カート・ヴォネガット・ジュニア 『タイタンの妖女』 : 「無意味の意味」の快楽
書評:カート・ヴォネガット・ジュニア『タイタンの妖女』(ハヤカワ文庫)
カート・ヴォネガット・ジュニアの代表作である。
カート・ヴォネガットと言えば、シニカルなユーモアに満ちた作風で知られる。
シニカルなユーモアとは、もちろん、人間、あるいは人生に、肯定的なユーモアでもなければ、同じ意味で、温かい視線に立つユーモアでもない。
シニカルとは、「冷笑的」という意味で、要は「肯定的」でも「好意的」でも「温かく」もないということであり、「冷たく」かつ「突き放した」ものであり、それでいて「強く突き放す」というわけではない。なぜなら「強く」とは「力が入っている」ということであり、要は「熱い」ものがそこにある、ということだからだ。
「シニカル」は、「冷たい」のだから、「力強く=熱く」突き放したり、嘲笑ったり、ましてや批判罵倒したりはしない。そんなに「一生懸命」にはならない。
言うなれば「力が抜けている」のだ。「力が入らない」といっても良い。要は、「冷たい」とは言っても、徹底的に「冷たい」わけでもなく、かと言って、「熱く」もなければ「温かく」もない。要は「冷めている」のであり、「熱くも冷たくもない」のである。だがまた、中途半端に「生温かい」のでもなければ「生冷たい」のでもない。徹底して「どちらでもない」。その意味で「どちらでもある」のであろう。
なぜならば、人間や世界とは「そういうもの」だからではないか。
どっちだなどとは言えないものなのだ。どっちだなどと言い切れるのは、人間や世界から、目を逸らしたいと思い、目を逸らしているからではないか。
だから本当は、積極的に肯定もできないし否定もできない。そんなこと、わかるわけがないから、どうしようもないものなのだ。
そんなわけで、カート・ヴォネガット・ジュニア、あるいはカート・ヴォネガットの代表作と言われるくらいだから、本作がさぞや「面白い」のだろうと思って読むと、肩透かしをくわされる。
だが、カート・ヴォネガットの作風とは「そういうもの」なのだ。「そういうもの」とは、どういう意味かと言えば、「意味がない」という意味なのだ。もう少し言えば「解答がない」ということだ。
私たちは、生きていく上で、物事に対して、常に「意味」を見出していく。なぜなら、そうすることによって、生き延びる公算が高まるからだ。
人間は、「意味」を見出すことによって、つまり「高度な知能」を持って「観念操作」することで、より有利に生き延びてきた。他の動物のように、「本能」や「経験的直感」だけではなく、「経験」を抽象することによって、より効率的な法則性を見出すことにより、より効率的に餌を得たり、伴侶を見つけたりすることができるようになった。つまり、「経験」や「状況」の中から、より正確に正しく「意味」を見出すというのは「生き延びるための力」だったのだ。だから、私たち常に「思考する動物」であり、思考しないではいられない動物なのである。だからこそ「物事には意味がある」と思ってしまう。そう思わずには生きられないようにできているのである。
だが、本当に、物事には「意味」などというものがあるのだろうか?
それはたぶん、あると言えばあるし、無いと言えば無い。
例えば、「これを食べれば、生きられる」ということを知っているというのは「意味がある」と言えるだろう。だが、そもそも、生きる気がなければ、そんな知識には、意味がない。つまり、「生きる」という大前提を認めないと、たいがいのことは「無意味」になってしまう。食べることも無意味だし、伴侶を見つけて子孫を残すことも無意味だし、地球環境を守ることも無意味だし、善をなすことも無意味だ。
そもそも「生きている」ことに意味がなければ、それを前提とした、すべてのことは無意味となってしまう。一一だが、本当に「生きること」に意味などあるのだろうか? どうせ、少なくともわれわれは、必ず死ぬのである。
ではなぜ、われわれは「生きる」のだろうか?
それはたぶん「生まれてしまった」からであろう。つまり、気がついたときには、すでに「生きていた」ので、「生きている」ことに意味がないとしても、ひとまず「生きている」ことを止めるためには、「生きていることを止める(積極的な)意味」を見出さなければならない。でないと「わざわざ死ぬ」ことはできない。「生きること」が無意味なら、当然のことながら「生きていない」ことも無意味だからだ。つまり、無意味な状態から無意味な状態へ変わることは無意味だから、そんなことを積極的にすることなどできないのだ。だから、自殺する人には「生きているのを止める=死ぬ」ことに積極的な「意味」を見出しているだろう。少なくとも「生きているよりは死んだほうがマシ」という意味を見出しているはずなのだ。
だが、人間、生きていれば、たまにではあれ「良いこと」もあるし「楽しいこと」もある。その味を知ってしまうと、仮に「嫌なこと」のほうが多くても、なかなか死ねない。「良いこと=楽しいこと」をわざわざ捨てるというのは、なかなかできないからだ。
そんなもの、初めから知らなければ、死ぬのに苦労はないが、死のうと思うほど生きてきた人なら、「良いこと=楽しいこと」くらい、必ず経験しているからだろう。つまり、人というのは「生きていることには意味がないから」とか「生きていることは、苦しみの方が多いから」という理由では、なかなか死ねないのではないだろうか。
そうではなく、人間というのは、「楽しい」も「苦しい」もない、「無意味」にとらわれた時に、死ぬことができるのではないか。死んでいるに等しい状態だから、死ぬことも生きることもできるのではないだろうか。言い換えれば、この世界が「無意味」だとわかっても、だからと言って、人は「必ず死ぬ」というわけでも、「死ねる」というわけでもないのではないだろうか。
カート・ヴォネガットの小説には、こうした「宙吊り」状態が描かれているように思う。
あれこれいろんなことが起こるのだけれど、結局それらは「だから、どうした」というような意味を持たない。ただ「なるようになっただけ」なのである。そこには、そうなるに値するような「意味」など無いのである。一一だから「何これ?」となってしまう。
本作『タイタンの妖女』も、そういう作品である。登場人物たちの、非常に数奇な運命は、しかし、結局のところ意味はない。ただ、そうなったというだけのことであり、その意味で、無意味なのだ。
だから、物語に「結論」としての「意味」を、当たり前に求めてしまうと、「何これ?」となってしまう。「何か」を求めて読んだのに、本作には、その「何からしい何か」がないのだ。あるとすれば、その「何か」とは「無意味」なのである。
「人間とは何なのか?」「生きるとは何なのか?」「宇宙とは何なのか?(なぜ存在しているのか?)」一一そうした根源的な「問い」に対する答えはない。
存在とは、ただ「存在している」というだけで、「意味を満たすために生み出されたもの」ではないからだ。その意味で、意味などないのである。
ただ、そんな「無意味」な世界であっても、当然のことながら「意味」を見出すことができる。人間は、そのようにして「意味」を見出してきたし、そうせずにはいられない存在だからだ。おかげで「神」なんてものまで発明できた。
だから、われわれは「無意味の意味」を見出そうとするし、それは「無意味だが楽しいことであり、その意味で意味がある」のである。一一言うなれば本作は、そういう小説なのだ。
ここで、「アンク」と呼ばれている本編の主人公は、支配者たちに記憶を消され、アンテナの指令によって、親友を我が手にかけて殺してしまっている。だが、この時点では、そのことに気づいてさえいない。それでも苦しい。もう苦しいのはごめんなのだ。
一一この世界とは、それほどまでに残酷なのだ。
そんな、この世界において「残酷な現実を知ること」は、はたして意味のあることなのだろうか? それは単に、みずから「苦痛を求めること」でしかないのではないか? つまり「マゾヒズム」だ。
だが、私が若い頃に作った格言に「知識人は、断然マゾヒストである」というのがある。
普通に考えれば、この世界は「快楽」よりも「苦痛」のほうが、はるかに多い。だから、「生まれてこなかったほうが良かった」という「反出生主義」思想というのは、理にかなったものだと思う。
ただしそれは、「生まれていない」段階で、「生まれるべきか、生まれないでおくべきか」と問うならば「生まれないほうが得策であろう」ということであって、すでに生まれてしまっている場合、「反出生」と「死ぬべき」ということは、同じではないと思う。一一たぶん、生きている人間は、生きていくように、基本的なところで仕組まれているからである。だから、生きていることを選ぶほうが多い。
となれば、「アンク」が語るとおりで、「苦痛」を避けうる最大の方法は、「苦痛」を「快楽」に変換するということではないだろうか。
「苦痛」があるからこそ「楽しい」。「苦痛」を乗り越えることが「快楽」だ。そもそも「苦痛」のない「快楽」など、存在しない。一一そのように「考える」ようになった人間ほど、強いものはないのではないだろうか。その結果「死ぬ」ことになってもである。どうせ、生きることにも死ぬことにも「究極の意味」なんてないのだから。
そして、そうした「無意味な知の喜び」において、最大のものとは、たぶん「無意味の意味の探究」なのであろう。
カート・ヴォネガット・ジュニアの作品には、この世界には「生きる意味」もなければ「生きる価値」もないと、そう言いつつ、それでも生きなければならない人間への執着が感じられるし、その感覚を共有することこそが、彼の読者の感じうる「快楽」なのではないだろうか。
「生きている意味がないから、死んだほうがいい」というのは、一見「論理的」に見えるのだけれど、死んでしまえば「苦痛」という「意味」すら失われてしまう。
本当のところ、私たちにとっての最大の苦痛とは、「意味ある苦痛」すら失われてしまうことなのではないだろうか? だからこそ、人は「苦痛」に堪えてでも生きてしまうのではないだろうか?
カート・ヴォネガットの熱心なファンとして知られ、所属芸能事務所名まで「タイタン」にしてしまった芸人の太田光が、本書「解説」の中で最後に引用している、本作中の言葉を、私もここで引用しておこう。
新しい言葉など、たぶんないのだ。
ただ、それを自分の言葉として発見するために、苦痛の中に喜びを見出しつつ、人は生きているのではないだろうか。
(2024年1月5日)
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