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サミュエル・R・ディレイニー 『ノヴァ』 : オリエンタリズム的「文学性」の勘違い

書評:サミュエル・R・ディレイニー『ノヴァ』(ハヤカワ文庫)

サミュエル・R・ディレイニーが、アメリカにおける「ニュー・ウエーブSF」の代表選手のひとりだということくらいは、ずいぶん前から知っていた。今となっては、40年以上前の話である。

その頃すでに、「ニュー・ウエーブSF」の日本での紹介者として知られ、『季刊NW-SF』という雑誌まで出していたSF作家・山野浩一については、短編をいくつか読んでおり、ファンにもなっていたためだ。
山野の作風が「ニュー・ウエーブSF」を代表するものなのであれば、「ニュー・ウエーブSF」は「きっと面白いに違いない」と、高校生の私はそう思っていた。だから、アメリカの「ニュー・ウェーブSF」作品についても、いずれは読むつもりでいたし、ディレイニーはそんな作家の一人だったのである。

だが、その少しあとには、私の興味は「ミステリー小説」の方へ、その中でも「本格ミステリ」と呼ばれるジャンルの方へと移ってしまった。そしてそのせいで「SF」を読んでいる暇が無くなってしまったのだ。
折から勃興した、私と同世代の新人作家たちによる「新本格ミステリ」ムーブメントにどっぷりとハマってしまったために、ミステリー小説の方で、「新本格」の新作はもとより、「古典」と呼ばれる作品まで「読まなければならない」と考えて、そちらに傾注してしまったためである。内外の古典的な作品を「ひととおり読もう」と思えば、中途半端に他ジャンルの「SF」を読んでいる暇などなかったのだ。

だが、1989年頃から2005年頃までの約15年間という、思いのほか長く続いた「新本格ミステリ」ブームも、すでに去って早20年。
では、「新本格ミステリブーム」の終焉以降は何を読んでいたのかといえば、「本格ミステリを読まなければ」という縛りがなくなった途端、興味のあるあれこれ、例えば「宗教」「思想哲学」「歴史」「社会」といったあれこれに幅広く手を出してしまったため、結局のところ、またも「SF小説」は後回しになってしまったのである。

私が「宗教」というものに興味を持った決定的な要因は、子供時分のこととは言え、私が「元創価学会員」であり、「宗教という虚妄」を、そこいらの人よりも切実な問題として考えなかればならなかったからだ(そこへさらに「オウム真理教事件」問題が加わった)。
ろくに「宗教」のことも知らないくせに、「宗教なんて」などと澄ましていい気になっているようなやつは、歳をとると必ず、世間並みの人間に成り下がって、「墓」がどうした「法事」がどうだとか言い出すものなのだが、私の場合は「創価学会に裏切られた(騙された)」「信仰などというものは、すべて願望充足的な虚妄である」というところまで、徹底的に宗教そのものを否定するようになったから、先年、母が亡くなった際には、葬儀もしなければ、火葬した骨も引き取らず、そのまま処分してもらった(これは合法的に可能)。骨を引き取って墓に入れて、それを拝むとかいったことは、「非合理的な気休め」だと、そう断じていたからである。

しかしながら、そこまで根本的に否定するのに、広く「宗教」に関する知識を持たないのでは、単なる「宗教嫌い」でしかなくなるので、「宗教」のことを「客観的に知った」上で、キチンを否定しなければならないとそう思い、素人ながら「宗教」研究を始めたのである。

先年退職して自由な時間が倍増してから、やっと「SF」を読むようになり、初めて読むことになった、『デューン 砂の惑星』フランク・ハーバード)や『異星の客』ロバート・A・ハインライン)といった古典SFについても、「宗教」を勉強したおかげで得た「キリスト教神学」の知見を生かして、普通のSFファンには無い観点から、それらの作品の特性を論ずることもできたのである。

ちなみに、私が「思想哲学」の本を読んだのは、ミステリファン当時すでに、小説家にして評論家の笠井潔(一時は「日本SF大賞」の選考委員もやっていて、SFファンにもお馴染みだっだ)を批判し、笠井がそう呼ばれた「マルクス葬送派」(小阪修平長崎浩)をもじって、「笠井潔葬送派」を名乗ってもいたからだ。
笠井潔を批判するためには、多少なりとも「左翼思想」や「フランス現代思想」などを知らなくては、批判の「ひ」の字もできなかったからである。

(笠井潔は、上のように言うのだが、笠井の盟友だった戸田徹には『マルクス葬送』という著作もあるため、「マルクス葬送派」と名付けられたのであろう。したがって『「葬送」派というのは、論敵の悪意ある命名である。』というのは、笠井の被害妄想か、いつもの難癖であろう。そもそも、マルクスは「生きている」とか「殺さなければならない」とかいうのも、マルクスに対する、悪意あるレトリックなのだし、自分のことを棚に上げて、他人への要求が高すぎるのが、笠井潔の「玉に瑕」?)

また、「歴史」「社会」の本を読んだのは、「ネトウヨ」とケンカするためだ。
ただ単に「あいつらは馬鹿だ」と心の中で自己慰撫的に見下しているだけではなく、面と向かって「お前は、これこれこういう理由で馬鹿なのだ」と論駁するためには、近いところでも「明治維新から戦後」あたりまでの「近代史」を知らなければ、奴らとの「歴史論争」もできないからである。
また、その関係から「天皇制の起源」を知るために『古事記』『日本書紀』を読んだり、古代史を齧ったりもしたし、「神道」についても勉強した。あるいは、「右翼思想」の源流である「水戸学」なんてことにまで触手をのばしもしたのだ。
無論、これらのことをすべて、「しっかりと勉強できた」というわけではなく、あくまでも「齧った」程度なのだが、それらをひととおり齧れば、ネトウヨがいかに無知であり、「コピペ」オンリーなのかも、はっきりと見て取れるようにはなったのである。

ともあれそんなわけで、「笠井潔葬送」というワイフワークは別にして、「本格ミステリ」からは実質的に卒業して(新刊を追わなくなって)からも、そのような方面に注力していたから、のんびりと「SF」を読んでいる暇などなかった、というわけである。

だが、前述のとおり、一昨年、待望の退職を果たして、今は悠々自適とは言わないまでも、趣味だけに生きるのに困らない生活をすでに2年を続けており、まもなく年金をもらえるはず、といったところまで来たので、いよいよ長年の懸案であった「SF」をぼちぼちと読み始めた。
なぜ「ぼちぼち」なのかというと、退職してから新たに、これも研究的に「映画」にハマってしまったため、そちらに時間を取られるようになってしまったためだ。だから、読書量だけなら、退職前とほとんど変わっていないのだが、読んだ本、見た映画については、ほとんどすべてレビューを書いているので、その時間が1日の半分近くを占めるようになってしまったのだ。
無論、あらすじ紹介と感想程度のレビューなら、そこまで時間も取られないのだが、そんな誰でもでも書けるようなものなら、書くだけ時間の無駄」だと思っているため、多少なりともあれこれ調べながら書くので、時間も食えば、それなりに長いものにもなってしまうのである。
だがまた、このような「読んで、調べて、書く」ということをやっていれば、単に「冊数をこなして満足している」のとは質の違った、「網の目状の生きた知識」になる手応えを感じるので、それを続けているのである。

そんなわけで、今回は、かねてより気になっていた「ニューウエーブSF」の代表作家である「サミュエル・R・ディレイニー」を初めて読むことにした。読んだのは、代表作のひとつ『ノヴァ』である。

じつは、この『ノヴァ』だけではなく、他の代表作である『バベル-17』『アインシュタイン交差』も古本で買っていたのだが、「このうちのどれから読もうか?」と思って最初に手に取った『バベル-17』の紹介文に、「ワイドスクリーン・バロック」の作品だと書かれていたので、これは私に合ってはいないかもと避けて、二番手の本作『ノヴァ』を読むことにした。

「ワイドスクリーン・バロック」というのは、「SF業界用語」なので、その意味を紹介しておくと、この言葉は、SF作家で評論家のブライアン・オールディスの造語で、その意味するところは、次のようなものである。

『時間と空間を手玉に取り、気の狂ったスズメバチのようにブンブン飛びまわる。機知に富み、深遠であると同時に軽薄』

(『十億年の宴』p.305より 浅倉久志訳)

そんな作風の「SF」作品を指す言葉だ。

ともあれ、要は『気の狂ったスズメバチのようにブンブン飛びまわる。』の部分が、完全に私に趣味には合わない、と感じていたのである。

なにしろ私は、夏目漱石『こころ』で活字の本に開眼したような人間だし、「ミステリー小説」の方でも、行動派である「ハードボイルド小説」や「冒険小説」はまったく趣味に合わず、趣味にあったのは「頭脳プレイ」派である「本格ミステリ」だったのだから、「SF」においても、その好みの傾向は変わらない。
映画なら『スターウォーズ』、小説なら『キャプテン・フューチャー』に代表されるような「活劇もの」には、まったく興味がなかった。
映画の場合は「(孤高の)ヒーローもの」なら好きなのだが、多人数でドンパチだのチャンチャンバラバラとやっているようなものには、まったく興味がなかった。だから、『気の狂ったスズメバチのようにブンブン飛びまわる。』という「ワイドスクリーン・バロック」の作品は、そう評されているだけで、すっかり萎えてしまうのである。

では『ノヴァ』の方はどうなのだろうか、という心配も無いではなかったのだが、ひとまず、昔買って、今回また買った3冊を目の前にして、また1冊も読まないというわけにもいかないので、どんな作家かを知るために、ひとまず『ノヴァ』を読んでみた、という次第である。

で、結論はと言うと、一一やはり、ぜんぜん合わなかった。

 ○ ○ ○

本作のお話をごく大雑把にまとめると「ノヴァ(新星)」に秘められた、惑星間航行に必要な超エネルギー資源をめぐって、宿命のライバルが争う」という物語である。
主人公によると、爆発の瞬間のノヴァに突っ込んでいけば、当然危険は伴うものの、そこからその超エネルギー資源が大量に持ち帰れる公算が高い、という。そこで彼は、三度目の挑戦のために乗組員を集めるのだが、その過程で、彼の宿敵であり、超エネルギーをめぐっても争う立場にもあるライバルの横槍などが入り、そのあたりで「活劇」になる。
しかも、かつて主人公は、そのライバルの実妹に恋したことがあったのだが、その女性は、今では、その実の兄の女になっていたのだ。

一一とまあ、そんなわけで、少々ドラマティックすぎる「恋愛がらみの、宿命のライバルもの活劇」であり、私が期待した「いかにして、ノヴァから超エネルギーをサルベージするのか」といった、ハードSF的なアイデアは、最後の最後のおまけに近かった。
しかし、なによりも私の趣味ではなかったのは、登場人物たちの設定が「大時代的」であり、そのため、いわゆる「人間心理の機微」が描けていなかった点だ。また、だからといって、現実に即した「世界論」や「宇宙論」を語るといった、「哲学」的な深みも持たなかったのだ。

そもそも私は「ニューウェーブSF」というのは、

『その主張は運動を主導した一人であるJ・G・バラードによる「SFは外宇宙より内宇宙をめざすべきだ」に特徴づけられる。』

(Wikipedia「ニューウェーブ(SF)」

というものだと思っていたので、およそ「活劇」とは真逆なものだと思っていたし、事実、山野浩一の作品も、J・G・バラードの作品も、そういう作品だった。
つまり、「ニューウェーブSF」で描かれる世界とは、物理的にリアルな宇宙ではなく、「内面世界の象徴」のようなものだと思い込んでいたから、ディレイニーにも、そうしたものを期待したのだが、ぜんぜんそうではなかったのだ。
今となっては当然のことなのだが、「ニューウェーブSF」と言っても、それは色々とあって、バラードの期待するようなものばかりではなかったのである。

では、サミュエル・R・ディレイニーの「ニューウェーブSF」とは、どのようなものなのか。わかりやすく言うと、それは「文学派SF」である。
従来の「(進歩的に)近代科学的なSF」に対して、山野浩一やバラードを「心理学派」だとすれば、ディレイニーのSFは「文学派」。

Wikipediaによると、「ニューウェーブSF」は、

『代表的な作家として、バラードや、ブライアン・オールディスなどが挙げられる。またアメリカの代表的なニュー・ウェーブ作家は、ハーラン・エリスン、サミュエル・R・ディレイニー、ロジャー・ゼラズニイトマス・M・ディッシュなどがいる。日本では山野浩一が専門誌『季刊NW-SF』を主宰して、自らも作品を執筆。日本のニュー・ウェーブ運動の先導役を務めた。この他にも筒井康隆荒巻義雄野阿梓飛浩隆などが意欲的な作品を発表した。』

とのことで、ハーラン・エリスントマス・M・ディッシュの二人については、40数年前の高校生の頃にそれぞれ1冊ずつ読んでおり、どちらも合わなかった。
だから、今回はすでにロジャー・ゼラズニイも短編集『伝道の書に捧げる薔薇』まで買ってあるのだが、そちらも今から少々心配ではある。

ただ、なぜこの短編集を選んだのかと言えば、ファンタジーが好きではない私に対し、ファンタジー寄りの作品の多いゼラズニイにあって、この作品集のタイトルは、いかにも「キリスト教」っぽいので、私の「キリスト教神学」の知識が役にたって「楽しめるかも」と思ったからである(※ 私個人がファンタジー嫌いというだけではなく、ファンタジー作家というのは、どうも世界設定マニアで、宗教がかっている人が多い。『指輪物語』トールキン然り、『ナルニア国物語』C・S・ルイス然り。この2人は、プロテスタント〔新教〕系のイギリス国教会から、わざわざカトリック〔旧教〕に改宗した、筋金入りのカトリックである)。

で、ついでに書いておくと、上の引用文で言及されている「日本のニューウエーブSF作家」の場合は、野阿梓以外は、わりと好きであった(今は、荒巻義雄は評価していない)。
ホモセクシャルの世界を描く耽美な作風で知られる赤江瀑のファンである私としては、時代に先駆けた野阿の「BL-SF」にも期待して読みはしたのだが、評判ほどのものだとは思わなかった(マンガっぽ過ぎた)。
私が、野阿梓を評価しなかったのは、彼が笠井潔を「KK」だか「K2」だとかと呼んでつるんでいたからではなく、あくまでも小説を評価できなかったためである。したがって、一時期、笠井潔とつるんでいた山田正紀については、今も昔も変わらずに好きである。笠井潔とつるんでいたことについては「馬鹿だなあ」とは思うにしても、だ。

閑話休題。

ともあれ、ディレイニーの『ノヴァ』は、まず「ワイドスクリーン・バロック」の「活劇」ものとして、私には合わなかった。

であれば、ディレイニーの「文学派」としても側面はどうなのかというと、そっちも合わなかった。
私も「文学派」は「文学派」なのだが、私の「文学」というのは、夏目漱石的な「人間哲学」的な「文学」であって、ディレイニー的な、宗教色の濃い「西欧古典文学」的な「文学」ではなかったからである。

では、ディレイニーの「西欧古典文学的な文学」とはどういうものなのかと言えば、要は「西欧文化の歴史と伝統」という「教養」を踏まえた文学であり、要は、「神話」だの「宗教」だのをその基盤として持つ「古典文学」の、「二次創作的な作品」なのである。

本書の「解説」で、訳者の伊藤典夫は、SF評論家ジュディス・メリルの、次のような文章を引用して、ディレイニーの「読み方」を紹介している。

『 そして『ノヴァ』は、(これが全部ではないが)つぎのような読みかたができるのだ。
 息もつかせぬ壮大なスペースオペラとして。神話/神秘主義に根をおろした祖型的アレゴリー(なかではタローと聖杯伝説が顕著な役割をはたす)として。SFならではの常套趣向から強力なシンボルを組みあげ、SFことばで語った現代の神話として。政治/歴史/経済/社会学の諸観念をひっくるめた思想複合体をいれる未来風な器として。文学評論への一つの実験的なアプローチとして。』(P383〜384)

つまり、私が興味を持てない「スペースオペラ」は論外として、もう一方の『神話/神秘主義に根をおろした祖型的アレゴリー(なかではタローと聖杯伝説が顕著な役割をはたす)として(略)SFことばで語った現代の神話』の部分も、徹底した無神論の私としては、少しも有り難くはないし、恐れ入りもしない、ということだったのだ。
そんなもの、わざわざ「SF小説」に書き換えてもらわなくても、オリジナルを読んだ方が(西欧文化を考える上で)よほど役にも立つし、その意味でそっちの方が面白いからである。

ちなみに、ここでいう『タロー』とは、岡本太郎でもウルトラマンタロウでもなく、「タロット」カード占いのことである。
本作を読めばわかることだが、「タロー」なんて訳語も、知ったかぶりっぽくて、あまり好感が持てない。

ともあれ、「ニューウェーブSF」が、「近代(科学)主義」的なそれまでのSFに対して、そこには収まらないものを求めた結果の「内面主義」や「反近代理性主義」だとは言っても、それが大真面目に、神話だの神秘主義だのタロットカードだのといったものを、何か「深い意味を秘めたもの」のように扱う、そんな幼稚な反動趣味など、私はとうてい好きになれないし、そうした「西欧古典文化」を踏まえた作品を書けば、それが「教養ある、現代の西欧古典文学」にでもなるといった、わかりやすい「権威主義」的な発想にもうんざりなのだ。

そういう「非科学的な過去の遺物」を「批判的」に取り込むのなら良いが、大真面目に「新しがって」見せているのだから、今の目からすると「正気かよ? レトリックなんだろう?」と疑いたくもなるのだが、どうやらディレイニーは、本気なのである。

『 カティンは指の関節を歯でかんだ。「しかし考えてみると、そういう石化した発想が出てくるのも地球ならではのことかもしれないな。星系間大移動の時代が過ぎてみると、あとに出くわすのは、洗練が進んで、タローのようなものまでちゃんと理解してしまう文化ばかりさ。驚くこともないけど、モンゴル奥地のどこか砂漠の町には、古びた信念をまだ後生大事に抱えている人間がいるんだろう。地球というのは、大きな象が背中にしょった皿の上に浮かんでいるのであって、その象はとぐろを巻いた大蛇を踏みしめ、大蛇は、永遠の海を泳ぐの甲羅にのっているなんてね。すばらしいにはちがいないが、そんなところで生まれてなくてよかったよ。目をむくような偏物が出てくる。ハーヴァードにいた男なんだけれどー」カティンはことばを切り、マウスをふりかえった。「きみは変なやつだな。三十二世紀テクノロジーの産物である星間貨物船をこうやって飛ばしながら、いっしょに頭のなかには、千年も前にすたれた化石みたいな観念がごっそり詰まってる。』(P194)

つまり、ここでは「タロットカード占いは、人類の合理的な叡智の賜物」であるのに、「古い地球人たち」には、それがわかっていなかったのだが、32世紀には、そんな「(タロット占いなど、非合理的な迷信だという)迷信」を信じる者などほとんどいなくなったと、そう作中人物に語らせているのである。

これは、いま読むと、ここでの語り手であるカティンや「32世紀の常識」の方が間違っているのだと、作者であるディレイニーが、捻った「文明論」でも書いているように思いたくなるところなのだけれど、本作『ノヴァ』が「1968年」という「世界的な学生叛乱の年」に書かれたものであり、1960年代後半の「ヒッピー・ムーブメント」やそれに伴う「ドラッグ・カルチャー」などといった、その時代背景を考えれば、やはり「時代の子」の一人でしかなかったディレイニーが「タロットが迷信だなんて、君は古いね。あれは人類の象徴主義的な叡智の詰まったものなのだよ」というふうに考えていたというのも、わりあい素直に呑み込めるのではないだろうか。

そんなわけで、私は本作『ノヴァ』の特徴でもある、「ワイドスクリーン・バロック」の「活劇」にも惹かれなかれば、大真面目に語られた『神話/神秘主義に根をおろした祖型的アレゴリー(なかではタローと聖杯伝説が顕著な役割をはたす)として(略)SFことばで語った現代の神話』の部分にも、まったく感心しなかった。
フィリップ・K・ディックのような「体験的」なものなら、それなりに興味も持てるが、サミュエル・L・ディレイニーの「オリエンタリズム」臭のプンプンする「文学(教養)趣味」など、まったく興味が持てなかったのである。

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そんなわけで、すでに買ってある『バベル-17』と『アインシュタイン交差』を読むかどうかは微妙なところ。
本書1冊で、大まかにでもディレイニーの雰囲気は掴んだのだから、もうこれで済ませてもいいかという気分に傾いている。

まあ、まだ読んだことのないロジャー・ゼラズニイについては、ひとまず前述の『伝道の書に捧げる薔薇』は読むつもりでいる。



(2024年5月15日)

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