谷川嘉浩 『スマホ時代の哲学 失われた孤独をめぐる冒険』 : 「ネガティブ・ケイパビリティ」とは、 私のことか?
書評:谷川嘉浩『スマホ時代の哲学 失われた孤独をめぐる冒険』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)
初めて読む著者の本である。書店で、そのポップな表紙が目を惹き、
帯に刷られた著者の写真は20代前半にも見えるし、『新進気鋭の哲学者による』とあるから、いかにも若者向きに読みやすそうな感じの本で、予定の詰まった読書にも左程の負担にはならないだろう。一一そう考え、例によって「では、お手並みを拝見しようか」と、またもやうかうかと購入してしまった。
読んでみると、実際、読みやすいし、著者の考え方はかなり堅実なものであり、ほぼ異論はなく同意できるものだった。当然のことながら、勉強になった部分もあるし、紹介されている図書も、何冊か「ブックオフオンライン」で購入してしまった。
だから、決して悪くはないのだが、特に「目新しい」ものはなく、著者も、そんなハッタリめいたことには興味がないようなのだが、やっぱりちょっと物足りない感じが残った。
著者は、いまどきの薄っぺらな「情報処理」のあり方(例えば「ファスト教養」「ファスト読書」「マルチタスクな情報処理」)に問題を見ており、そんな「今どきのパターン」にどっぷりハマっている人たちに、いかに「哲学」的に学び、腰を据えて考えるということが、充実した行き方をする上で大切なのかを、教えようとしている。
つまり本書は、きわめて真っ当な「哲学入門書」なのだから、「目新しさが無い」というのは、仕方のないところなのだろう。
だが、歳をとった今の私からすれば、こんなわかりやすい「若者向け入門書」では、やはり「物足りない」という印象は否めなかったのだ。
本書の内容については、Amazonカスタマーレビューの常連レビュアー「無気力」氏のレビュー「常時接続の世界で孤独を確保する方法」が、よくまとまっているので、本書の「内容紹介」がわりに引用させていただこう。
いかにも面白そうではないか。一一実際、面白いし、納得もできる。だが、何か根本的に「物足りない」。
どうしてだろうと、そう思案して思いつくのは、「結局これでは、著者と考えを同じくする、哲学をかじっているような人なら、納得して同意するもだろうが、著者が本来訴えたかった人、つまり、哲学に入門してほしい一般の人々には、著者の声は届かないだろうな」という感じであり、結局のところ本書は「哲学に興味のある、ごく限られた哲学オタク的な若者にしか読まれないし、読んだところで、そんな読者がオタクの域を脱することもないだろう」と、そんな「内輪ウケ」的な印象しか与えないのだ。
著者の気持ちや意図は、きわめて真っ当なものなのだが、この「面白そうな」アプローチでは、「常時接続」というものに象徴される「資本主義リアリズム=ネオリベラリズム」の厚い壁(非情さ)を打ち破ることはできないだろう、と感じるのである。
例えば、本書には、奥付付近の「著者紹介」が無く、「はじめに」や「あとがき」などの中で、著者は簡単な「自己紹介」をしているのだが、エッセイ的にくだけた語り口の自己紹介なので、いまいち客観的なデータがつかめない。例えば、生年はどこにも書かれていない。
で、どんな人かとネット検索してみると、こんな「自己紹介ページ」が見つかった。
一連の、ネオリベラルな(成果主義的な)「大学改革」によって、今どきの大学教師は「大学にこもって、もっぱら専門の研究にいそしみ、その結果を学生に教授する」だけでは済ませてもらえない、というのは知っている。
要は「見える実績を出せ」と「お国」から言われているのは知っているし、このページなどは、そのための「売り込み(自己宣伝)」ページだというのもわかってはいるが、やっぱり、私のような昭和の人間には、「哲学者」とか「哲学教授」といった人が、こういう「なんでも対応できますので、どうぞよろしく」みたいなことを書いているのを見ると、いささかゲンナリさせられてしまう。
「たしかに有能なのだろうし、何にでも対応できるのかもしれないけれど、それって、結局は、資本主義リアリズムに上手に適応した、器用な何でも屋だってことじゃないの? お国が右向け右といえば、右を向くし、右を向くことこそが正しいといった理屈だって、求められれば、巧みに構築できますよ、って感じなんじゃないの?」と疑ってしまう。
著者自身も本書で書いているとおり、「哲学者」というのは「自分の頭で、一人でうんうん言いながら考える人」みたいなものではなく、「2500年続いてきた哲学の伝統を継承し、その知を時代に合わせて活用する、知の専門技術(伝承)者」みたいなものだという考え方は、決して間違いではないと思う。
著者も言うとおり、先人の知恵をないがしろにして、自分だけで何か考えようとするのは、あまりにも非効率的だし、そもそも独善的に傲慢な考えで、そんなものなど多くの場合「休むに似たり」といったことしか結果しないであろうというのは、容易に想像のつくことだからだ。
しかし、「哲学」的な知識が「どうとでも使えるような知識」であるというのは、やっぱりおかしいと思う。
「哲学的な知」は、その徹底性において、おのずと「人の生き方」を規定し、拘束するものだとも思うからである。つまり、「流される」ことを容易には是認しない、「哲学」となるはずなのだ。
無論、こう言うと、著者は、そんなつもり言ったのではないと言うのだろうし、事実、そんな「便利で使い勝手の良い、哲学的技術屋であるつもりはない」と言うのだろうが、私は「でも、歴史を見れば、大半の知識人は、知の命ずるままには生きれませんでしたよね。すなわち、長いものに巻かれた。あなたの現状だって、それに近いんじゃないですか?」と、意地悪な追求をしてしまうだろう。
彼(著者)も「哲学で、食っていかなければならない」のだから、ある程度の妥協は致し方のないことだと、そう理解してはいても、だからと言って、「哲学」をやっている人が、世間並みの「妥協」をするというのは、やはり「何のための哲学なのか?」という疑問を感じずにはいられず、やはり釈然としないものが残ってしまうのだ。
で、先に引用した「無気力」氏のレビューの、
というところで言及されていた、「ネガティブ・ケイパビリティ」とは、何だろうか?
「創造するときも、解釈するときも、謎や疑問、不確実性とともにあることができるかどうかということ」に関わる能力とは、どういうことか?
要は、「スッキリしないもの(や状態)に耐える能力」ということだ。
言い換えれば、面倒くさそうだからといって「目を逸らさない」「スルーしない」「無かったことにしない」という能力。逆にいえば、嫌なことや面倒なこと、すぐには解決できないことであっても、それに耐えて腰を据え、時間をかけて向き合える能力、とでも言えるだろう。
今の人たちは「スマホ時代のマルチタスク」に追われており、面倒なものだけではなく、個々の事象に「興味やこだわりを持って」関わっている暇などないと、個々の事象を「大量に流す」ことで済ませ、早々に「目を逸らし」「スルーし」「無かったことにする」のだが、それでは、いつまでたっても自分の中身は空っぽのままで、本物の自信など持てるようになるはずがない。
したがって、今の時代に哲学する(思考を取り戻す)ためにどうしても必要なのは、そうした負荷に耐える「ネガティブ・ケイパビリティ」であり、その能力が問われている、という話なのである。
で、だから私が、多くの人にとっては、たぶん「どうでもいいこと」であろうことにこだわって「どうも信用できないな。本当にそうなの? あなたを信じてもいいの?」などと(嫌われることも覚悟で、孤独を引き受けて)「粘着」するのは、すなわち「ネガティブ・ケイパビリティ」があったればこそであり、私のこの「粘着力」こそ、著者が「今どきの(アッサリ系の)人々」に求めているものなのである。
だから、著者の谷川嘉浩さんも、私のこんな「粘着(的思考努力)」を、許してくれることだろう。
一一「我が意を得たり!」とまでは、言わないにしても。
(2022年12月3日)
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