前嶋和弘 『キャンセルカルチャー アメリカ、貶めあう社会』 : 北村紗衣とキャンセルカルチャーの関係性
書評:前嶋和弘『キャンセルカルチャー アメリカ、貶めあう社会』(小学館)
「キャンセルカルチャー」(「キャンセル・カルチャー」とも表記)という言葉を、ご存知だろうか?
私のレビューを継続的に読んでくださっている方なら、すでに目にしているはずだし、おおよその意味もご理解いただいていることだろう。
だが、この言葉は、日本においてはまだまだ、一般に浸透しているとは言いがたい現状にある。
かく言う私自身、この言葉を知ったのはごく最近のことだ。だから、その際には「Wikipedia日本語版」を参照することしかできなかった。
そしてそこでは、おおむね次のような説明がなされていた。
ここで説明のポイントは、「キャンセルカルチャー」とは、
というところにある。
要は、「キャンセルカルチャー」とは、少なくとも今の日本においては、「〝正義〟の過剰行使」というようなことを、意味しているのである。
「間違った言動をした者に対しては、その言動を批判して正そうとする、だけに止まらず、その存在そのものを社会から抹殺して、永久的に発言権を奪ってしまおうとするような、過激な示威行動」
ということにでもなろうか。
つまり、ここで言う「キャンセルカルチャー」の問題は、それが「刑法」などで言うところの、「過剰防衛」的なもの(=やり過ぎた反撃)だという点にある。
たしかに「誤った言動」は「正されなければならない」し、「誤った言動を行なった人物」は、相応に罰せられなければならないだろう。
しかし、「誤った言動」を正すことは、ただちに、その人物から「職を奪う」とか「社会的な地位を奪う」といったこと意味するのでもなければ、まして「言論の自由」を奪うことなどではない。
そんな「過酷な処罰」を課して「見せしめの晒しもの」にすることで、社会を萎縮させ、「誤ることを許さない社会を作る」などといったことであろうはずもない。
人間とは、必ず「誤る生き物」なのだから、もしも「誤ることを許さない社会」になどなったら、そこは「普通の人間が、人間らしく生きていくことのできない社会」つまり「ディストピア」になってしまうだろう。
また、そんな世界でうまく生き延びていくのは、必ずや「偽善者」だ。
例えば、マーク・トウェインの名作『ハックルベリー・フィンの冒険』の主人公であるハックことハックルベリー・フィンは、アル中の乱暴者である父親に、なかば養育放棄に近いかたちで育てられた少年なので、学校には通ってはおらず、世間並みの道徳教育も受けていないから、小学生であるにもかかわらず、真っ昼間から町をほっつき歩く気ままな浮浪児であり、喫煙の習慣も当たり前にあった。
そのため、町の人々からは、とんでもない「不良少年」だと忌避されている。
(※ 往年のテレビアニメ『妖怪人間ベム』の主人公のひとり、ベロ少年は、町の親たちが子供たちに「あんないかがわしい子と遊んじゃダメよ」と言い聞かせたために、仲間はずれにされがちであった)
たしかにハックは、「当時の良識」あるいは「今の良識」においても、「不良少年」に分類される存在なのかも知れない。つまり「誤った生き方・悪い生き方」をしている少年だ、ということである。
だが、『ハックルベリー・フィンの冒険』を読めば分かるとおり、ハックは、本当は、非常に「心の優しい、心根の真っ直ぐな少年」である。
それは「奴隷制」が当たり前だった時代の南部アメリカにおいて、自分とは違って「行動の自由を持たない黒人奴隷」に同情して、逃亡奴隷をかくまってやったりするその一方で、自分の行いが「黒人奴隷の所収者の権利を侵害する違法行為」だともわかっているので、そうした「良心の板挟み」になって苦しむような少年なのである。
ここで、考えて欲しいのは、私たちがもし、この時のハックの立場であったら、どうかということだ。
まず間違いなく、多くの人は、「逃亡奴隷」のことを警察に通報するはずだ。なぜなら、私たちはそれを、「正義」だと信じているからである。
「万引犯」などの「窃盗犯」を見つけたら、(自分の身の安全が保証されている限り)多くの人は、「社会正義の実現」のために、その犯人のことを、警察に通報するだろう。
なにしろ法律には「他人の所有物を盗む行為(窃盗)」は「犯罪」であり、許すまじき「悪」であると規定されているし、自分も「そのとおり」だと思っているのだから、警察に通報するのは「当然」であり、「市民の義務」だとさえ考えるだろう。
一一これが一般的な、自覚的に「善良な市民」の姿なのである。
だから、こうした人たちが、「奴隷制度」が「当たり前」であった時代の南部アメリカに生きていたなら、必ずや「奴隷制度」を疑ったりはしないはずだ。
なにしろ「黒人奴隷」が「所有物」なのは、当たり前の「常識」なのだから、それを勝手に盗んだり「逃したり」するのは、犯罪に決まっている、と考えるからである。
例えば、他人の「所有物」である「ペット」や「家畜」などを、勝手に逃す人がいたら、あなたはどう思うだろうか?
その人を、ペットや家畜に、自由を与えてやろうとする「心優しい人」だと称賛するだろうか? それとも、他人の所有物を、勝手に侵害した「ふとどきな犯罪者」だと、そう批判断罪するだろうか?
(※ 例えば、日本の漁業者の営業妨害をする、国際環境NGO「グリーンピース」の行動を、思い浮かべてみると良い)
こんなふうに考えていけば、今の私たちの大半が、ハックのような人間ではなく、ハックを「不良少年」だとして、地域社会から仲間外れにした、「善良なる市民」の側の人間であることなど、明白なことなのだ。
では、どうして、ハックのような「本当は心優しい、心根の真っ直ぐな少年」を、人々は「そのまま見る」ことができずに、「不良少年」だと思い込んでいたのであろうか?
それは「学校へも行かない子供」は「まともじゃない」、まして「子供がタバコを吸うことなど許されない」といった、型通りの「倫理観」しか持っていないからである。
いわゆる「未開社会」なら、そもそも「学校制度」など存在していないから、子供は部族社会の実生活の中で、必要な知恵を身につけていくし、喫煙することも罪悪ではない。
喫煙が「罪悪」だと考えられるようになったのは、それが(贅沢な「嗜み」だと考えられたということもあるだろうが)「子供の健全な発育を害するものだ」という「科学的な知見」が得られたため、「子供のために、それを禁じる法律」が作られた結果、その法律をやぶる「子供の喫煙」は、「犯罪」行為であり、すなわち「悪」であり、それを行う子供は「犯罪者」に準じた「不良少年」ということになってしまったのである。
つまり、子供を守るために作られた「法律」のせいで、それに従わない子供は「悪人」扱いになってしまったのである。
だから、ハックが、「学校へ行っていない」ことも「喫煙する」ことも、人間にとっては、さほど「本質的な問題」ではない。
にもかかわらず、多くの人たちがそれを「許されるまじき悪徳」だと、そう感じたのは、いったいなぜであろう?
それは、「キリスト教倫理」、特に厳格なカルヴァン派的な「プロテスタント倫理」によって、そのような「厳格に倫理的な文化」が構築されていたからである。
人々は、自分の頭で「人間とは何か?」と考えて、自分の目で「人間を見る」ということをせず、与えられた「文化」としての「倫理規範」に従って、物事を「表面的」に捉えて、その「善悪」を判断し、その判断が「正しい=正義」だと決めつけていたのである。
そしてその結果として、ハックは「不良少年」として、社会から疎外されていたのだ。
○ ○ ○
つまり、私たちは、しばしば「文化という偏見」に縛られて物事を判断し、行動してしまう。
また実際のところ、「文化」から完全に自由な人間などというものは存在しない。
かの、学校へも行っていない「ハックルベリー・フィン」でさえ、いつの間にか「キリスト教倫理」を内面化していたからこそ「汝、盗むなかれ」という「戒律」を信じていた。
また、そのために、黒人奴隷の逃亡を手助けすることは「犯罪」だと感じて、良心の呵責に苛まれることにもなったのである。
だから、私たちがここで考えなければならないのは、私たちが「これが当たり前だ」「これが正しいに決まっている(それは悪に決まっている)」と「信じている」ような「常識的判断」だって、よくよく(哲学的に深く)考えてみれば、そう簡単な話ではなくなってしまう、という事実なのである。
例えば「他人の命を奪う」という行為は、一般には「殺人罪」として法律でも禁じられているし、多くの人はこれを「犯罪」であり、明白な「悪」だと思っていることだろう。
しかし、ではなぜ「戦争で人を殺す」ことは「犯罪」にならないのか?
あるいは、「犯罪者を死刑して殺す」ことは、なぜ「犯罪」にならないのか?
それは無論、それが「正しいこと」だからではなく、それが法律的には「犯罪とは、規定されていない」からである。
これらは、「国家」運営(政治)上の都合で、文字どおり、都合よく「殺人罪」から除外されているだけなのだ。
では、「安楽死」は、どうだろうか?
生きていても苦しみしかない人を「殺してあげる」のは、「犯罪(悪徳)」であろうか、それとも「思いやり(の善行)」なのであろうか? 一一こうなると、きっと意見は分かれるはずだ。
さらに言えば、単に「他者の苦しみを思いやって、殺してあげる」というのではなく、苦しんでいる当人から「私は苦しくてたまらないし、これが良くなる見込みもないのだから、私をこの苦しみから救うと思って殺してくれ」と、心からの懇願をされた(嘱託殺人の)場合、頼まれた人が「その希望のない苦しみを理解して、殺してあげる」ことが正しいのか、それとも、その患者が「いくら苦しもうと、殺せば、こっちが犯罪者になるのだから、自分は犯罪を犯さない」として「見殺しにする」ことが正しいのか?
ここにあるのが、まさに「文化的な葛藤」であり、「カルチャー・ギャップ」の問題なのだ。
ある文化に属する者は、「人をその苦しみから救ってあげることこそが正義であり、法律などというものは二の次である」と考えるだろう。これは、最終的には「自身の良心」に従って、黒人奴隷の逃亡の手助けをしたハックと同様の立場である。
その一方「気持ちはわかるけれども、そんな個人的な判断によって法律を蔑ろにすれば、人々は各々勝手なことをし始めて、社会は混乱をきたし、結局は悪を蔓延らせることになるだろう。だから、多少の〝弊害〟はあるにしても、私たちは、法律という、決められたルールに従うべきである」と考える人も、決して少なくはないはずなのだ。
それに何しろ、前者は「法律違反者」として、自分自身が「犯罪者」認定される危険を犯さなくてはならないが、後者のように、〝弊害〟には目を瞑って、法律に従っておけば、ひとまず「自分の身は安泰」なのだから、多くの人が、保身的に後者の立場を選ぶ、というのは、ごく自然なことなのである。
だが、問題は「自分さえ善ければ、それで良いのか?」ということなのだ。
○ ○ ○
私が、本稿の冒頭で引用した「Wikipedia」における「キャンセルカルチャー」の説明文は、じつはすでに、SF作家フィリップ・K・ディックの小説『宇宙の眼』のレビューで引用したものを、ここにコピペしたものである。
なぜ、SF小説のレビューに「キャンセルカルチャー」の説明文を引用しなければならなかったのか。
そもそも、この小説が書かれた頃には「キャンセルカルチャー」などという言葉は、存在してもいなかったというのに?
しかしながら、「言葉が存在していない」ということと、そうした「事実が存在しない」ということは、必ずしも同じではない。
この小説の中には、「キャンセルカルチャー」を象徴するような「ミセス・イーディス・プリチェット」という中年女性が登場するのだが、彼女は、その「小市民的に良識的な価値観や美意識」によって、その思いが現実となってしまう「脳内世界」を、悪気もなく「ディストピア」に変えてしまうのである。
つまり、ミセス・イーディス・プリチェットというアメリカ人女性の「小市民的に良識的な価値観や美意識」からすれば、不愉快な「ロシア」など、この地上から、丸ごと消えてしまえば「清々する」と、彼女はそう悪意もなく考えたのだ。
家庭向けの漫画は良くても、「成人男性向け」の下品な漫画なんかは消えてしまえばいいと考えた。
一一これなどは、日本でも、これまで何度となく繰り返されてきた、「女性主導の市民運動」でもあろう。
「ロシア」が消えてしまってもかまわなかったように、ミセス・イーディス・プリチェットにとっては「現在の北アジア」の文化などは、キリスト教圏である欧米先進国の「先進文化」からすれば、およそ「遅れて劣った文化」であり、顧慮するにも値しない「不愉快なもの」なのだから、そんなものも『ブンブン唸るブヨのように、彼女の生活を不快なもの』にするだけの存在として、「消えてしまってもかまわないもの」だったのである。
私は、この『宇宙の眼』を、最近たまたま再読して、このミセス・イーディス・プリチェットが、「キャンセルカルチャー」を体現するような人物であることに気づいた。
また、同様の意味で、私が最近批判している、「武蔵大学の教授」で「映画評論家」でもある「北村紗衣」と、「そっくり」な人物だと気づいたのだ。
だから、この『宇宙の眼』のレビューのタイトルを、
「ミズ北村紗衣のキャンセル宇宙」
としたのである。
しかし、フィリップ・K・ディックの小説が、「キャンセルカルチャー」の問題と関連してくるのは、たぶん、もっと本質的なところからなのであろう。
というのも、「キャンセルカルチャー」とは無関係に、また、私が北村紗衣の存在を知る以前に書いた、ディック作品のレビューで、私はすでに「キャンセルカルチャー」がらみの問題を扱って、この問題の普遍性について、知らずに問題提起していたからである。
このディックの短編集についてのレビューのタイトルを、私は『フィリップ・K・ディックの 〈堕胎〉批判』とした。
これは、この作品集に収められている短編のひとつ「まだ人間じゃない」(別邦題「人間未満」)が、「堕胎」の問題を扱っており、女性の「堕胎」の権利に疑義を呈する、どちらかと言えば「保守的な立場」からの、問題提起をしていたためだ。
要は、「12歳」という「線引き」だけではなく、こうした「法的な線引き」というのは、(「成人年齢)の設定と同様に)必ず「恣意的なもの」でしかない、という点に「本質的な問題がある」のである。
ともあれ、私たちの多くは、少なくとも、私たち「左翼リベラル」の多くは、ドナルド・トランプが「女性の堕胎の権利」を侵害したと聞けば、「けしからん」と考えるだろう。
また、その背景にあるのが「キリスト教倫理」だと知れば、その「時代にそぐわない旧弊な倫理観」に眉を顰めることだろう。
だが、こうした「キリスト教倫理」を、「もはや古くさいものであり、明らかに間違っている」と、そう断ずることは、はたして可能なのだろうか?
なぜ、歴史上、最も「リベラルな法王」と呼んでも良い、現在のローマ教皇であるフランシスコの時代になっても、カトリック教会は「堕胎」に反対するのであろうか?
それは「出生(母体から生まれ出た)」の段階で「独立した生命」だと認めるという「現在の法的な線引き」が、はっきりと便宜的に恣意的なものでしかないからだ。
「胎児」が「生命ではない」などと、いったい誰に断ずることができよう。
しかし、「胎児」を「生命」であり「人間」だと認めてしまえば、では「受精卵」も「生命なのか?」というところまで、おのずと遡行して考えなければならなくなるだろう。カトリックの考え方とは、まさにそれである。
男性がマスターベーションをして「精子を捨てる」のは「殺人」にはならないように、「受精していない卵子」を女性が捨てるのは、その女性自身の「身体(所有)権」の内だと(近代合理主義的に)考えることができる。
髪の毛を切るのも、爪を切るのも、あるいは耳に穴を開けて毀損するのも、その人の「権利」のうちであり、その人の「自由」だということになっている。
しかし、「受精卵」はどうであろうか。
それはすでに「母体の一部」であると同時に、未熟ではあれ「独立した生命体」だと言えるのではないのか?
だとしたら、その「他人の生命」を奪う権利は、母親にもないのではないだろうか?
当人に、まだ意志を示す能力がないからといって、他人である母親の一存で、彼・彼女を「殺す」ことが許されて良いのだろうか?
一一この難問に対する私の「解答」は、「善いも悪いもない」というものだ。
どういうことかと言えば、「善悪」という「価値観」は、人間が生み出した「規範」であり「約束事」でしかなく、「自然」に存在しているものではない。つまり「アプリオリ」に「自明の前提」として存在するものではない「フィクション」に過ぎないから、本当は「善いも悪いもない」のである。
長らく、その「善悪規範」の根拠とされた「神」さえもが「フィクション」でしかなく、存在しなかったのである。
「天然自然」としての世界を見るならば、そこには、人間の考えるような「善悪規範」など存在しない、というのは明白である。それを典型的に示す言葉が「弱肉強食」だ。
「人間以外の動物」の世界では、多かれ少なかれ「強い者が、弱い者を餌食にして生き残る」というのは、決して「悪」だとはされない。
ライオンがシマウマを襲って食べても「弱い者を食い物にする、卑怯な悪党」だということにはならない。
なぜなら、「人間以外の生物」の世界には、「人間の価値観や規範」は適用できないからである。それを「人間以外の動物」にまで強いるならば、むしろその方が「反自然的な悪徳」であり「独善」ということにもなってしまうだろう。
つまり「人間社会における価値観や規範」というものは、「人間中心主義」に基づく「人間のための規範」であって、「すべての生物のための、すべての生物に公平な価値観や規範」などではないのである。
「すべての生物に公平な規範」などというものを「人間」に課したならば、人間は「肉食」だけではなく「植物食」さえ出来なくなってしまうだろう。
「植物」にも生命があるのだから、人間の「植物には、意思も痛覚もないだろうから、食べてもかまわないだろう」などという、勝手な判断は通用しない。
「意思」や「痛覚」があろうとなかろうと、「植物」も「生命」なのだから、「生命は平等に尊重されなければならない」というのであれば、私たちは、勝手な「人間基準の線引き」によって「植物なら食べてもかまわない」などと、決める権利など無いのである。
そして、「堕胎」の問題もまた、これと同じ「恣意的な線引き」でしかないのだ。
「胎児」は、「植物」と同じで「殺されても、文句は言わない」。
しかし、母親の方は「文句を言うことができる」から、おのずと母親である女性の意見が、人間社会の中では「力=影響力」を持ち、その結果、「発言力」を持たない「胎児」の権利は、蔑ろにされ、後回しにされるのだ。
で、この「胎児の権利よりも、母体の権利を優先する」という考え方こそが、まさに本稿で扱う、前嶋和弘著『キャンセルカルチャー アメリカ、貶めあう社会』(以下『アメリカ、貶めあう社会』と略記)で語られるところの「キャンセルカルチャー」のひとつなのだ。
「堕胎の禁止という古いカルチャー」をキャンセルしようとする「新しいカルチャー」だから、それは「キャンセルカルチャー」と呼ばれることになった。
つまり、本書で語られている「キャンセルカルチャー」とは、「Wikipedia日本語版」が説明するところの「キャンセルカルチャー」とは、その意味するところが、ほとんど「真逆」に近く異なっている。
「Wikipedia日本語版」における「キャンセルカルチャー」とは、「現在の価値観や規範に反した人から、過剰に、その権利を奪おうとする文化(カルチャー)」という「否定的なニュアンス」の強いものになっている。
ところが本書『アメリカ、貶めあう社会』での「キャンセルカルチャー」とは、「現在の価値観から見て、誤っていると判断された文化(カルチャー)をキャンセルすること」だと、「肯定的」に捉えられているのである。
例えば、「奴隷解放」をめぐって戦われたアメリカの「南北戦争」において、廃軍の将となった南軍のリー将軍は、それでも南部においては長らく、「自分たちの権利を守るために、敢然と北部連合の横暴に立ち向かって敗れた英雄」として尊敬されてきた。
だからこそ、その功績を讃える銅像が、いまでもアメリカ南部には、幾つも建っているのである。
ところが、かつて奴隷であった「黒人」たちにすれば、リー将軍は「奴隷解放の邪魔立てをした、差別主義者の極悪人」ということになるので、リー将軍の銅像は、見ていて不愉快な存在でしかない。
だから「あんな、差別主義者の銅像など撤去してしまえ」ということにもなり、アメリカの各地では、「かつての偉人」への、それまでにはなかった立場からの批判や、関連記念碑などへの撤去要請が増えることになったのである。
しかし、当然のことながら、リー将軍を「南部の英雄」だと信じてきた人々、そういう「南部文化(カルチャー)」の中で育ってきた人たちにとっては、「リー将軍の銅像の撤去」などということは、キリスト教徒にとっての「神聖冒瀆」にも当たる、絶対に許しがたい行為だと映った。
例えば、「十字軍」に家族を殺されたイスラム教徒にとっては、「イエスの磔刑像」や「十字架」などというのは、見るも不愉快な「殺戮者の象徴」でしかない。
だから、そんなものを町中に建てておくのは「とうてい許せない」ということで、そうした「イエスの磔刑像」や「十字架」などを、イスラム教徒たちが、引き倒し打ち壊すなどということをすれば、キリスト教徒から見れば、それは「許しがたい神聖冒瀆」だということにもなるのと、これはまったく同じことなのである。
たしかに「黒人」にとっては「リー将軍の銅像」は、見るも不愉快な、とうてい容認し難いものだと映るだろう。だが、だからと言って、それを暴力的に、ひき倒したりうち壊したりすれば、リー将軍を尊敬していた南部の人たちには、それは「許しがい暴挙」ということにしかならないのも当然である。
だから、その意図するところを説明して、納得してもらってからでないかぎり、そんな強引なやり方が黙認されるはずもないのである。
つまり、ここには、問答無用の「二つの文化の衝突」があるのだ。
要は、「古い文化(カルチャー)」と「新しい文化(カルチャー)」との双方に、和解不能と思い込まれた「党派的な権益争い」、つまり「潰し合いの絶対抗争」が生じてしまっているである。
それが「リー将軍の銅像」問題の場合には、「古い南部の価値観」と「新しい文化的多様性(対等性)」のぶつかり合いだと、ごく単純化されて、「見えて」しまう。
だから私たちは、「黒人の権利」を尊重する「新しい価値観」の方を支持して、「古い南部の価値観」を間違っていると、比較的あっさりと、そう判断しがちなのだ。
その程度の理解でしかないからこそ、「古い南部の価値観など顧慮する必要はない。リー将軍の銅像など、遠慮なく潰してしまえば良いのだ。そうした具体的な社会環境の改良を実行してこそ、古い偏見を社会の中から拭い去ることもできるのだ」といった、多くの人の「真情を踏み躙る」ような過激な意見さえ、もっともらしく聞こえるのである。
だが、こうした「間違った価値観は、どんどん排除し抹消すべし」という「考え方(価値観)」は、はたして正しいのであろうか?
この「二つのカルチャーの決定的な衝突」ということを「堕胎」問題に当てはめるなら、「胎児の権利」を主張するのは、「キリスト教倫理」に由来する「古いカルチャー」であり、「母体の権利を優先して、堕胎を認める」のは「新しい権利」という、単純化された「二項対立」ということになる。
実際、昔は「キリスト教倫理」が西欧世界を覆っていたからこそ、「堕胎」は「罪」であり「悪」であった。「汝、殺すなかれ」は、当然のことながら、生まれる前の子供(胎児)にも適用された。子供を「堕ろす」権利など、母親にもなかった。
なぜなら、「生命」とは、「神によって授けられた愛の恩寵」なのだから、それを人間の勝手で殺すことなど、許される道理などなかったのである。
ところが、その「神」が「近代主義」や「現代科学」によって実質的に殺され、キリスト教が力を失なうと、「近代主義」や「現代科学」によって、「産む性」としての「女性の権利」が尊重されるようになった。
「まだ意思を持たない胎児」よりも「現に、いま生きている女性の権利」を「優先すべきである」と、そのような「合理的判断」が下された結果、「堕胎権」は「新しい価値観」に保証されて、「新しいカルチャー」になったのである。
その「堕胎権という新しいカルチャー」が、今や「古い価値観」の反撃によって、逆に「キャンセル」させられかけている。これは許すまじき「反動」だ一一というのが、本書『アメリカ、貶めあう社会』で描かれている、アメリカにおける「新旧対立の構図」である。
そして、本書著者の立場は、「新しいカルチャーによるキャンセルは認めるが、多様性を否定する古いカルチャーによるキャンセルは認められない」というものなのだ。
これは、一見したところ、わかりやすく今風に「良識的」な立場として、多くの読者に受け入れやすい立場なのだが、しかしこれは、そんなに簡単な問題なのだろうか?
「新しいカルチャー」は「多様性を認める」と簡単に言うけれど、「古いカルチャー」を拒絶するばかりか、「説得する」ことさえしようとはしない「新しいカルチャー」とは、はたして「多様性を認めている」と言えるのだろうか?
「多様性は認めるが、敵の権利や生存は認めない」というカルチャーが、はたして「多様性の尊重」の名に値するものなのだろうか?
また、フィリップ・K・ディックによる「胎児を、人間以前だとして殺すことに、正義はあるのか?」という問いは、単に「保守的な価値観」として、「キャンセル」して良いものなのであろうか?
そもそも、「堕胎に反対するキリスト教的倫理」が「古いカルチャー」であり、「母胎の権利を合理的に優先する価値観」が「新しい倫理」だと、そう断ずることはできるのか?
私たちは、近視眼的に、そんなふうに考えがちなのだけれども、「キリスト教発生以前」の「古い価値観」では「堕胎の自由など当たり前」だったからこそ、「キリスト教」は「新しい価値観」として「汝、殺すなかれ」を「胎児」にまで適用したのではなかったのか。
そもそも、しっかり避妊さえしておれば「堕胎」をする必要などなかったはずだし、今のように、生まれてくる子供に「障害」が見つかったから堕胎をするなどというのは、「障害者の生存権」を蔑ろにすることなのではないのか?
だとすれば、母体には責任のない「強姦被害による妊娠」などの「例外的な事例」だけに「堕胎」を認めるといったやり方の方が、よほど「合理的」でもあれば「倫理的」なのではないのだろうか?
それなのに、「強姦被害による妊娠」などの極端でもあれば少数例でしかないものと、ごく一般的な「男女の合意による性交の結果としての妊娠」を同列に扱い、とにかく「堕胎」は、すべて「女性の権利」として認められるべきだするような理屈は、かなり乱暴なものでもあれば、いささか身勝手なものなのではないだろうか?
「物言わぬ胎児」は、「もの言えぬ少数者や弱者」と同様に、その権利を蔑ろにしても良い存在だと、そう言うのだろうか?
○ ○ ○
私が、「フェミニスト」を自称して「女性の権利」の一点張りの「北村紗衣」を批判するのは、北村の「フェミニズム」とやらが、「弱者の権利(一般)を守るため」のものではなく、もっぱら自分自身の所属する「女性」という「党派の権利」を主張する「党派利益のための党利党略」でしかないからだ。
だから、私は、北村紗衣の「フェミニズム」論には、「ジェンダーとしての男性にも女性にも属さない人々」に対する配慮が無いと批判し、だから北村紗衣の「男女二元論的なフェミニズム」は、「偽フェミニズム」だと批判するのである。
まともな「フェミニズム」であれば、「差別されてきた女性」としての経験から、そのほかの「差別される全ての人の痛み」を、決して無視できないはずだ。
例えば、ミッシェル・フーコーが採り上げた「両性具有」者の問題は、決して無視できないはずなのだ。
「両性具有者」は、「人間とは、必ず、男あるいは女である」という「男女二元論」という「価値観」の外へと排除阻害され、「男でも女でもない、不都合な存在」として、無理やりにでもどちらかに分類されて、その「規範」を押し付けられて、その人権を蔑ろにされてきた人たちである。
しかし、そんな絶対権力的な「男女二元論」とは、実のところ「便宜的で恣意的な区分(線引き)」でしかないというのは、現に「両性具有」が、人間を含むどんな生物にも存在している事実からしても、明らかな「現実」なのである。
言い換えれば、「男女二元論」こそが、人間的に便宜的な「虚構」に過ぎないのだ。
ところが、この「男女二元論は、制度的な虚構でしかない」という事実が、世間に広く認知されてしまうと、誰が困るのかと言えば、もっぱら「女性の権利」を主張する、「党派的フェミニスト」である、北村紗衣のような「女性」たちである。
しかしそれは、かつての「男性優等優先主義者」たちと同種のものであり、それが裏返された「現代バージョン」でしかない。
そもそも「男女区分」が「虚構」であり、その意味で「厳密な意味での、男女区分は存在しない」となれば、「女性の権利」は主張しづらくなる。
「男女区別」が無くなれば、そこでの問題は「他の属性」または「個々」の権利の平等と尊重、という話になってしまい、「女性という党派」の力を振るうことができなくなってしまうのである。
だから、北村紗衣は、知ったかぶりで、
「クィア批評というのがあって、クィアとは男性でも女性でもない変態として扱われてきた人たちのことであり、その特殊な視点に立っての批評のことを言います」
などという「通り一遍の説明」での誤魔化しによる「理解者ヅラ」によって、自身の拠って立つ「男女二元論フェミニズム」という「欺瞞」への、嫌疑的な注目を逸そうとする。
しかし、こうした薄っぺらい誤魔化しによって、物事を根本的に考えることのできない「読者」たちの目から、まんまと「男女二元論の虚構性」という「不都合な真実」を、隠蔽しているのである。
つまり、北村紗衣は、「クィア批評」や「クィア」がどうとか言ってみせても、それは、徹頭徹尾、自分の所属する「女性」という「制度的な幻想」の「党派利益」を守るためにでしかないのだ。
北村紗衣は、決して「男女二元論」における「女性」という「既得権益」を疑いに附することはなく、そんな「男女規範」に収まらないがゆえに「クィア(変態)」として阻害されている人たちの権利を守ろうなどとは、これっぽっちも考えてはいないのだ。
一一北村紗衣とは、そんな「我利我利亡者の偽善者」なのである。
○ ○ ○
本書『キャンセルカルチャー アメリカ、貶めあう社会』の刊行は、2年前の「2022年」である。
そして、本書で描かれる「キャンセルカルチャー」とは、もっぱら、その当時のアメリカにおけるものであり、例えば「リー将軍の銅像の撤去運動」などの事例に象徴されるような「古い文化(カルチャー)批判としての、キャンセル行動」を指していた。
だから、本書の著者である前嶋和弘は、それまでの「白人社会」や「男性社会」に対して、新たに「黒人」や「女性」の権利を拡大してゆく、「多様性」を求める運動としての「キャンセルカルチャー」を「肯定的」に描き、それに反抗する動きを「多様性から取り残された保守派による反動」だと、批判的に評価した。
たしかに、そうした一面はあるだろう。つまり「多様性から取り残された保守派による反動」として、ドナルド・トランプなどの言動を問題視するというのは、決して、わからない話ではない。
一一けれども、それは「ことの一面」でしかないのではないだろうか?
例えば、フィリップ・K・ディックの言う、あるいはカトリック教会の言う「胎児の生存権」というのは、単に「古い」だけの、「間違った価値観」なのだろうか? そう考えて無視しても良いにものなのだろうか?
だが、だとすれば、「もの言えぬ人々」「意思表示のできない人々」の権利は、無視され、後回しにされても良い、ということになるのではないだろうか?
そこまでは言わないとしても、結果として、現にそうなってしまうのではないだろうか?
だから、私が、北村紗衣に最初に言ったことは「どちらが正しいのか、議論しましょうよ」という「提案」だった。
結論を、一方的かつ暴力的に押しつけるのではなく、意見や価値観が対立した際の「民主主義的な手続き」として、まず「話し合いが先ではないのか」と、そう当たり前に訴えたのである。
というのも、北村紗衣は、私が、須藤にわか氏の「note」記事のコメント欄に書き込んだコメントを、一言も批判することなく、いきなり問答無用の「管理者通報」で、抹殺しようとしたからである。
しかし、私のそこでのコメントとは、ネット記事(インタビュー)における北村紗衣の映画批評が、あまりに低レベルものだったために、それについて論じた、次のような「批評的なコメント」だった。
しかも、下に引用したのは、そのコメントの全体ではなく、その七分の一でしかない、最後の部分だけである。
と、このような私の「批判」的なコメントに対し、北村紗衣は、
などという「難癖」をつけたのだ。
つまり、私のコメントの「七分の一の最後の部分」の、その「末尾の一節」である、
だけを「切り取り」、さらにこれを恣意的に「改変」して、
として、「note」管理者に通報したのだ。
私の「原文」を読めば、私が言っているのは「北村紗衣の本を買って読み、こと細かに批判してやろうかな」という意味だというのは明白で、それをそのまま「通報」したところで、さすがに「note」の管理者が「削除」に応じるはずがない。
そこで北村紗衣は、「故意」に、私が「北村の本を物理的に切り刻む、器物損壊を予告して脅迫」した、かのように「書き換えて」通報したのである。
要は、自覚的に「事実無根の誹謗中傷による誣告」をしたのだ。
しかも、上の北村紗衣のコメントを見て貰えば明らかなとおり、このコメントは記事主である須藤にわか氏に向けられたものであって、私に対する批判は、この時も、この先も、一度も一言もないままなのだ。
私が、上の書き込みの後に、
と、正々堂々の「話し合い(議論)」を申し入れたにも関わらず、北村紗衣は、自らの「誹謗中傷」のやましさからか、あるいは、私の自信に満ちた態度に恐れをなしたからか、あるいは、その両方からか、自分の方から、いきなり人のことを「管理者通報」しておきながら、私の「議論対話」の要請には、今に至っても、完全に「無視黙殺」を貫いて、「議論のテーブル」から、逃げ回っているのである。
つまり、前嶋和弘が本書『キャンセルカルチャー アメリカ、貶めあう社会』で描いたように、アメリカにおける当初の「キャンセルカルチャー」とは、それまで虐げられてきた人たちによる「権利回復運動」としての「古いカルチャーをキャンセルする運動」だったのだが、これが徐々に力を持ち始め、「ハリウッドにおける、MeToo運動」が、それまで「権力者」として君臨していた映画プロデューサーであるハーヴェイ・ワインスタインを「社会的に抹殺する」ことに成功した、その「成功体験」の流れ込んだ結果、「弱者」とされてきた人たちの一部は、力を持った「弱者の権利」としての「強い力」を振りかざすことで、「自党派」に「不都合な存在」を抹殺できるという、「権力に酔う」ことになってしまったのである。
例えば、他人を批判するのに、相手が「男性」であれば、その男性の主張は「女性蔑視(ミソジニー)に由来する、男性的な差別的価値観によるものでしかない」と決めつけて攻撃することで、「フェミニズムの政治的な力」に怯える、世の「地位ある男性」たちを黙らせることができるようになった。
男どもにしてみれば「今の時代に、女性の弱い立場に配慮できないような男は、社会的に優位な立場に据えておくべきではない」という「排斥運動の標的」にもされかねないと恐れるから、過剰に「女性に媚びる」ことにもなった。
例えば、ここに二人の「教授」候補者がいたとする。
二人の力量は、同じ試験を受けさせれば、片方は90点平均であり、もう一方は50点平均だから、明らかに、前者は後者より「有能」であり、後者は前者に対して「実力で劣っている」としよう。
だが、前者の有能な方が「男性」であり、後者が「女性」であった場合、一つしかない「教授」の席に、どちらを就かせるか、という問題になると、途端に話は難しくなる。
これまでなら、当然のこととして「性別に関係なく」優秀な方を優先して「教授」の席に就けたであろう。少なくとも、それならば、どこからも文句は出なかったはずだ。
ところが、「文化的に不利な立場にある方を優遇して、制度的に、差別の是正を行うべきである」とする「アファーマティブ・アクション」といったことが提唱されて、多少能力が劣っていても、これまで、そうした社会的な地位から不当に阻害されてきた「黒人」の方を(白人よりも)優先すべきである、というような考え方が出てくると、当然のことながら「女性の国会議員を増やそう」と「女性大臣を増やそう」とか「女性の教授を増やそう」とかいう話にもなって、その際には「人数的な数値目標」ばかりが取り沙汰されて、当人の「能力」の問題は、曖昧に誤魔化されてしまう。
つまり、「能力的には男性である彼の方が優れているが、アファーマティブ・アクションの観点から、ここでは、能力の劣っている彼女の方を、教授に採用しよう」などと「あからさまかつ正直に、事実が語られることなどない」ということである。
それが事実であるとしても、そう「あからさまに語って」しまっては、その女性に「面子」に関わるから、なんとなく曖昧に「女性の方を優先」して、「わが大学は、そのあたりの問題に関しても、意識が高いですよ」というアピール(宣伝)をするのである。
ここで勘違いしてもらっては困るのは、私は「アファーマティブ・アクション」に、反対しているのではない、ということだ。
ただ、それが「正しいこと」なのであれば、正々堂々と「公明正大」にやるべきであり、つまり、事実としてそうなのであれば、「能力的には男性である彼の方が優れているが、アファーマティブ・アクションの観点から、ここでは、能力の劣っている彼女の方を、教授に採用しました」と、そういう説明をすべきなのだし、当該「女性候補」の方も、そうした「事実公表」が屈辱的だというのであれば、「私は、アファーマティブ・アクションの対象にしていただかなくて結構です。実力で勝負します」と、そう公言して断ればいいのだ。
また、「アファーマティブ・アクションの優遇」を受けるのであれば「私は、アファーマティブ・アクションの対象として、男性候補者に優先して、このたび教授に就かせていただきました。ですから今後は、彼のためにも、教授の名に恥じない成果をあげてみせる所存です」と、そう堂々と語れば良いだけなのである。
だが、現実には、「大学」側も「女性教授」本人も、そんな「公明正大な正直さ」を示しているだろうか?
私は、そんな「正直な説明」など、寡聞にして一度も耳にしたことがないのである。
ましてそれが、北村紗衣のような「不都合な話になると、途端にダンマリを決めこむような女性教授」ならば、仮に、自分がそうであったとしても、そんなことを正直に語ることなど、金輪際あり得ないと、そう思うのだが、読者諸兄は、どう思われるだろうか?
これは、北村紗衣を、「教授」にし、しかも「テニュア(終身身分保障)」まで与えた「武蔵大学」も、同じことである。
ある人が、「武蔵大学」に、「北村紗衣教授のネット上での言動」について問い合わせの電話をしたところ、電話での「大学側の回答」は、「私行上の問題については、大学は一切関知していない」という、「そんなことあり得るのか」という回答であったとする、ネット上の投稿(「X」だったか)があったけれども、つまり、「武蔵大学」は、北村紗衣の「私行」はいっさい問題とせず、純粋に「学者としての力量」を評価した結果、北村紗衣を「教授」にし、しかも「テニュア(終身身分保障)」にしたというのである。一一これは、じつに「笑うべき説明」ではないだろうか?
なにしろ、その、北村紗衣の「学者的な力量」を反映しているはずの当人の著作が、下のレビューで示したようなものでしかないのだから、だとすれば、それを「高く評価した」という「武蔵大学のレベル」もまた、推して知るべし、ということにしかならないからである。
(※ 北村紗衣著『批評の教室』のレビューは、連載中のため、下に示したのは、現時点までのものである)
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そんなわけで、北村紗衣は、「実力も無いのに」、その対面を保つために、力量のある相手との「議論論戦」を避け、その一方で、自分の気に入らない発言に対しては、「恫喝」したり、「管理者通報」したり、あるいは「ファンネル・オフェンス」を「黙認」というかたちで使役したりして、実力不相応な「過分な立場」を守ろうとしているのである。
もちろん、いつの時代にも、「大衆」も「マスコミ」も「出版社」も、「権力者」や「有名人」や「人気者」に媚びるものであり、まして、その本性や実力を正しく見抜いて評価することなど出来はしない。そんな能力など、もとより持ってはいないのだ。
だが、いつの時代にも、少数ではあれ、そんな「欺瞞」を看破して、「あいつは偽物だ」「王様は裸だ」と、子供のように正直に告発する者は、現れてくる。
そうした者は、同時代的には、損をする場合が多いのだろうが、しかし、歴史がその正しさを証明しようとしまいと、そうした人たちは、ただ「自身の良心と美意識」に従って、行動するものなのだ。
ヒトラーに抗ったがために、処刑されたボンヘッファー牧師も、「白バラ運動」の学生たちも、決して、自分たちの選択を悔いてはいなかっただろう。
だから私は、いささか小規模なものとはいえ、彼や彼女たちと同じ選択をしたいし、彼らに倣いたいと思うのだ。
時の権力者であるヒトラーに媚びたがために、戦後は、その戦中の行いを隠さなければならなかった多くの人たちのような、自身に恥じる惨めな生き方、死に方などしたくないと思うから、私はささやかながら、北村紗衣という「欺瞞に満ちた偶像」を批判し、「Wikipedia日本語版」的な意味にまで「劣化」してしまった「キャンセルカルチャー」を批判するのである。
正しいのはどちらなのか?
一一そこでは、男女性別など、大きな問題にはならないのだ。
(2024年10月13日)
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