映画評:エリア・カザン監督『エデンの東』(1955年・アメリカ映画)
本作は、なかなか評価の難しい作品であった。
というのも、エリア・カザン監督が、「ハリウッドでの赤狩り時代」に、「仲間を売った」ことで、映画監督として生き残っただけではなく、それを「恥じる」のではなく「開き直って自己正当化した」ために、当然の結果として、多くの映画人から「軽蔑・嫌悪」され続けた人であったというのを、私も知っているからだ。
そして、私自身も、そんなエリア・カザンが「大嫌い」だからこそ、この作品を、そうした「色眼鏡」で見てしまう危険性も高かったためである。
言うまでもないことだが、「作者は作者、作品は作品」であり、「どんなに嫌な奴の作品であっても、優れた作品ならば、それは正しく、優れた作品として評価されなければならない」。
だが、その一方で「作品は、作者によって生み出されるものであって、決して作者と無関係に生まれてくるものなどではなく、そこに何らかの強い影響関係があるという事実は否定できない」ということもある。
つまり、平たく言えば一一「卑怯者には、本物の正義は描けない」ということだ。
もちろん、卑怯者にだって「通り一遍の正義なら描ける」だろう。
例えば、長らく続いている「仮面ライダー」シリーズの監督が、全員「正義の人」だなどということはあり得ないし、ましてや仮面ライダー俳優が全員「善人」だということなどあり得ない。現に、人としてどうなのかというような問題を起こす人だっているのだが、そんな俳優にだって、素人を騙す程度に「善人を演ずること」くらいなら、容易に可能なのである。
言い換えれば、その「人柄を反映した深い演技」ではなく、「型通りに善人を演ずること」くらいなら、別にその俳優が、本物の「善人」でなくてもやれるのだ。
そんなわけで、「裏切り者の卑怯者」であるエリア・カザンの撮った、「名作」とされるところの『エデンの東』を正しく評価するためには、まず、可能なかぎり、そんな「予備知識という色眼鏡」を排して作品を鑑賞し、良いところは良いと認めた上で、「引っかかった部分」については「深掘り」をする、という段取りを踏まなくてはならない。
しかしこれは、口で言うほど簡単なことではないので、「なかなか評価の難しい作品」だということにもなったのだ。
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さて、そんな本作を鑑賞した率直な感想を先に書いておくと、一一「暗くて、イジイジした物語なので、ぜんぜん楽しめなかった」ということになる。
言うなれば本作は、「優秀な兄に比べて、自分は、気真面目な父親に愛してもらえない」とイジイジ悩んでいる弟の「逆転勝利物語」なのだ。
原作は、アメリカの文豪ジョン・スタインベックで、本作はそのタイトル『エデンの東』からも分かるとおりで、「旧約聖書」の「カインとアベルの物語」を下敷きにしている。
ちなみに、「カインとアベルの物語」とは、次のようなものだ。
さて、まずはここでは、本作『エデンの東』を理解する上で、「多くの誤解をまねいた、紛らわしい点」について、書いておかなくてはならないだろう。
私の見たDVDもそうだったのだが、映画『エデンの東』では、聖書の「アベル」にあたる「アーロン」を、兄弟の「兄」と翻訳し、ジェームズ・ディーンが演じた、聖書の「カイン」にあたる「ケイレブ(キャル)」を、「弟」だと訳している。
一一つまり、兄弟が「逆」になっている。
聖書の記述に従うならば、本来は「カイン」が兄で「アベル」が弟なのだから、映画『エデンの東』では、「カイン」にあたる(ジェームズ・ディーンの演じた)「ケイレブ(キャル)」を「兄」としなければならなかったはずなのだ。
ところが、「聖書」の記述と映画『エデンの東』の設定では、「兄弟」が逆転してしまっている、一一かのように見える。
本来は「弟殺し」の物語なのに、この映画では「兄殺し」の話になってしまっているように見えるから、とても「紛らわしい」し、無用の混乱と誤解を生んでいるのである。
で、この問題については、次のように説明されている。
つまり、「英語」の「ブラザー」という言葉には「兄・弟」の区別が無いのだが、それを翻訳する際に、映画のキャラクターイメージから、「兄・弟」を誤って割り振ってしまったと、たぶんそういうことなのであろう。
「優秀で堂々とした兄と、愛されずにいじけた弟」というイメージで、翻訳されてしまったのだ。
したがって、映画『エデンの東』を見る際に、「優秀で堂々とした兄と、愛されずにいじけた弟」というイメージで見てしまうと、それが「色眼鏡」になってしまう。
ジェームズ・ディーンのキャラクターもあって、要は「可哀想な弟くんの物語」として(イメージして)見てしまいがちなのだが、実際には、この兄弟は「対等」であり、どっちが兄でどっちが弟ということではない。
むしろ、聖書の記述に従うならば「妬みっぽい兄が、弟を殺した物語」ということになるのであって、映画の「キャルがアーロンを破滅させる物語」とも、辻褄も合うのである。
さて、そんなわけで、映画の設定にそって「キャルとアーロン」を理解するならば、二人は「対等」であり、その二人の父親だから、名前こそ「アダム」となっているが、聖書上での役割としては「キャルとアロン」の二人への「評価」に露骨な差別をもうける「ヤハウェ=エホバ=神」の役割を担うのが父親で、彼が二人への評価に差別を設けたのは、あくまでも「プレゼント=神への供物」の「内容」に対する評価の問題だということになる。
つまり、
のであり、そして、『エデンの東』ではそれが、キャルの「現金」とアーロンの「婚約報告」、ということになるのだ。
聖書の方について言うと、どうして「収穫物」ではダメで、「肥えた羊の初子」なら良いのかという、そこには「ハッキリとした説明」は存在しない。
神の意志というものは、しばしば人間には「図り難い」ものなのだ。例えば、「天災」ひとつとっても、そうだろう。
この世では、(ヨブのような)善人が不幸になり、悪人がのさばることなど、いくらでもあるのだが、そこにも「神の深いご意志がある」と考えるのが、神を信じる敬虔な信者の立場なのだ。
ただし、客観的に考えるならば、「イスラエル民族の部族神」でしかなかった「旧約時代の神」つまり「旧約聖書の神ヤハウェ=エホバ」の場合、その供物としては、生き物を殺して捧げるというのが、ごく当たり前のことだったようなのだ。
例えば、ヤハウェは、アブラハムの信仰を試すために、その最愛の息子であるイサクを「殺して捧げよ」なんて無茶なことを言うし、異民族に故郷を追われたイスラエル民族に、新たな土地を与えるために、先住民を皆殺しにするなどという、まさに今の「パレスチナ問題」を正当化するような記述も見られる。
したがって、「旧約聖書の神=ヤハウェ」というのは、後の「新約聖書の(父なる)神」とは、だいぶイメージの違った、かなり「手前勝手な神」なのである(なにしろ、部族神なのだし)。
一一そんなわけで、なぜ「収穫物」ではダメで、「肥えた羊の初子」なら良いのかというと、それは「ヤハウェからして、肥えた羊の初子の方が、捧げ物として相応しい、と考えられた」というくらいのことにしかならないのである。
大昔の「聖書の記述」が、「今の私たちの価値観や倫理観」と合致しない部分があるというのは、むしろ「当然」なのであって、その「訳のわからなさ」に「深い意味」を読み取ろうとするのは、むしろ「裏返された疑心暗鬼」の類い(妄想的・信仰的な解釈)にしか、なり得ないのだ。
以上、「カインとアベル」と「キャルとアーロン」の、混乱しやすい関係を説明した上で、本作『エデンの東』の「ストーリー」を、少し長くなるが、「Wikipedia」から、そのまま引用紹介しておこう。
「カインとアベル」と「キャルとアーロン」の、混乱しやすい関係を理解した上で、『エデンの東』の物語を確認してみると、そこでは重大な「改変」がなされている、ということに気づくだろう。
つまり「旧約聖書」の方では「神の判断を受け入れず、弟アベルを妬んだ兄カインが、弟を殺した」ために、神からその「罰」として『耕作を行っても作物は収穫出来なくなる』『エデンの東にあるノドの地に追放された』ということになっており、いちおうは「勧善懲悪の物語」になっているのに、『エデンの東』の方は「(実質的)兄殺しのキャルが、最後は父(神)の愛を得て、めでたしめでたし」などという「歪んだ物語」に「改変されている」のである。
つまり、この物語を「愛する父からの愛を受けられなかった可哀想な弟くんが、少々無茶をやったけれど、最後は父親に愛されてよかったね」と、そんなふうに理解した「多くの人たち」は、一一この物語を「まともに理解してはいなかった」と言えるのである。
ただ、ジェームズ・ディーンという「神話的な俳優」の「神話性」に引きずられて、この「歪んだ物語」まで「良い話」だと、歪めて理解してしまったのである。
だが、世の中には、そんな「権威主義的な開きメクラ」ばかりではなく、ちゃんと「おかしいものはおかしい」と評価できる人も、少数ながらいる。
そんな、真っ当な人の評価の一例が、「映画.com」へのカスタマーレビューとして寄せられた、「凰梁の何ちゃって映画評論」氏による『映画史に残るアイコン的作品と聞いたので見たのだが、、、』と題された、下のレビューだ。
まったくそのとおりである。
たしかに、二人の兄弟の父親は「真面目一方の馬鹿」である。しかも「現実を直視できない、二流の真面目人間」にすぎない。つまり、妻の現実を直視できないまま、子供たちにまでそれを偽り続けてきた人なのだ。
だから、その点をキャルから批判されるのは当然だし、アーロンはと言えば、既成の価値観としての「良識に従順なだけ」の、「剥きつけの現実に耐える力のない、所詮はひ弱な善人」でしかなく、その意味で彼も、父親同様の「二流の善人」にすぎない。
だが、この父や兄弟アーロンの、「弱さ」や「愚かさとしての、無自覚な偽善性」というのは、キャルによって、ここまで徹底的に破壊されねばならないような、「悪」などではない。一一というのは、「凰梁の何ちゃって映画評論」氏の指摘どおりなのである。
「欠点があるから」「完璧な善人ではなかったから」、その人生を「メチャクチャに破壊してもかまわない」というような、いま風に言えば「キャンセルしてもかまわない」というような、そんな理屈になど、なるはずがない。
聖書のように「敵を愛せ」とまでは言わないが、しかし、「欠点」や「過失」があったという理由だけで、その人の「人生そのもの」を否定し、破壊してもかまわない、などという考え方が許されるわけもない。
むしろ、そうした人情のかけらもない冷酷さ(サイコパス的な、寛容性の欠如)こそ、許されざる「傲慢の罪」なのだ。
それなのに、こんなキャルの、メチャクチャな「復讐的乱暴狼藉」が、なんとなく許されて、なんとなく「ハッピーエンド」だなどと誤解されるのは、ひとえに、主演のジェームズ・ディーンの「魅力=魔力」のおかげでしかない。
この映画の「ハッピーエンド」自体は、理屈も道理もあったものではない、「メチャクチャ」なものでしかないのだ。
しかしまた、まさにこれこそが、人間でも空が飛べると信じさせてしまう、「映画のマジック」の「恐ろしさ」なのである。
したがって、こんな「デタラメな物語」を、それでもなんとなく「良い話」のように見せかけてしまった、ジェームズ・ディーンの魅力と、彼を採用したエリア・カザン監督の「俳優を見る目」は、いくら高く評価しても評価しすぎることはないだろう。
一一その力量とは、まさに「黒を白と言いくるめてしまう」という、「ペテン師の力量」でしかない、としてもである。
無論、ヒトラーなども「プロパガンダ」に利用した、このような「力」としての「映画のマジック」や、そうした「力量」は、社会的に見れば「悪」そのものだと評価されてしかるべきなのだけれど、「効力がある」という点だけは、事実として認めなければならない。
つまり、エリア・カザンは、まごうことなき「一流の嘘つき」だった、ということなのである。
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では次に、エリア・カザンは、どうしてこんな「黒を白と言いくるめるような、倫理的に歪んだ物語」を作ったのか、という問題だが、これは無論、自分自身の「破廉恥な行動=非倫理的な行動」を、自己「正当化する」ためであったと、そう断じても良いだろう。
つまり、「ハリウッドにおける赤狩り」において、それを行なっていた国家機関「非米活動委員会」に対し、「仲間を売り渡した」だけではなく、その後もそれを恥じることすらせず、自己正当化を図り続けたという、そんな行動の一端として、言うなれば「アリバイ工作」のひとつとして、半ば自覚的に、この『エデンの東』は作られたのである。
つまり、エリア・カザンにすれば、ダルトン・トランボに代表される「仲間を裏切ることなく、有罪を選んだ者たち」というのは「綺麗事ばかり言っている偽善者」でしかなく、言うなれば本作『エデンの東』における、父アダムや兄アーロンみたいなものだと、そう言いたいのだ。そして、自分こそが、その「偽善」を暴く「弟キャル」なのだと、そういうつもりだったのである。
「だからこそ自分は、国家からも認められ、無事に映画監督業も続けられたのだ」と、カザンはそう考えた。
そして「この結果(現実)を見よ」というのが、『エデンの東』という作品のラストに込められていた意味だったのである。「最後に勝ったのは、私だ」と。
だが、そんなエリア・カザンの「実人生」が、ご都合主義的にでっち上げたフィクションとしての『エデンの東』のように、「めでたしめでたし」で終わったのかといえば、決してそうではなかった。
「現実は、そう甘くはなかった」のである。
この記述だと、エリア・カザンの受賞に反対した人は「少数派」だったように感じられるかも知れないが、上に紹介した、山本おさむの『赤狩り THE RED RAT IN HOLLYWOOD』のレビューに寄せられたコメントには、次のような(白浜維詠氏の)証言もあった。
仮に「三分の一」であっても、あるいは「四分の一」以下であっても、かまわない。
問題は、「赤狩り」の時代から40年近くが経っても、まだ「裏切り者エリア・カザン」という「汚名」は、決して消えてはいなかったという事実であり、エリア・カザン自身が、その「三分の一」なり「四分の一」なりの示した「歴史的評価」とその「意志」を、晩年になってまでも、目の当たりに見せつけられなければならなかった、ということこそが「重い現実」であり、「歴史的な審判」だったということなのである。
一一これでも彼は「幸せな晩年」を送ったと、そう言えるであろうか?
これで「めでたしめでたしのハッピーエンド」だなどと言えるのか、ということなのだ。
実際、「赤狩り」以降の彼の作風は、どうなったであろう。
そう。彼の「裏切り行為」は、映画関係者からの「軽蔑」を招いただけではなく、『その作風に暗い影を落とすこととなった。』のだ。
いくらカザン自身が「良心に照らして、なんらやましいところはない」と強弁したところで、彼はその言葉どおりに「明るく前向き」に生きていくこともできなければ、そうした作品を作ることのできない人になっていったのだ。
「後ろ暗いところ」があるからこそ、「言い訳がましい作品」を作る作家となっていったのである。
では、ここで問おう。
一一「不毛の地ノド」に追放されたのは、結局のところ、誰であったのか、と。
(2024年10月17日)
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