絶賛したのである。
ところが、笠井には、これが気に入らなかった。もともと乱歩賞受賞作家としてミステリ業界のメインストリートを着実に歩んできた東野圭吾と、マニア的評価をきっかけに、後から「新本格ミステリ界」に入ってきた笠井潔とでは、その体質的な違いもあって、付き合いがなかった。
そうしたことから、笠井潔にとっては、身の回りの(新本格)作家や評論家たちが、両手を上げて東野作品を絶賛するのが、面白くなかったのであろう。平たく言えば、東野のポピュラーな人気に「嫉妬」し、そのあげく『容疑者Xの献身』に対する広範な高評価を全否定する、「こんな作品を高く評価するのは、社会性の欠如した、小説オンチのすることだ」と言わんばかりの「無理筋の難癖」をつけるという挙に出てしまった(曰く「本格ミステリとしての難度が低い」「差別的な表現に鈍感」)。
むろん笠井としては「俺の批判には、誰も反論できまい」という自信があってのことだったのは言うまでもない。だが、それにしても、その言い草が、あまりに「独善的」で「居丈高」だったために、さすがにそれまでは、笠井の(人柄は別にして、その)実力に対しては敬意を払っていた人たちも、「何様のつもりだ」と一斉に反発したのである。
そして笠井にとって何より想定外だったのは、決して逆らうことなどないと信じていた、自分の「子分」のために結成した「探偵小説研究会」のメンバーである佳多山大地らまでもが、笠井に盾ついて、業界的な「総スカン」に加わったことであった。
笠井が中心となって結成したミステリ評論家集団たる「探偵小説研究会」とは、笠井潔、法月綸太郎、巽昌章の3人が選考委員をつとめた、公募のミステリ評論賞である「『創元推理』評論賞」の、受賞者を中心に、選考委員の3人が顧問格となって組織したグループである。
選考委員の3人のうち、実質的なリーダーが笠井潔であったことは論を待たない。まず、年齢も違えば、文筆家としての実績も違う。賞が設立され、彼らが選考委員になった時点で、評論書を刊行していたのは笠井だけであり、法月は「評論も書ける小説家」であることが知られてまもなくのこと。まだ評論書の刊行はなかった。また、巽はこの時はまだアマチュアであった。ただ、法月の大学ミス研の先輩であり、現役当時から優れた評論を書く人として尊敬されていたので、法月と笠井が巽を引っ張り込んだというかたちであった。
したがって、「『創元推理』評論賞」の受賞者である、佳多山大地(や、千街晶之、鷹城宏といった当時のメンバー)などは、笠井潔にしてみれば「俺が評論家にしてやり、仕事も取ってきてやった」のであり、反論なんてできる立場ではない、という感覚だったのである。
しかし、建前としては「全員平等」ということにはなっていた(当時、私はこの建前を嘲笑う文章を書いたりした)し、文庫解説執筆など、すでにそれなりに仕事もしていれば、評論家としての自意識というのも芽生えてこないものでもない。だから、笠井の「どうせ反論などできまい」という本音が見え見えの、あまりに人を小馬鹿にしたような「『容疑者X』肯定論者批判」に我慢がならず、ついに「探偵小説研究会」メンバー(の多く)までが、笠井の『容疑者X』批判論に反駁することになったのである。
しかし、それまでは「ミステリ界」の中で、笠井潔に「公然と盾をつく」者など一人もいなかった(批判者は、業界外の私くらいで、無視すれば済んでいた)から、笠井としても「子分」と思っていた「身内」からの批判の噴出(造反)は、とうてい我慢ならなかったのであろう。
結局は、数名の「忠実な子分」だけを連れて「探偵小説研究会」を分って出、新たに「限界小説研究会(現・限界研)」を設立することになるのである(ここに関わるのが、藤田直哉などの「第二次子分」だ)。
結局のところ、笠井潔が「ミステリ界」を追われるように去らなければならなかったのは、笠井が「ミステリ界の理論的指導者」たる自身の立場を、高く見積もりすぎた「慢心」の結果としか言いようがないのだが、「恨み骨髄」の笠井としては、十数年たってもその怒りは収まらず、当時の事情をよく知らない一般読者に向け、「フェイク」情報を発信してでも、自己正当化するとともに、当時、自分に従わなかった、生意気なミステリ作家や評論家たちに「政治意識の欠落した、オタク」というレッテルを貼ることで、復讐しようとしたのが、上の引用文(1)なのである。
したがって、佳多山大地や有栖川有栖が「本格に政治を持ちこむな」という趣旨のことを言ったのも、じつは「ミステリを政治批評の具にするな」といった額面どおりの意味ではなく、「ミステリ界で、文壇政治をするな。ミステリ批評を政治利用するな」という意味(業界内的な苦情)だったのである。
ただ、彼らとて、もともとそんな「政治屋」笠井潔を容認して、時には業界の先輩として持ち上げてきたから、露骨に「文壇政治をするな」とも言えないので、婉曲表現として「本格ミステリに政治性を持ち込むな」というような言い方をしたのである。
(ちなみに私は、『容疑者X』論争のずっと以前から、笠井潔の文壇政治屋性を批判してきたし、それを黙認している、探偵小説研究会のメンバーや、新本格ミステリ界のリーダーたる綾辻行人や有栖川有栖までも批判していた)
つまり、話はいたって簡単なのだ。人気業界であった「(新本格)ミステリ界」で覇権を握ろうとし、おおむねそれが 上手くいっていた笠井は、自分以上に高く評価され始めた東野圭吾の存在が気に入らず、つい、お得意の「政治的評論」で追い落としを図ったのだが、それが裏目に出てしまい、「ミステリ界」を去らねばならなかった、というのが、『容疑者X』論争の「現実」であった。決して、うわべの「文学論争」が、本質ではなかったのである。
しかしながら、笠井としては「この怨み晴さでおくべきか」という思いが、ずっとあったので、現在の子分である杉田俊介の著書のレビューに見せかけて、いまさら「ミステリ界」の人々を「誹謗中傷」しただけ。これが、笠井潔の「本質」だったのである。
こういう人間だからこそ、今現在の「子分」に対しては、非常に甘い。
と言うか、餌を与えて、彼らを繋いでいる。すべては打算であり、計算づくなのだ。それだけ、なのである。
本初収録の、藤田直哉『娯楽としての炎上』のレビューを見て欲しい。この藤田書は、私がそのレビューの冒頭で『ここまで酷いとは思わなかった。/2018年刊行の本だが、私が今年(2020年)読んだ200冊弱の本の中では、最低である。こんな本を読むのは、まったくの時間の無駄で、途中で何度投げ出そうかと思ったことか。』とまで書いたもので、さすがの笠井潔も、本作には注文をつけている。しかし、そのフォローがまた、いかにも無理筋なのだ。
藤田直哉が、笠井潔の「子分」格であるというのが、大変よくわかる部分である。
要は、藤田の著書の根本的構えを否定した上で「こうした方が、まともな評論になるよ」と添削指導をしているのである。これではまるで「学生のレポートに対する、指導教官の態度」ではないか。
しかし、こんな「コネで商品化された本」など、読まされる方がたまったものではないのである。
だが、こうした「現実」を知らされてもなお、「こんな生々しい業界裏話なんて読みたくはない」という方も少なくはなかろう。その気持ちはよくわかる。しかし、笠井潔も、次のように書いている。
要は、「いかに悲惨な現実であろうと、大人なら、それを直視して引き受けなければならない。それをしないと、天皇(幻想)に依存するといった、無責任な誤魔化しと逃避に生きるしかないのだ」ということである。
ならば、評論書を読もうというほどの読者は、この「文筆業界の悲惨な現実」もまた直視すべきなのは無論のこと、笠井潔本人やその「子分」たちも、自らのみすぼらしい「現実の姿」を直視して、生き方を改めるべきなのではないだろうか。
昔から、こればかり言ってるけど、それしかないでしょう、笠井さん?
初出:2021年1月20日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
○ ○ ○
・
○ ○ ○