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岸本佐知子 『ねにもつタイプ』 : 彼と彼女の事情

書評:岸本佐知子『ねにもつタイプ』(ちくま文庫)

抜群に面白いエッセイ集だった。
ずっと前から読みたい読みたいと思いながら、中心的に読んでいる「ミステリ」や、それを分析的に考え論じるための必要から読み始めた「文芸評論」や「哲学」書といったものを優先したため、テーマらしきテーマのない「エッセイ集」というのは、どうしても後回しになってしまい、その後は例によって、積読の山に埋もれさせ、発掘不能になってしまうというパターンをたどっていた。
岸本佐知子が翻訳した小説も同じで、「面白そうだ」「読みたい」と思いながら、ずっと読む機会を逸し続けてきたのだ。

だが、最近口癖のように言うとおりで、退職して時間ができたので、これまで我慢して手を出さなかったあれこれに手を広げだした。
と言っても、それによって「読書」の守備範囲が「SF」などにも広がり、また「映画」にまで手を出したので、当初予定していた「プラモ作り」などは、結局断念しなければならなくなった。まして、暇になったら健康のためにやろうと考えていたウオーキングなど、元が積極的な理由ではなかったので、ぜんぜん出来ないでいる。

話を戻すと、岸本佐知子のエッセイ集を今回読めたのは、退職して暇が増えて、そのぶん広げた読書の守備範囲内に、やっと岸本も入ってきたからだ。
そのうち、岸本のよる翻訳小説も読むつもりだが、まずはエッセイ集を読むことにした。ひとつひとつが短いので、いかにも読みやすそうだったからである。

で、なぜ今回、エッセイ集の中でも2冊目の本書を選んだのかというと、たまたま安く手に入ったからであり、他意はない。
本当なら、第1エッセイ集である『気になる部分』から読むところなのだが、なぜか本書よりも古書価が高く、試しに読むにはちょっと、と感じたからだ。

しかし本書を読んでみて、そのあまりの面白さに、数百円をケチった自分が、著者に、たいへん申し訳ないことをしたと思った。新刊で買っても少しも惜しくはない内容だったからなのだが、長年染みついた「初版本コレクター」の習性が、「増刷本」を定価で買うことをどうしても躊躇させてしまう。学術書ならまだしも、コレクション対象となりうる文芸書の場合「定価で買うなら、初版初刷本」「読むためだけの古本なら、500円くらいまで」となってしまうのだ。ほんとうに申し訳ない。

しかしながら、本書を読む前に、すでに第3エッセイ集である『なんらかの事情』も買ってあるし、それを読んだら『気になる部分』に戻って、ひとまずそこまでは読むつもり。そこまで読んで、現在刊行されている5冊のエッセイ集をぜんぶ読んでしまうかどうかを決める予定だが、たぶんそうなるだろうと思っている。

 ○ ○ ○

そんなわけで、翻訳家・岸本佐知子の第2エッセイ集『ねにもつタイプ』は、2007年の「講談社エッセイ賞」の受賞作だ。
岸本のエッセイが抜群にいいというのは、第1エッセイ集『気になる部分』の刊行後、すぐに広く評判になったことからも、また2冊目にしてのこの受賞さえ、むしろ想定の範囲内という感じだったことからも明らかだろう。優秀な翻訳家としては、すでに知られた人ではあったが、本書によって、「翻訳家」という肩書きに決して劣らぬ、「エッセイスト」という肩書きを持つ「作家」となったのである。

で、岸本のエッセイが、どのようなものなのかというと、次の、本書の宣伝文句を挙げておけば、ひとまずわかりやすいのではないかと思う。

第23回 講談社エッセイ賞受賞!
観察と妄想と思索が渾然一体となったキシモトワールドへようこそ


コアラの鼻の材質。郵便局での決闘。ちょんまげの起源。新たなるオリンピック競技の提案。「ホッホグルグル」の謎。パン屋さんとの文通。矢吹ジョーの口から出るものの正体。「猫マッサージ屋」開業の野望。バンドエイドとの正しい闘い方―。奇想、妄想たくましく、リズミカルな名文で綴るエッセイ集。読んでも一ミクロンの役にも立たず、教養もいっさい増えないこと請け合いです。』

(Amazon・本書紹介ページより)

要は、日常の中にある「どうでもいい些細なこと」から「妄想」を膨らませて、それを生き生きと「語ってみせる」のが、岸本のエッセイの醍醐味なのだ。

ところで、私はこれまで、エッセイというものをほとんど読まなかった。なぜなら「エッセイ」というと、「身辺雑記的な随筆」だという印象が強くあったからである。
「テーマらしいテーマ」がなく、「日常的な光景や思い」を短く切り取ってみせることで、読者に「ああ、そういうことあるなあ」といった「感興」を生じせしめる「短文」、という印象が強かったのだ。

だが、私の場合は、「テーマらしいテーマ」は、あったほうがいいし、「日常」というものにも、あまり興味がなかった。ある「大事な問題」について、真正面から取り組むようなものを求めていたのである。だから「エッセイ」には、あまり興味が持てなかったのだ。

だが、岸本佐知子のエッセイは、私のそうした「エッセイ」のイメージとは、ちょっと違っていた。
たしかに「テーマらしいテーマ」はないし、それに「真正面から取り組む」的なスタンスでもない。むしろ、「日常」の中でも、「どうでもいいこと」に属することばかりを好んで取り上げ、しかも、それを「現実」に即して描写するのではなく、それをきっかけにして膨らませた「妄想」を、生き生きと描くのである。だから、岸本のエッセイは、ある意味で非常に「小説」的なのだ。しかも「幻想小説」的。
そんなことから私は「この人のエッセイは、ちょっと違うぞ」と思ったし、なにより面白かった。

そんな岸本のエッセイからまず感じたのは、岸本佐知子という人は、私と「真逆」な部分のある人だという点であった。例えば、

『 夏が好きだ。夏でなければ嫌だ。
 汗がダラダラ出て夕方になると自分から小学生の匂いがするのも、ときどき立ちくらみで目の前が真っ暗になるのも、家の中を裸足でペタシペタシと歩き回るのも、蚊に刺されてムヒを探して見つからなくて「応急処置」などと言いながら爪で十字の印をつけるのも、みんな楽しくうれしい。』

(P160「夏の逆襲」)

私は、夏が嫌いである。夏が嫌いだから、冬が好きなくらいなのだ。で、その理由は、私が汗っかきだからというのが大きいのだが、なにより、汗であれ水であれ雨であれ、とにかく「濡れる」のが好きではなく、「湿気」が好きではない。
なぜ好きではないのかというと、たぶん、岸本が言うところの『裸足でペタシペタシと歩き回る』といった、「くっつく」「貼りつく」感じが嫌いなのだ。

よく私は「群れるのが嫌いだ」とか「馴れ合いが嫌いだ」とか「友達は少なくていい。一人でもぜんぜん平気」だなどと書くが、その根底にあるのは「くっつく=接触する=交じり合う=一体化する」という感覚が、基本的に嫌いなのであろう。
その意味で、例えばセックスというのも、決して好きなわけではない。生々しい表現で恐縮だが、性欲はあるから射精はしたくなるけれども、セックスはあまり気が進まないからマスターベーションで済ませる、と、そんな感じですらある。

これはたぶん、「自分」というのの「境界」を他者から「侵犯」されるのを嫌う、「潔癖症」的な性格を、私が人より強く持っているからであろう。だから、自他の媒介物となる「湿気=溶液」的なものを、直感的に避けるのではないかと思う。
かつては「書籍蒐集に、湿気は天敵」だからだなどと考えたこともあったが、そっちが本質ではなかったようだ。
私は本質的に「乾いた」「サラサラした」ものが好きなのだ。ぺったりとくっついてくるようなものが嫌いで、薄紙一枚でも「距離」はおいておきたい。
またそのわりに、「敵」に対しては「粘着」する(しつこい)というのは、私自身、常日頃から「それが嫌だ」と感じているからこそ、それを「攻撃として有効だ」と実感しているからではないかと思う。平気を装う相手の本心を想像して「粘着されて嫌だろう? 苦しいだろう? イヒヒヒヒ」と、そう確信してやっているのである。

一一また「自分語り」が長くなってしまったが、要は、私と岸本には「真逆」な部分があるという話。例えば、

『 (※ 子供の頃)妹と二人で部屋にいる時に、ふいに「妹という存在」に愕然となったこともあった。もちろん、昨日も、おとといも、もう何年も一緒に暮らしてきた。でも、それが「自分の妹」であるという事実に、今の今まで気がつかなかったような気がした。私は初めて見るもののように妹を見た。この子供が「妹」であり、自分が「姉」であることの不思議。もしかしたらそれは、血のつながりを実感した最初だったのかもしれない。
「変な感覚」は長続きはしない。もってせいぜい二、三分だ。でも、この「変な感覚」が訪れると、偏光ガラスを傾けたように、世界が変に見える。自分が自分でなくなるような、落ちつかない気持ちになる。
 大人になってからはそういうことも少なくなったが、それでも二年に一度くらいの周期で、この感覚に襲われる。』

(P26「じんかん」)

『 そうやって私を取り巻くすべてのものが、ゆっくりと意味のない記号に還っていく。自分と世界をつなぐ糸がプツプツプツと切れていき、ついに最後の一本も切れて、私は命索の切れた宇宙飛行士のように、暗い広い宇宙空間を独りぼっちで遠ざかっていく。
 その感じを、私はそんなに嫌いではない。』

(P28、同上)

岸本には、「現実」から切り離されて、どことも知れぬ世界、言うなれば「意味を持たない世界」に浮遊していくことを「好む」という性格がある。ところが、私はそれが嫌いだ。

私には弟がいて、岸本が上で語っているような体験は私にもあったし、多かれ少なかれ誰にもあることだろう。まただからこそ、私を含めた多くの読者は「ああ、そういうこと、あったあった」と面白く感じるのだが、しかし、岸本とは違って、私はそういう「浮遊感」があまり好きではなかった。そういうものを感じた時に「何を変なこと考えているんだ」と、むしろ自分を叱りつけてでも、自分を「現実」へと引き戻した。
これは、先に書いた、私の「テーマ主義」「問題対決主義」「現実主義」などと繋がってくることで、私は「無意味なもの」に捉われることが、あまり好きではないのだ。いや、たぶん「嫌い」であり、いっそ「怖い」のかも知れない。
岸本はここで、

『自分と世界をつなぐ糸がプツプツプツと切れていき、ついに最後の一本も切れて、私は命索の切れた宇宙飛行士のように、暗い広い宇宙空間を独りぼっちで遠ざかっていく。
 その感じを、私はそんなに嫌いではない。』

と書いているけれど、私には、それが不気味かつ恐ろしいことのように感じられる。
子供の頃、布団に入ってから、ふと「死」ということを考えた時に、何やら「真っ暗な世界に一人で落ちていく」といったイメージが浮かんで、恐怖にとらわれたものである。
つまり、「テーマ主義」「問題対決主義」「現実主義」というのは、たぶん「確固たる足場が欲しい(大地に立ちたい)」という意識の生じしむることなのではないかと思う。

そして、私が「論争」で強いのも、常に「足場を固める」ことや「弱点に自覚的である」ことに余念がないからだろう。だからこそ、知らないことは知らないと明言して、決して知ったかぶりはしない。論争になった際に、そこが弱点になるとわかっているからだ。そして、そんな私からすれば、世間の人々はあまりにも「自己過信的」に楽観的であり、「隙だらけ」に見える。また「こいつ、このあたりは知ったかぶりしてるだけだな」と見えるから、そこを突いてやるのだ。
そんなわけだから、始めた論戦論争には負ける気がしない。また、「隙だらけ」で平気で生きている人たちというのは、むしろ無考えで苛立たしい存在ですらあるから、「批判する」ことにもなるのであろう。

『「気がつかない星人」はまた、「気がきかない星人」でもある。他人が発する無言の信号をキャッチしないので、〝さりげない心遣い〟とか〝気働き〟〝あうんの呼吸〟〝相手を立てる〟なという芸当は、夢のまた夢である。だから、知らないうちに目上の人の不興を買っていることがしょっちゅうだし、当然、異性にはもてない。』

(P20「星人」)

これなどもそうだ。
私は、岸本とは「真逆」に、他人が何を考えているのかについては敏感である。特に、悪意や敵意は、素早く察知する。
ただ、私がそうしたものから身を守るために〝さりげない心遣い〟とか〝気働き〟〝あうんの呼吸〟〝相手を立てる〟などいう「芸当」をあまり使わないのは、それができないのではなく、そんなことはあまりしたくないからで、意識的にしないだけなのだ。やろうと思えば、やれないこともない。だからこそ、警察で40年間も猫を被っていられたのである。

例えば昔、「mixi」「仮面ライダー」のコミュニティーで、「ライダー俳優の不祥事(不倫など)」の問題が話題になった際、私は「ライダーを演じる俳優は、子供の夢を潰さないためにも、職業倫理として、私生活での良識ある行動が求められて然るべきだ」と、そんな「正論」を主張したのだが、「そんなこと言ったって、俳優もただの人」というのが、大勢的な意見であった。
しかし、私は一歩も退くことなく、孤軍奮闘して片っ端から駁論した結果、最後は、そんな「議論」など続けたくない「仮面ライダーファン」たちは、退きさがるのではなく、私に「空気が読めないのか」と言ってきた。つまり、数押しをしようとしたのだが、私は「空気が読めないのではない。読まないのだ」と応じたものであった。こっちは「孤高」好きなのである。

ともあれ私は、漠然と「好き」だと言っている(連発している)ような蒙昧さが、好きではなかった。私自身は、「好き」ならば、なぜ「好き」なのかを考えたし、そうした意味で、何も考えていない、単なる「好き」の「現実逃避」は、好きではなかったのだ。
現実逃避なら現実逃避として、そう自覚した上で現実逃避したかった。だから、その自覚もなく、のんべんだらりと現実逃避している人たちが、バカにしか見えなかったのである。

『(※ 岸本が、自身で名付けたところの「目玉遊び」)をやるようになったのは、もうかれこれ小学校に入ったぐらいの頃だ。今ならば、目の表面についた涙の泡や小さいゴミが、網膜のスクリーンに写ってそんな風に見えるのだろうと理屈もつけられるが、当時は、不思議な視覚の現象がただひたすら面白くて、暇さえあればやっていた。
 あの頃、目玉は最高に面白い遊び道具だった。いつでもどこでも一人で遊べるし、面倒なルールも勝ち負けもない。何より、その遊びをやっている間は、頭も体もどこか遠くに飛んでいっているような感じがして、怖いような楽しさがあった。
(中略)
 だが、目玉遊びはあまり周囲の理解を得られなかった。家でも学校でも「ぼんやりしている」としょっちゅう注意されたし、通簿にはいつも〝休み時間に誰とも遊ばず一人でいることが多いようです〟とか〝もっと積極的にお友だちと遊ぶようにしましょう〟などと書かれた。自分としてはこんなにも楽しく遊んで、時には気絶しそうなほどの興奮を味わっているというのに、傍目には一人でぼんやりしているようにしか見えないのかと思うと、釈然としなかった。』

(P89〜91「目玉遊び」)

私は到底、こうした「ぼんやりさん」ではありえかった。
私の場合は、これとは真逆に、昔も今も、明確にやりたいことがあり、それを次々とこなしていくことに「充実感」を覚えるタイプの「現実派」なので、ぼんやりしている暇など、まったく無いのである。

ところで、本書を読んでいると、ところどころで、懐かしいテレビ番組名が登場する。
例えば、『ハリスの旋風』(P76)、『どろろ』『狼少年ケン』(P197)、『ナポレオン・ソロ』(P200)といった具合で、いずれも私が幼い頃に楽しんでいた番組である。

ちばてつや『ハリスの旋風』

で、岸本は何年生まれなのだろうと調べてみると、私より2つ上の1960年(昭和35年)」だと分かった。ちょっとだけお姉さんの、同世代である。
だから、感覚的には、よくわかるところがある。「そんなことあったな」と思うのだが、ただ、岸本が平気でそういうものに「ぼんやり」と楽しく耽溺するのに対し、私はそこに止まろうとはしないタイプなのだ。

『 その時の、何か取り残されたような不安やさびしさやもどかしさを、私は何十年もたった今もどこかで感じつづけていて、だから五年生のあの何でもない放課後は、何度も何度も私の頭の中でリプレイされてしまう。カヲルちゃんの沈黙、キダ君のウィンク、流れる雲、誰かの叫び、転がるバケツ、(※ リレー競走の選手に)選ばれた人たちの体操着のまぶしい白、何度も描かれては消される地面の図形。』

(P40「ぜっこうまる」)

まるで、自分の経験したことのように、その「絵」が浮かんでくる。

『 小学校低学年の頃、週にいちどピアノを習いに行っていた。先生の家には『少年マガジン』がどっさり積んであって、順番を待つあいだに貪るように読んだ。そうして読んだなかに、たしか『あしたのジョー』もあった。
「じょー」が「りきいし」に激しくパンチをくらう。「あっぱーかっと」という名前のパンチだ。するとじょーの口から、血にまみれた、白っぽい、ソラマメみたいな形をしたものが、ライトがぎらぎら光るスタジアムの天井めがけて一直線に飛び出す。じょーは倒れる。髪の長いきれいな女の人と目玉のおやじが「じょー!」と叫ぶ。
 私は長いこと、じょーの口から出てくる、そのソラマメ形の血にまみれた白いものを、腎臓だと思っていた。「じんぞう」がどこにあって何をするものかはよく知らなかったが、何か大事な内臓であることは知っていて、毎回そんなものを出してしまってじょーは大丈夫なんだろうか、と内心心配だった。』

(P138「床下せんべい」)

ここで『髪の長いきれいな女の人と目玉のおやじが「じょー!」と叫ぶ。』と書かれている『髪の長いきれいな女の人』とは白木葉子のことだし、『目玉のおやじ』というのは、「眼帯」をした丹下段平(段平おっつぁん)のことで、もちろん『ゲゲゲの鬼太郎』「目玉おやじ」のことではない。

『あしたのジョー』より、白木葉子
(『あしたのジョー』より、丹下段平

ところが、そうわかっていながら、あえて「子供の頃の認識(主観的認知)」に従って『髪の長いきれいな女の人と目玉のおやじ』と書いてしまえるところが、岸本佐知子の非凡なところだ。私なら「あのキャラの名前、何だっけ?」と思えば、きっと調べてから正確に書くはずだ。それほど、慎重で手堅く、無難なのだが、それゆえに岸本のような自由さが持てない。
ここで、岸本が「ソラマメみたいな形をしたもの」と書いているのも、もちろん「マウスピース」のことであり、たしかに子供というのは、そういう半端な誤解(理解)をしがちなものなのだが、はたして当時の私は、あれをどのように理解していたのであろう。

『 アルプスの少女ハイジ』 はハイジがずっとアルプスで楽しく暮らす話だと思っていた。ペーターパトラッシュという名前の大きな犬を連れていて、絵の前で眠るように死ぬのだと思っていた。『青い鳥』の主人公の名前はヘンゼルとグレーテルだと思っていた。そして『小公女』『小公子』の違いは、いまだにわからない。』

(P174〜175「むしゃくしゃして」)

アニメ『フランダースの犬』より、老犬パトラッシュと主人公のネロ

これも、言われてみれば、そういう「混線した記憶」というのは、私にも長らくあったものなのだが、いずれかの時期に、私はその記憶の曖昧さを、自覚的に確認し整理したはずである。守備範囲内のものを、曖昧なままにしておくのは「気持ち悪い」からである。
言い換えれば、私には岸本のように、「曖昧さを自覚的に楽しむ」というような芸当はできなかったのだ。

岸本が、このように「不確かなもの」「曖昧なもの」を、自覚的に愛しているというのは、次の文章に明らかだろう。

『〝訳のわからないこと〟として片づけられてしまった無数の名もない供述、それを集めた本があったら読んでみたいと思うのはいけない欲望だろうか。そこには純度百パーセントの、それゆえに底無しにヤバい、本物の文学があるような気がする。』

(P146「むしゃくしゃして」)

そうなのだ。岸本は「訳のわからないもの」の「訳のわからなさ」を愛でることのできる人なのだ。
一方、私は「訳のわからないもの」に、ひとまず「危険性」を感じ、その正体を確認することで「無害化」したい人間なのだろう。
言い換えれば、岸本は「小説家」体質の人であり、私は「批評家」体質の人間だ、ということになるのである。「訳の分からないもの」を愛でる人と、それを腑分けしたい人、である。

ともあれ、ここまで書いてきたことからわかるのは、岸本佐知子という人は、自分でそう装って見せているほど「ふんわり」した人ではない、ということである。

いつも「どこから攻められても大丈夫なように、ガードをかためている」ような私などとは違って、岸本は、まるで「じょー」や「りきいし」のような、「両手ぶらり戦法(ノーガード戦法)」の人なのだ。
一見「隙だらけ」に見えるけれど、その見せかけに騙されて、不用意に攻撃を仕掛けたりすると、待ってましたとばかりに、必殺の「クロスカウンター」を放ってくる、というタイプだ。
だから、決して侮ってはいけない、本質的には、怖いタイプの女性なのである。

(打たせて返す矢吹丈のノーガード戦法に、ノーガードで返した力石徹

ただ、岸本の、一見したところの「ぼんやり」は、私の「きっちり確認」主義と、底の底では繋がっているものだ、とも言える。

どういうことかというと、岸本が嫌うのは「安直な説明」「安易な整理」「わかったつもり」といったことなのだ。
そんなことで「わかったつもり」になるのではなく、「訳のわからないもの」については、それをじっくりと観察し吟味しなければならない。そうでなければ、それの本当のところはわからない(本質が味わえない)、というのが、岸本の根底的な構えなのである。

そして、そうした岸本の構えというのは、いうなれば「大物」的な余裕の構えなのであり、一方、私の構えというのは、もっとオーソドックスに、ひとまず、表面から分析を始めてみるといった、手堅く安全な方法論だと言えるだろう。
だから、両者の方法論は、見かけこそ「真逆」に見えるのだけれど、「表面的な理解・説明」では済ませず、その「欺瞞」の向こう側にある、「深い本質を知りたい」という点では、同じだと言えるのだ。

だから、次に紹介する「オリンピック」への態度なども、私が、真正面から攻撃的なのに対して、岸本の場合は「からめ手」を使って、本質的な部分に攻撃を仕掛けているというのが、よくわかるはずだ。

『 オリンピックが嫌いだ。
 朝から晩までオリンピックオリンピックとそのことばかりになるから嫌いだ。参加することに意義があるとか言いながらメダルの数に固執するから嫌いだ。口では「ゲームを楽しみたいと思います」と言いつつ目が笑っていなくて嫌いだ。メダルを取らなかった選手と種目は最初から存在しなかったことになるのが嫌いだ。国別なのも嫌いだ。閉会式と開会式だけちょっと好きだ。あとはぜんぶ嫌いだ。
 そもそもスポーツが嫌いだ。スポーツ選手イコールさわやか、純粋、フェアと誰が決めたのか。
(中略)
 もしも私の好きにしていいというのなら、今あるオリンピックの競技はすべて廃止にして、もっとスポーツの原点に立ち返るような、たとえば「唾シャボン玉飛ばし」とか「舌シンクロナイズド」とか「猫の早ノミとり」とか「水中にらめっこ」とか「目かくしフェンシング」とか「逆立ちマラソン」とか「男子二百メートルパン食い走」とか「女子一万メートルしりとりリレー走」等々の新競技を設置する。メダルも金・銀・銅はやめにして、一位どんぐり、二位煮干し、三位セミの脱け殻とかにする。
 どうだろう。これぐらいやれば、さすがにみんな馬鹿馬鹿しくなって、勝ち負けなんかにこだわらなくなるのではなかろうか。
 いや違うだろう。やっぱりみんな「どんぐりの数で韓国に負けた」とか「日本がどんぐり、煮干し、脱け殻独占です」などと言っては、悔しがったりはしゃいだりするのだろう。
 そして大まじめで舌の筋肉を鍛えたり、空気のように軽いノミ取り用の櫛をヨネックスと共同で開発したり、にらめっこの強化合宿中に顔筋断裂で出場が絶望視されたり、唾の粘度を増す薬を飲んでドーピングにひっかかったりするのだろう。百年も経てば、それらがもともと馬鹿げたおふざけであったことさえ忘れられてしまうのだろう。
 だから私はオリンピックが嫌いだ。』

(P130〜133「裏五輪」)

(まさに「パンとサーカス」。為政者の思うがままの、能天気な大衆が嫌いだ。)

このように、岸本佐知子というエッセイストは、単に「奇妙でユーモラスなエッセイ」を書く人、などではない。
岸本の本質には、隠された批評性があり、それはけっこう「恐るべきもの」なのだ。だからこそ、本当に面白いのである。

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岸本が、所収のエッセイ「ホッホグルグル」(P69)で、気がつくと頭の中でのリピートが止まらなくなる、そんな謎の言葉について書いている。いろいろ調べてみたけれど、結論としては、その正体は判明していない、という話だ。
だが、本書は、刊行からすでに17年にもなるわけで、それでもその正体は、いまだ判明していないのであろうか?

じつは、私にもこれに似た言葉を、むかし何度も聞いたことがあるように思うのだ。
それはたぶん、テレビ番組の主題歌かエンディングの、出だし部分の歌詞である。

とんからとんから ほっほゆめゆめ
とんからとんから ほっほゆめゆめ
なに見てる 夢見てる
遠いロマンに 憧れている

といったような歌詞だ。

ただし『とんからとんから ほっほゆめゆめ』の部分は、「こんな感じ(調子)の、合いの手的な言葉」というだけで、はっきりした記憶はないのだが、後の二節は、意味のある言葉なので、かなり正確なのではないかと思っている。

ともあれ、この「ほっほゆめゆめ」の部分が、岸本の言う『ホッホグルグル』なのではないかと思いネット検索したのだが、残念ながら、該当する「歌詞」はヒットしなかった。

だから、もしも、あれじゃないかと思う方がいらしたら、私でも岸本にでも良いので、お知らせいただければ幸甚である。


(2024年1月16日)

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