斉藤佳苗 『LGBT問題を考える 基礎知識から海外情勢まで』 : うんざりだ。
書評:斉藤佳苗『LGBT問題を考える 基礎知識から海外情勢まで』(鹿砦社)
まずは、タイトルから説明しよう。「LGBT問題」とは、何を問題としたものなのか。それは「LGBT」という「性概念」が孕む「弊害」についての「問題意識」のことである。
要は、それまでの長い歴史においては、人間には「男と女」しかおらず、この両者が愛し合うのが「当たり前」であり、それ以外は「異常」あるいは「病気」だとされて、治療の対象になったり、時には、差別的に社会から排除されたりしてきた。
その代表的な事例が、ナチス・ドイツによる「同性愛者」虐殺で、ナチスが行ったのは、何も「ユダヤ人虐殺」だけではなく、「同性愛者」「障害者」「ロマ(以前は「ジプシー」と呼ばれた、定住しない少数民族)」なども、その虐殺対象となったのである。
これらの人々は、人間の中の「劣等種」であり「出来損ない」だと、そう(一般にも)思われていたのだ。
しかし、こうした「ユダヤ人」「障害者」「性的少数者」「少数民族」などに対する差別は、ナチス・ドイツの極端な蛮行への反省から、第二次世界大戦後は大きく改められていき、少なくとも、そうした人たちを絶滅させることが「人類の発展のためだ」などと、その「正義」を公然と語る者はいなくなった。
「差別はいけない」というのは「当たり前の話(常識)」となったのである。
だから、それまでは、「性的逸脱者」「性的異常者」「変態性欲者」などと蔑視されていた「同性愛者」たちのそれも、人間の性愛のあり方の一つのかたちだと、広く社会から認められるようになった。
つまり「男が男を、女が女を好きになる」ことは、「少数例」ではあるものの、「異常」でも「病気」でもなく、「正常」の内だと考えられるようになったのだ。
そして、こうした「寛容な性理解」が進むにつれて「男女両方を性愛の対象とするバイセクシャル」も「体の性と心の性が一致しないトランスジェンダー」も、それらが「同性愛者」以上に「少数例」であったとしても、やはり「正常の内」だと考えられるようになっていった。
つまり「LGBT」とは「多様な性のあり方」を認めるという意味での、性のあり方を表す言葉となったのである。
ところが、こうして、寛容に「少数例」の人権を認める思想が広がっていくと、当然のことながら、これまでは見えていなかった、さらなる少数例が表面化してきて、「LGBT」は「LGBTQ」という言葉に拡張される。
最後に付け加わった「Q」とは、
つまり、当人が、自身の「性別」や「性的欲望のかたち」を「よく理解できない」「説明できない」ような「複雑」であったり「不定形」であったりするものが次々と見つかるようになって、そうしたものは、当然それまでの「LGBT」には含まれないから、そこに「Q」を付け加えて「LGBTQ」としたのだが、しかし、その後にも、さらなる「少数例」と「される」あるいは「考えられる」人たちが続々と現れてきた結果、「LGBTQ」は「LGBTQ+」とまで表記されるようになって、この言葉は、当然、無限に長くなっていくだろうと予想されるようになった。そこで、もう「LGBT」で、「すべての性の形態」を意味することにしよう、ということにもなったのである。
だが、ここで問題となってくるのは、「すべての性の形態」を認めるという「寛容」とは、要は、「何でもあり」に近いものとなってしまって、ついには「社会的性別」としての「基本線」であり「常識」であった、「男女」という「二元論」概念までをも、疑わせるに至る。
それも「制度的な幻想(フイクション)」だったのではないか、という「ラディカルな疑義」が呈されるようになってきたのだ。
「そもそも、人間には男と女がいると、そう簡単に二分して言うけれども、現実には、その中間もいれば、そもそも男女ベクトルから外れてしまう人だって色々いる。となれば、男女二元論とは、もともと多数派が、少数派を異常として排除した上に、抽象的に構築していただけの、制度的な幻想だったのではないのか?」と、そうした疑義が呈されるようになったのである。
そして、そうした「男女二元論」は幻想ではないかということを「哲学」的に語ったのが、アメリカの哲学者ジュディス・バトラーの著書『ジェンダー・トラブル』であった。彼女自身は、自ら「レズビアン」であることを公言した人てあった。
ともあれ、このように考えていけば、「男女二元論は、制度的幻想(フィクション)だ」という見方も、決して難しい話ではない。
たしかに、「すべての例外的存在」を「同じ人間」だと認めていくなら、たぶん「人間」という概念すら曖昧になってしまうだろう。
だが、それを承知で徹底的に突き詰める思考努力を、私たちは「哲学」と呼ぶのである。
SF的な話のように聞こえるだろうが、例えば、同様の問題として、「豚の遺伝子を組み込んだ人間は、(純粋な)人間なのか?」という問題も出てくる。
もちろん、「豚の皮膚を移植する」くらいなら大きな問題にはならないが、すでに、心臓などの「臓器移植」も実験的に始まっているのだから、例えば「脳」も含めて「すべての臓器」が移植可能になる可能性も、考慮されなければならない。
その場合、「豚の脳を移植し(そこに人間の記憶データを収めた)人間は、人間なのか?」といった話にもなれば、体の機能がどんどん失われていくために、次々と「豚の臓器」を移植して延命をはかった結果、「脳以外はすべて豚」になった「人」は、「人間」だと言えるのか? いや、その「脳さえ豚であっても、そこに、人間の脳データを収めれば、その全身が豚の存在は、人間と呼ぶべきなのか?」という問題にまで至ってしまうだろう。
実際、これは「豚」という「他の動物」だから「おぞましい」と感じる人もいるだろうが、では「機械の身体」や「生物学的な人工身体」なら「おぞましくはないのか?」という話にもなろう。
つまり、「義手・義足」から始まって「人工皮膚」「人工臓器」そして「人工頭脳に人間の記憶を収める」といったふうになっていけば、極端な話、「コンピュータに、人間の記憶や思考を完全にアップロードしたなら、そして、そのコンピュータ自身が、自力で新たなデータを集めて、データを更新する能力まで持つようになった」なら、それは「人間」なのか? というような話になってしまうのだ。
そして、これは「LGBT」問題でも、基本的には同じことなのである。
あらゆる「少数例」を「寛容に認める」となると、実際のところ「何でもあり」ということになる。
例えば「幼児性愛」や「動物性愛」だって、故意の悪意がない、言い換えれば、素直な性欲の発露なら、それは単なる「少数例」であると、そう考えることもできる。
事実、その線に沿って、ドイツでは、「児童ポルノの所持」が2024年5月に「軽犯罪化された」とある(P317)。これはたぶん「子供に手を出すくらいなら、ポルノで済ませておけ。性欲そのものは否定できないのだから」というような「現実的な判断」からではないだろうか。
しかし、「あらゆる性のかたちを、寛容に認める」努力の結果として、実際に起こってしまった事例に、次のようなものがある。
「肉体的には男性である人が、女性と結婚して子供も作り、日頃は男性として生活していながら、時に、自覚としては女性に変わってしまい、その時は、少なくとも自己認識としては女性なのだから、男性トイレではなく、女性トイレに入ろうとした」結果、当然のことながら「男が女性トイレに入ってきた。痴漢だ」と騒ぎになったのだが、その「男性」は、「いや、その時の私は〈女性〉だったんです。だから、女性トイレに入るのは当然の権利で、犯罪でも何でもありません」と、そう主張した。一一と、おおむねこのような事例である。
つまり、「男女二元論」が「制度的幻想」であるならば、「男でも女でもない人」「男であり女である人」「男であったり女であったりする人」というのも、「少数例」ながら存在していて当然だし、そうした「少数者の人権」も、当然のことながら「守られなければならない」。
だが、「理屈」はそうでも、こうした「高度な抽象概念」は、「ごく普通の人」すなわち「抽象的な思考能力を十分には持ち合わせていない人」には、基本的には「理解不能」であり、「理解」を得ることは、極めて困難である。
例えば、どこからどう見ても「豚」にしか見えないものが連れてこられて、そばにいる「学者」が「彼は、豚ではなく人間です。たしかに、肉体的には完全に豚ですが、彼の脳には人間のデータが収められていて、彼は、頭の中で、人間として思考しているのです。だから、今は声帯構造の関係で、人間の言葉は話せませんが、あなたが話すことは、完全に理解できるのですよ。したがって、見かけで判断して差別するのではなく、同じ人間として、同席して一緒に食事をさせていただきますね」と、そう言われたとしたら、「はい、そうですか」と受け入れられる人は、そう多くはないはずだ。
少なくとも「その証拠を見せてもらわないと、人間だとは認められない。あなたに、かつがれているだけかもしれないじゃないですか」という話にはなるだろう。これはこれで「当然のこと」でもあるのだ。
一方「性の形態」について「何でもあり」となれば、そもそも「男女二元論」に限らず、「三元論」であろうが「百元論」であろうが、「性別」というのは、「すべて幻想」であり、「そもそも、性別などというものは存在しない」のだから、「性別」という「制度」を残すのであれば、それは各自が「自分は、これだ」と思うものでいいじゃないか、それが最も「個人を尊重すること」ではないか、という考え方が出てくるというのも、ほとんど必然であろう。
つまり、もう「肉体」が何であろうと、当人が「私は男」「私は女」「私は男性同性愛者(ゲイ・ホモセクシャル)」「私は女性同性愛者(ゲイ・レズビアン)」「私は、両性愛者(バイセクシャル)」「私は、トランスジェンダーの男」「私は、トランスジェンダーの女」等といった、各人の「性自認」を尊重して、その人の「性」を「公認すべき」なのでないか、という「ラディカルな考え方」も、当然の結果として出てきたのである。
しかし、当然のことながら、これもまた、現実の場では、うまくは回らない。
これも、現実に出てきた事例なのだが、「肉体は男だが、心は女で、しかも、その性愛の対象は女性であり、つまり、自分は〈レズビアン〉である」と「考えている」あるいは「主張する」人が、「体も心も女性であるレズビアン女性」に対して、「レズビアン」として「セックスしましょう。私のペニスを受け入れてください」と言えば、「体も心も女性であるレズビアン女性」としては、当然「肉体的には男でしかない、その自認女性」との性交など受け入れられるわけがない。
だから「申し訳ないけど、私は、体が男性のままの人とセックスする気にはならないのよ」と断ったところ、その「自認女性の肉体男性(トランスジェンダー)」の人から、次のように非難されることになってしまった。
「あなたは、男女二元論という古い制度的な幻想に縛られたままであり、その偏見のために、私を〈見かけ〉だけで判断して、差別している。しかし、あなたのしていることは、かつてレズビアンが受けた差別と、基本的には同じことなのですよ。だから、性差別が間違っていると思うのなら、あなたは私を女性であると認めるべきです。個人としての好き嫌いはあるでしょう。でも、肉体が、男とされてきた形態のものだから、女だとは認められないというのは、明らかに、外見による差別でしかないのです」
こうした各種トラブルのせいで、今や「(旧来の)レズビアン女性」は「トランスジェンダーの(元男性あるいは肉体は男性のままの)女性」は、「女性とは認められない」ということで、両者の間では、決定的な「相互了解の不能」が生じてしまったのである。
例えば、昔「レズビアンSF」小説などを書いて注目された、作家の森奈津子も、本書著者に近い立場の人で、Twitter(現「X」)で、本書の予約宣伝のツイートをしていたが、私は、2000年に刊行された短編集『西城秀樹のおかげです』を「なんで今頃、西城秀樹?」と思いながら、当時買ったはずだ。残念ながら、積読の山に埋もれさせてはしまったのだが。
ともあれ、「LGBT」とか「LGBTQ」などと、一括りに言うけれども、現実には、その中でだって「ここまでは認められるが、あれは認められない」という話になっているのである。
したがって、いまだに「男女二元論」を「当たり前」だと信じている、世間一般の大半の人たちが、その「中身」をよく理解した上で、「LGBT」思想をを丸ごと認めるというのは、じつは、そう簡単な話ではないのだ。
なにしろ、「ホモセクシャル」や「レズビアン」というのは、「男女二元論」というのを「大前提」とした上で、しかし「性愛の対象」が「一般的なもの」とは違っている人たちなのだから、「バイセクシャル」でないかぎり「男女二元論」を否定することはできない。
つまり、しごく大雑把に言われる「LGBT」というものを、彼ら彼女らは「認めるわけにはいかない」のだ。「男女二元論」を「制度的な幻想」であると認めてしまったら、「ホモセクシャル」や「レズビアン」というものは、実質的には、その存在を「消されてしまう」からである。
したがって、俗にいう「LGBT」運動を進めようとしている人たちの中には、いわゆる「ホモセクシャル」や「レズビアン」は、原理的に言うならば「存在し得ない」ということになってしまう。
「LGBT」が意味する「何でもあり」的なものを、本気で突き詰めて考えるなら、「男女二元論」に立脚した「ホモセクシャル」や「レズビアン」という「性志向の自認」は、存在し得なくなってしまうと、そう気づかざるを得ない。
具体的に言えば、前述の「肉体が男である人を、女性だと認めて性愛の対象にすることのできないレズビアン」や、逆に「肉体が女である人を、男性だと認めて性愛の対象にすることのできないホモセクシャル」にとっては 「そんな理屈が通るのなら、人間の脳を収めた豚とでも、差別せずに寝ろ、愛し合えと言うのか!」ということにしかならないからである。
だから、テレビニュースなどで見かける「LGBT」運動をしている人というのは、「何でもあり」だとまで認めている「ごく一部の先鋭な人」を中心として、「そこまで突き詰めて考えてはいない、大半の人」からなっていると、そう考えるべきなのだ。
私たちの大半が「性区分」に対して、そこまで突き詰めて考えてはいないように、彼ら「LGBT」の大半だって、「自分たちの性自認が、社会的に認められてほしい」と願って運動に参加しているだけで、「何でもありになったら、どうなる」ということまでは、考えていないのである。考えていれば、ああ呑気な顔はしていられないはずなのだ。
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したがって「LGBT問題」とは、「性は自由である(何でもありだ)」と考える「思想」に対し、それは「問題がある」と考える人たちの立場からの「問題」提起であって、逆に、「LGBT」の人たち自身は、それを少しも問題だとは思っていない。
本書は、そんな「LGBT」運動家たちが持っている「性は何でもあり」という思想に「反対」する人によって書かれた、無自覚なイデオロギーの書であり、プロパガンダのための本なのであって、決して「中立的な立場で書かれた学術書」などではない。
ハッキリと「LGBT思想」に反対する、「男女二元論を堅持すべきだ」と考える著者によって書かれたものなのである。
だから、読者個々は、自分がどのような立場を選ぶにしろ、本書が「中立客観的に書かれたものではない」ということを、よくよく理解して読まなければならない。
具体的に言えば、本書は「LGBT思想」の「弊害」を強調して、「LGBT運動家」を「悪魔化する」立場で書かれている。
だから、そのあたりの「イデオロギー」性に対する認識を十分に持たないまま本書を読めば、当然のことながら「LGBT思想って、とんでもないものだ。著者の言っていることは完全に正しい。ただちに、LGBT思想を潰さなければならない」ということにしかならないだろう。
実際、本書のAmazonのカスタマーレビューを見ても、本書に対する感想はそうしたものでしかなく、「中立客観的な立場」に立ち得ているレビュアーは、一人もいない。
だがまた、残念ながら、「大衆」というものは、「大衆の知力」というものは、いつだってその程度のものでしかないというのが、偽らざる現実であり、「LGBT」派や「反LGBT」派もまた、その大半は、「自身のイデオロギー」に気づかないまま、相手を「差別者だ」とか「社会破壊者だ」と、そう非難し合っているだけなのである。
要は、「愚かな人類らしい歴史を、ここでもくり返しているだけ」なのだ。
だから、私に言わせれば、ハッキリ言って「どっちもどっち」でしかない。
どっちが勝っても、それで万事解決にはならず、必ずや勝った方が「正義」を勝ち誇って、その後も「やり過ぎる」はずだ。
つまり、古い言葉で恐縮だが、両者のイデオロギー的対立は、所詮「馬鹿と阿呆の絡み合い」でしかなく、優勢な方が無茶をし、劣勢な方は無茶ができないでいるだけ、なのである。
要は、「LGBT主義者」というのは、「何でもありで、みんな平等が、そのまま実現し得る」と、本気で思い込んでいる、急進正義派の馬鹿であり、それに反対している「反LGBT主義者」の方は「だって、科学的に見たって、男女の性別があるのは事実なんだから、男女二元論は捨てられないでしょう。少数例外の存在は認めてあげるとしても」と、そう思い込んでいる、現実主義を気取った、視野の狭い、頭の悪い阿呆なのである。
つまり、表面的な立場は真逆であっても、「自信過剰の馬鹿」であるという点では同じだから、結局は、両者の争いは「それぞれの正義を掲げて、相手を悪魔化し、相手の存在を否定するしかない」となって、昨今流行の「対話不能の分断状況」となり、「あいつらとは話ができないのだから、力づくで黙らせるのも、仕方がない」という「キャンセル(言論によらない排斥)」が、選ばれることになってしまうのだ。どっちもが、である。
たしかに本書で著者は「私たちは話し合おうとしているのに、相手は、キャンセルやノーディベートを戦略的に選択していて、話にならない」と、「LGBT主義者」たちを批判しており、この批判は「一応ごもっとも」ではあるのだが、しかし、本書の「結論」を読めば、著者の考えが「敵と同じ」だというのは、明らかなのだ。
ここを読めばわかるとおり、たしかに「LGBT活動家」が「やりすぎた事例」は、事実として山ほどあるだろう。
かつて「新左翼」や「宗教原理主義者」が、その「理想」のためには、「聖戦」としての「爆弾闘争」さえ辞さず、それも「正義」だと考えたのと同じことなのだから、ある意味で「LGBT活動家」のやっていることは、まだしも「法律の許す範囲内でのこと」だと言えるかもしれない。
だがまたそれも、決して「民主主義的なやり方」だとは言えないだろう。
一一だからこそ、非民主主義的な「キャンセル」だとか「ノーディベート」だと呼ばれ、批判されることにもなるのだ。
だが、ここで問題なのは、そこではない。問題は、著者が、
と、当たり前のように語ってしまっている点である。
つまり、「正義」の実現ためなら、「敵が使っている(あまり好ましいものではないような、あらゆる)手段を、われわれも使おうではないか」と、そう言っているのである。一一言い換えれば、「目的は手段を正当化する」と。
だが、自分たちの側に「正義」があると考えているのは、「LGBT運動家」たちの側も同じであり、そう信じているからこそ、彼らもまた「手段を選ばない(話し合いなどという、実効性の薄い迂遠なことはしていられない)」という急進的な傾向を持ってしまっているのである。「だって、このくらいやらないと、いくら話し合ったって、世の中は変わらないでしょう」ということである。
そして、それをそのまま「真似」して「それくらいしないと、LGBT運動家たちの危険な運動を、止めることは出来ないでしょう」というのが、本書著者の「立場」であり、その「正義」なのだ。
だから私は、両者の抗争を「馬鹿と阿呆の絡み合い」でしかない、と言うのである。
「民主主義」の原則というのは、言うまでもなく「話し合い」である。いかに迂遠であろうと、時に無力であろうとだ。
では、何を「話し合う」のかと言えば、それは「何が正しいことなのか、正しい選択とは何なのか」である。
つまり、「話し合い」をする以前の「それぞれの意見」は、決して「正義」ではないのだ。「正義」だと思い込んでいれば、決してその「意見」を譲ることは出来ない。
だが、自分の意見が「一つの立場」のそれであると考えるから、「話し合い」の中で、それぞれの「意見」を修正していき、妥協点を見つけ、折り合いをつけて、「自分の理想」どおりではないとしても、「比較的マシな(問題の少ない)結論」にも、たどり着きうるのである。
ところが、「LGBT主義者(運動家)」や、本書著者のような「反LGBT主義者(運動家)」というのは、「自分の意見=正義」だと思い込んでいる「馬鹿」だから、当然のことながら「話し合い」にはならない。
お互いに「あいつらは話しにならないから、事を粛々と、政治的に進めるしかない」と、そんなふうに考えている、どっちも「お話にならない人たち」なのである。
そのため、本書を読んでいて、心底「うんざり」させられてしまった。
これが、世間において、「正義を担いでまわっている運動家」たちの、平均的な姿なのだと、あらためて、そう思い知らされたからである。
本書筆者もそうであるように、ご当人らは「私は良識派である」と思い込んでいるのだが、じつのところ、そんな人が、「相手には良識がない」と、単純に思い込んでいる。決めつけている。すでに答を出してしまっている。
つまり両者は、そうした「自己過信」において、相手と「同レベル」でしかない。
だからこそ、その「結論」も同じで、「話し合いのできない相手だから、実力で排除するしかない。目的の正しさは手段を正当化する。私たちは、あいつらとは違うのだ」と、そう思っているのである。一一だから「うんざり」なのである。
本書を読んでいて、特に同情したのは、ジュディス・バトラーに対してだ。
彼女は、「男女二元論」という「制度的な幻想」を批判することで、少しでも「すべての人の自由」を実現したいと考えた。そのために、人々が信じ込んでいる「思考の制度的な枠組み」に、くさびを打ち込んだのだ。
ところが、「LGBT主義者(運動家)」たちは、バトラーの理論の「意図するところ」をまったく理解しないまま、「男女二元論は幻想である」という部分だけを「切り取って」、「だから、性自認がすべてで良いんだ。それこそが正義なんだ」と、短絡的な「自己正当化」に利用してしまった。
言うまでもないことだが、バトラーが「男女二元論は幻想である」と言ったのは、「誰の性自認が正しくて、誰が間違っている」ということではなく、「私たちは誰しも、自分に都合の良い幻想に執着しがちなのだ。だが、そうしたものは、すべて間違った、幻想への執着にすぎない」ということだったのだ。「だから、他者を尊重しよう」と。
その証拠に、彼女は自身を「レズビアン」だと、そう「表現(説明)」している。
先にも説明したとおり、「男女二元論は幻想」であるとするのなら、そもそも「レズビアン」というものも、幻想なのである。
だから、一見したところ、彼女は「矛盾したこと」を言っているように聞こえるだが、そうではない。
現実に、物事を論じるためには、そうした「制度的な幻想としての概念」も使わないことには、何も論じられないから、彼女はやむなく、世間に通有の概念を使って、自分を「私はレズビアンです」と説明しているのだ。
例えば、「本当は男も女もないのですが、私は女と呼ばれてきたものが好きなのです」と言ったところで、どれほどの人が、この言葉の意味するところを理解できるだろうか?
例えば、「時間は流れない」「私は存在しない」と言って、その意味せんとするところを、理解できる人が、いったいどれくらいのおろう。
そうした、「哲学的に正確な言葉」は、ほとんどの人には、理解不能なのである。それが「現実」なのだ。
だから、バトラーは、やむなく「世間向けの、次善の策的な説明」として「私はレズビアンです」と言っているだけで、それが「正確な現実表現(描写)」だと思ってなどいなかったのである。
これは、ユダヤ人(イスラエル民族の末裔)である彼女が、「パレスチナ問題」について、昔から(ユダヤ・イスラエル人とパレスチナ人からなる)「一国ニ民族制」による平和共存の実現を訴えているのと同じことだ。
哲学者としての彼女は、「国家」や「民族」や「国境」といったことが、すべて「制度としてのフィクション」であることなど、重々承知している。
だが、だからといって「みなさん、本来、人間には、ユダヤ人もパレスチナ人もありません。地上には、もともと国境なんてありません。そんなものは、すべてフィクションであり幻想なのだから、そんなものはすべて捨てて、ともに仲良く自由に生きましょう」などと言わないのは、私たちが、そうした「制度としてのフィクション」から自由になるのが容易ではない、という現実も、重々承知しているからである。
だから、やむを得ない妥協として、「制度的なフィクション」による言葉としての「一国ニ民族制」といった表現を採用したのだ。そうせざるを得なかったのである。
同様に、彼女の「哲学的に深い思考」の方は、「LGBT運動家」にも「反LGBT運動家」にも、当然のことながら、理解されてはいない。彼らには、それを理解する能力なんて無かった。
一一にもかかわらず、馬鹿だからこそ、「わかっているつもり」で、バトラーの思考の「一部を切り取って利用」したり、それを見て「LGBT思想の源流の一つはジュディス・バトラーだ。バトラーとは、なんておかしなことを言う思想家なんだろう」と、そう誤解して、「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」と言うよりは、「袈裟(理論)が憎けりゃ、思想家まで憎い」と短絡してしまう。
そしてさらに、「敵の思想」なら軽く扱っても良い、不正確な理解のままでもいいという舐めた態度で、バトラーの思想をまともに理解しようともしないまま、本書では、バトラーの思想について、むしろ自慢気に『世界一わかりやすい説明』なるものを掲げて「いい気になっている」。
バトラーの思想がわからない人間に、どうしてその簡略な説明が、正しいか否かの区別が、あるいは、わかりやすいのか見当違いなのかの区別が、つけられるというのか。
要は、それくらい「無責任なこと」が、本書には書いてある、ということなのだ。
その「わかりやすい説明」というやつだが、たしかに「わかりやすい」し、大筋では「間違っていない」とは、私も思う。
だが、それでも、それを読むだけでは、バトラーが言わんとしたところを理解することなど出来ないし、事実、本書著者も「理解できないまま」なのだ。
単に「理解したつもりになっている(そう思い込もうとしている)」だけなのである。
喩えて言うなら、「中学3年生の日本史の教科書」というのは「わかりやすい」し、大筋で「間違ってはいない」。
だが、それをそのまま「理解」したからといって、「歴史(そのもの)を理解したことになならない」というのと、同じことなのだ。その程度の「理解」なのである。
ともあれ、たかだか30ページほどの説明で、
などという、極めて軽薄な物言いが、いかに不遜で、読者に対しても無責任な、ふざけたものかは、もはや論を待たない。
本書著者は、例えば、『ジュディス・バトラー入門』という、たかだか数百ページの本1冊を読んで、バトラーの思想が理解できたと思い込むような馬鹿以上の、大馬鹿だという、これはその証拠でしかないのだ。
本書著者は、バトラーについて、次のように書いている。
この「自惚れきった馬鹿丸出しの物言い」には、何度読んでも反吐が出そうである。
著者の肩書きは「医師」となっており、何のお医者さんかは知らないが、まあ、お医者さんになる程度の「学力」はあったのだろうが、いかんせん「自分の限界を認識する」ほどの知力は無かった、ということだ(我らが北村紗衣だって、東大を卒業して、武蔵大学の教授になったのだ。つまり、医者も大学教授も、肩書きだけなら、その程度のもの、なのである)。
ろくに哲学書を読んだこともないくせに、たかだか30ページほどの、「他人がまとめたネット上の説明文」を、「自分にはわかりやすかった」という理由だけで借りてきて、それをそのまんま掲載し、『バトラーの理論と一緒に数百年分の哲学の知識も身に付くのでお得。』と(本書の中で、二、三度)書く、その「図太い神経に支えられた、無反省な傲慢さ」というのは、並大抵のものではない。
無論、こんな著者の書いていることを、鵜呑みにできるのは、頭の悪い「騙されやすい」読者だけである。
こうした物言いは、医師として以前に、人としての信用を疑わせるものだと、そう気づいて然るべきなのだ。文章が「読める」人ならば。
だから、こんな人に「大丈夫。私が保証します」などと請け負われても、本書を読んだ後の今の私は、そうした言葉を、決して信用することは出来ないのである。
また、『私なりの理解を述べる。』とか『という感じの主張だと思っている。』などと書いておけば、それで「多少間違っていても許されるだろう」と考えている、その薄っぺらい底意が見え見えだ。
こんな人だからこそ、小生意気にも、バトラーの理論を、
などと、偉そうに「総括」することもできたのである。
だが、言うまでもなく、バトラーが語ったのは「哲学的な議論」であって「世間が受け入れやすいお話(フィクション)」ではないのだから、それをそのまま「現実世界」に、すぐに「適用できる」などとは、バトラー自身も思っていないというのは、馬鹿でなければ、わかりきった話でしかない。
したがって、その程度のことをバトラーがわかっていなかったかのように「誤解」するのは、頭の悪い「LGBT運動家」と、それと同レベルの、本書著者のような「反LGBT運動家」に他ならないのだ。
だから「馬鹿と阿呆の絡み合い」だと言うのである。
そもそも、多少とも知的に謙虚であれば、たいがいの「哲学研究者」には「バトラーの理論は、そのまますぐに現実社会に適用することのできないものだ」くらいのことは、自明なこととして了解できていたからこそ、バトラーの「哲学」自体は支持した、というのも、理解できたはずである。
ところが、馬鹿のくせに、並外れた思い上がりの持ち主である本書著者は、そうした学者たちをひとまとめにして「権威主義者」のレッテルを貼り付け、自分と同様の「頭の悪い」思想家を「孤高の反逆者」であるかのように描いて見せるのである。
そりゃあ、その学者に嫌がらせがあったのは事実だろう。だが、嫌がらせをしているのは相手方だけではないし、ここでのバトラーの紹介自体が、そもそも誹謗の類いなのだ。ただ、頭が悪すぎて、その自覚がないだけの。
誹謗者というのは、たいがいは「正しい評価を語っている」つもりだという、その典型が、本書著者であり、それが本書におけるバトラー紹介に、端なくも表れているのである。
だが、本書の読者の大半は、この程度のことすら読み取れない馬鹿揃いであり、そんな人たちが本書著者のような「扇動家」に踊らされて、「自らの正義」を振り翳して「馬鹿と阿呆の絡み合い」に参戦していくのである。
まさに、うんざりだ。
もちろん、本書で紹介されている「情報」や「事例」自体は、単純に「参考」にはなる。
ここに集められた「情報」が「偏頗」なものであり、その紹介の仕方が「レトリックによって、恣意的に脚色されている」というのを理解した上で読むのなら、「読まないよりは読んだほうがマシ」くらいの価値は見出せるだろうし、私もそうした観点から「読んで損はなかった」とは思っている。
たしかに、自分たちの正義を振り翳して「暴走しがち」な、今の「LGBT運動」には多くの問題がある。
すでに説明したように、「キャンセル」や「ノーディベート」という「反民主主義的な手法」を駆使して、「結果がすべて」「勝てば官軍」になってしまっている今の「LGBT運動」には、相応にブレーキがかけられるべきであり、そうしなければ、社会は大変な混乱をきたすことになるであろう。
だから、私も、罰則のある「LGBT差別禁止法」ではなく、理念法である「LGBT理解増進法」の線で、少しずつ世の中を変えていく(対話により理解を広げていく)という方向を支持している。
したがって、私の立場は、表面的には「似た選択」をしていても、本書著者の立場とは、決して同じではない。
私もまた、「男女二元論」など「制度的なフィクション」に過ぎないと考えているのだから、それに由来する「差別」が現存する以上、そうした「制度的幻想」は「いずれは解体されなければならない」とは思っている。
だたし、それは「LGBT派」が考え望むような、「今すぐ」ではない。
またそれは、原理的に、完全な実現の不可能なことなのだ。
「理想」という「理念」は、持つべきものだが、他人に強制してはならないものだし、追い求めるべきものだが、到達することのできないものでもあるのである。
先日、前嶋和弘著『キャンセルカルチャー アメリカ、貶めあう社会』のレビューに書いたとおり、原則として、たとえ「誤った慣習」であったとしても、それが人々の間で長く広く定着してきたものなのであれば、それへの、一定の尊重は、是非とも必要なのだ。
だから、そうしたものを強制的に排斥(キャンセル)するではなく、「それは、これこれこうした理由で、間違ったものなのです。だから解体是正されなければなりません。でないと、そのせいで苦しんでいる人たちが、いつまでも浮かばれません」という「根気強い説得」が、是非とも必要なのだ。つまり、原則は「言論」であり「議論」なのである。
「間違ったことなら、四の五の言わさずに、今すぐ変えれば良い」などという、単細胞で乱暴な「急進主義」的なやり方というのは、「他の人々の、それまでの生き方」を全面否定する暴虐であるという意味合いにおいて「悪」なのだ。
いくら「目的」が正しくても、「目的」は「手段を正当化しない」のである。
私このように考えるのは、何もジュディス・バトラーに教えられたからではない。私は、バトラーの思想を知るずっと以前から、
と、そう語ってきたのである。
しかしまた、そんな私が「フィクションとして善悪のある世界」の中で、なぜ「何が善で何が悪かを、可能なかぎり峻別して生きようとしている」のかと言えば、それは私たちが、「人間」としての肉体に閉じ込められた存在(人間)だからである。
「人間」の肉体を持ったまま、「人間以上の真理」を実践することは不可能だし、それを人間がするのは、きっと間違ったこと(悪)だからなのだ。
例えば「人間なんていないほうが、地上の他のすべての生物のためである」という思想は、基本的には「正しい」。
けれども、その真理を「他の人間に強いた」とすれば、つまり、人類を絶滅させたとすれば、それは「人間としての誤り」であり「悪」になってしまう。
そして、言うなれば、こうした非現実的なまでに徹底した思考を「哲学する」というのであり、ジュディス・バトラーの「男女二元論は、制度的な虚構(フィクション)である」というのも、そのようなものとしての「哲学」なのだ。
だから、それは「正しい」のだけれど、それをそのまま「今ここで、人間社会に適用することはできない」のだし、そんなことは、バトラー自身も、他の哲学者の大半も、「自明の前提」として「哲学」しているのである。
だから、本書著者のような「傲慢な馬鹿」が「正義の反逆者」にでもなったつもりで、こんな本を書いているのを見ると、「この世の中の大半は、この程度の人たちであり、そんな人たちによって、現実世界は動かされているんだな」と、改めて思い知らされて、心底うんざりさせられてしまった。
だから私は、本書を読了するとすぐに、すでに買ったあった、富士正晴のエッセイ集『新編 不参加ぐらし』(荻原魚雷編・中公文庫)を、「口直し」に読み始めた。
案の定、その冒頭に収められた、表題エッセイ「不参加ぐらし」は、次のような言葉で締めくくられていたのである。
(2024年10月31日)
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