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ジャン・ルノワール監督 『大いなる幻影』 : 「理想」という大いなる幻影
映画評:ジャン・ルノワール監督『大いなる幻影』(1937年・フランス映画)
戦前の「戦争映画」である。内容的には、「捕虜収容所脱出もの」でもあるし「敵対国男女のメロドラマ」でもあり、見どころは色々とあって、楽しい作品に仕上がっている。一一だが、それだけではない。
本作は、「反戦映画」と言われ、世界的にも評判が良く、アカデミー賞作品賞の候補にもなった作品で、いろいろな意味で「わかりやすい作品」ではあるものの、しかし、『大いなる幻影』というタイトルに込められた意味が、十全に理解されてきたのかというと、私にはそれが、甚だ疑わしく思えるのだ。
というのも、本作を「反戦映画」と呼ぶ、その「理解の仕方」が、「戦争の悲劇を描いているから、反戦映画」だというような、脊髄反射的な安直さを、一歩も出ないものに見えるからである。
ルノワール監督が「大いなる幻影」というタイトルに込めた意味、語りたかったこととは、「反戦」のひと言で語れるようなものではないと、私にはそう感じられたのである。
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さて、映画マニアの方ならすでにご承知のことだろうが、本作のルノワール監督の父親は、かの、印象派絵画の巨匠ピエール=オーギュスト・ルノワールである。
『イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢』などの作品で名高いかのルノワールであり、監督は、その次男だ。
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こうしたことを書いていると、若い頃には、教科書の中の「歴史」の彼方に存在するとしか思えなかった人たちと、今の私が繋がっているのを感じて、いつも不思議な感慨にとらわれるのだが、それは私自身がすでに60年以上も生きてしまったので、歴史に対する「遠近法的な尺度」が、若い頃とは大いに変わってしまったということなのであろう。
ところで、父ルノワールが画家として分類されるところの「印象派」とは、どういうものなのだろう。
これは、美術史を勉強した人でないと、ほとんど理解不能な「分類用語」であって、私のように美術部に所属したことのあるくらい絵を描くのが好きだとか、絵を買ったことがあるとかいったような、ごく当たり前に「絵が好き」というだけでは、およそ理解不能な言葉である。
と言うのも、「印象派」という「分類用語」は、「美術絵画」の世界における、それまでの歴史的な経緯があって、初めて意味を為すものだからだ。要は「美術絵画の歴史」を知らなくては、その意味するところがわからなくても当然の代物なのである。
実際、「印象派」という言葉を真に受けて、「印象派とは、印象を重視して絵を描いた一派」だといった理解は、外れてはいないにしても、ほとんど理解の足し前にはならない。なぜと言って、「印象派」だって、「印象だけ」で描いているわけではなく、十分に「写実的な作品」が多いからで、その意味では、どのあたりが「印象派」の特異性(新しさ)なのかが、その言葉だけからでは、わからないのである。
そこで、ちょっと調べてみると、こうなる。
『印象派(いんしょうは)または印象主義(いんしょうしゅぎ)は、19世紀後半のフランスに発した絵画を中心とした芸術運動であり、当時のパリで連続して開催することで、1870年代から1880年代には突出した存在になった。この運動の名前はクロード・モネの作品『印象・日の出』に由来する。この絵がパリの風刺新聞『ル・シャリヴァリ』で批評家ルイ・ルロワの槍玉に挙げられ、皮肉交じりに展覧会の名前として記事の中で取り上げられたことがきっかけとなり、「印象派」という新語が生まれた。
印象派の絵画の特徴としては、小さく薄い場合であっても目に見える筆のストローク、戸外制作、空間と時間による光の質の変化の正確な描写、描く対象の日常性、人間の知覚や体験に欠かせない要素としての動きの包摂、斬新な描画アングルなどがあげられる。
印象派は登場当初、この時代には王侯貴族に代わって芸術家たちのパトロン役になっていた国家(芸術アカデミー)に評価されず、印象派展も人気がなく絵も売れなかったが、次第に金融家、百貨店主、銀行家、医師、歌手などに市場が広がり、さらにはアメリカ合衆国市場に販路が開けたことで大衆に受け入れられていった。ビジュアルアートにおける印象派の発展によって、ほかの芸術分野でもこれを模倣する様式が生まれ、印象主義音楽や印象主義文学として知られるようになった。
前史
フランスでは17世紀以来、新古典派の影響下にあるアカデミーが美術に関する行政・教育を支配し、その公募展(官展)であるサロンが画家の登竜門として確立していた。アカデミーでは、古代ローマの美術を手本にして歴史や神話、聖書を描いた「歴史画」が高く評価され、その他のジャンルの絵は低俗とされた。筆跡を残さず光沢のある画面に理想美を描く画法がアカデミーの規範となった。しかし19世紀になると、その規範に従わない若い画家たちが次々に現れ始めた。
・ロマン主義の画家たちは遠いはるかな過去の歴史ではなく、鋭い感受性をもって同時代の出来事に情熱的に感情移入した。テオドール・ジェリコーの『メデューズ号の筏』(1819年)は、この難破事件から受けた大きな衝撃をばねにして描かれた。ウジェーヌ・ドラクロワの『民衆を導く自由の女神』は、1830年の7月革命をその直後に描き、絵の中では作者自身ともされるシルクハットの男性が銃を携えている。どちらも、静かで伝統的な理想美を追求する新古典派にはない制作態度である。絵画技法としては、色彩の多様性やスピード感、正面性にとらわれない自由な視角が特徴である。
・写実主義の画家たちも、やはり新古典派のような歴史画ではなく、同時代の社会のありのままの現実を描こうとした。ギュスターヴ・クールベの『石割人夫』、ジャン・フランソワ・ミレーの『種まく人』や『晩鐘』『落穂拾い』、オノレ・ドーミエの『三等客車』は、現実に生活している労働者や農民、自然の姿を忠実に描こうとした。新古典派同様の暗い画面であるが、クールベはへらを使った力強いタッチ(筆触)で描いた。
・バルビゾン派の画家たちは都会にはない自然の美しさに魅せられ、1820年ごろからフォンテーヌブローの森で風景画に専念した。バルビゾン派という呼称は、彼らの多くが滞在した村の名前に由来する。代表的な画家に、カミーユ・コロー、テオドール・ルソーなどがいる。ミレーも晩年には彼らに合流した。彼らは戸外でスケッチをしてアトリエで完成させたが、のちの印象派の画家たちは戸外制作ですべてを仕上げた。また1860年代には、バルビゾン派の流れを汲むコロー、シャルル=フランソワ・ドービニー、ウジェーヌ・ブーダン、ヨハン・ヨンキントなどが風景のよいセーヌ河口オンフルールのサン・シメオン農場に集まるようになり、印象派に直結する海辺や港の風景画を描いた。
これらの画家たちが印象派の先駆けとなった。』
(Wikipedia「印象派」)
要は、当時のフランスの美術界は、「新古典派」が主流であり、平たく言えば、古代ローマの古典的な宗教絵画を理想的なものと考える、形式重視の「伝統主義」派だったわけだが、当然のことながら、こういう「威張った主流派」に反抗して、その規範に従わない若い作家たちが次々と生まれてきて、その中に「ロマン主義」「写術主義」「バルビゾン派」などもあった中で、やがて生まれてきたのが、クロード・モネにはじまる「印象派」なのである。
しかし、上の説明にもあるとおり、モネ自身が「印象が大事だ」と殊更に主張したわけではない。「新古典派」的な価値観を持つ評論家が、モネの作品のタイトルをもじり、「印象だけで描いてるね」と言ったかどうかは知らないが、要は「踏まえるべき伝統的な形式を踏まえていない、邪道な作品」という否定的な意味で「印象派」と呼んだのが、モネを先駆者とする流れの呼称となっていったのである。
したがって、「印象派」と呼ばれるようになった一派には、上に紹介されているような「特徴」もあるけれど、それは先にそうしたものを「理想」と掲げて描いた一派があったということではなく、時代の要請として、そういう「絵画」が求められたと考えた方が良いだろう。
絵を買ったり見たりする方もそうだが、画家たちが「新古典派」の「伝統主義的な拘束」から自由になろうとして生まれてきた傾向のひとつが、結果として「印象派」と呼ばれるようになった、とそう考えるべきなのではないだろうか。
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で、ここまで、もっぱら「父ルノワール」のことを紹介してきたのは、もちろん「息子ルノワール」によって撮られた映画『大いなる幻影』を論じるための、下拵えとしてである。
つまり、私がここで論じたいのは、本作『大いなる幻影』のおける、「理想」であり「伝統」とは何なのか、ということなのだ。
○ ○ ○
本作『大いなる幻影』の「あらすじ」は、次のようなものである。
『第一次世界大戦の欧州戦線、ドイツ軍の捕虜となったフランス軍人、労働者のマレシャル中尉と貴族のド・ボアルデュー大尉は、ドイツ軍人ラウフェンシュタイン大尉や捕虜仲間でユダヤ人銀行家のローゼンタールなどと交流を深める。やがて祖国のために脱出を繰り返し、ボアルデューはラウフェンシュタインによって射殺され、マルシャルはローゼンタールとともにドイツ国内を逃げ回る。』
(Wikipedia「大いなる幻影」)
まず、肝心なのは、本作の舞台が「第一次世界大戦」だという点である。
作られたのが「第二次世界大戦」の前なのだから、これは当たり前だと言えば当たり前なのだが、問題は、その制作年が「1938年」だという点である。
世界史的にいえば「第二次世界大戦」とは、
『第二次世界大戦(だいにじせかいたいせん、英: World War II、略称:WWII)は、1939年(昭和14年)9月1日から1945年(昭和20年)9月2日まで約6年にわたって続いたドイツ・イタリア・日本などの日独伊三国同盟を中心とする枢軸国陣営と、イギリス・フランス・中華民国・アメリカ・ソビエト連邦などを中心とする連合国陣営との間で戦われた戦争である。』
(Wikipedia「第二次世界大戦」)
ということになるのだが、本作が作られた「2度目の世界大戦の前年」には、すでにナチスドイツによる「オーストリア併合」がなされていたのだ。
つまり、まだ「世界大戦」にはなってはいなかったものの、実質的な「戦争」は始まっており、「第一次世界大戦」を経験して、戦争にうんざりしていた人たちにとっては、「また戦争な巻き込まれるのかもしれない」というイヤな雲行きになっていた時期なのである。
『1938年3月、ナチス=ドイツが軍隊で威圧しオーストリア共和国の併合を強行した。ゲルマン国家の統合をドイツ人は歓迎したが、これを足場にドイツはズデーテン割譲、チェコスロヴァキア解体へと乗りだし、ヨーロッパ全土で戦争の危機が強まった。』
(サイト「世界の窓」・「オーストリア併合」より)
さて、このような時期に、本作のような「理想主義的な映画」が撮られたということの意味は大きい。
だがまたそれを、単純に「反戦映画」の一言で片づけてしまうのは、あまりにも安直だと、私にはそう思えてならないのだ。
本作の「ストーリー」を、もう少し詳しく紹介しよう。
第一次世界大戦の欧州戦線、ドイツ軍の捕虜となったフランス軍人、労働者のマレシャル中尉(ジャン・ギャバン)と貴族のド・ボアルデュー大尉(ピエール・フレネー)は、偵察飛行中に撃墜されて、ドイツ軍の捕虜になる。その際、彼らを撃墜して捕らえた部隊の指揮官だったのが、ドイツ貴族のラウフェンシュタイン大尉(エリッヒ・フォン・シュトロハイム)であった。
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彼は、戦前の上流社会のつながりから、ド・ボアルデュー大尉の親類のことも承知しており、言うなれば、戦争以前からの、同じ「貴族」階級に属する者として、国籍を超えた親近感を持っていたのだ。
だから、マレシャルとド・ボアルデューの二人が、捕虜として彼の部隊本部に連行されてきた際には、ラウフェンシュタインは、二人に対して極めて紳士的に、まるで旧知の友人を遇するかのように丁重に接し、およそ「敵軍の捕虜」という感じの扱いはしなかったのである。
無論、当時から「捕虜の人権」ということは言われていたのだけれど、それがそのまま「理想」どおりに行われていたとは言えず、ラウフェンシュタインの態度は、むしろ異例なものであり、彼の部下からしても「なんで、あそこまで?」というものだった。
その後すぐに、二人は「捕虜収容所」へ移送されて、他のフランス軍捕虜たちと一緒になり、ここで、ユダヤ人銀行家のローゼンタールたちとも合流する。
しかし、労働者階級のマレシャルだけではなく他の仲間も、貴族出身のド・ボアルデューには「一定の距離」を感じていた。ド・ボアルデューは、決して威張るわけではないから、皆が彼を嫌っていたというわけではないのだが、やはり「毛並みの違い」を感じないではいられなかったのだ。
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ともあれ、この映画での「描かれ方」を見るかぎり、この捕虜収容所の待遇も、私たちの今の常識からすると、十分に「紳士的」なものだったと言えよう。
もちろん、脱走しようなどとすれば射殺されることもあるけれど、規則に従ってさえいれば、祖国フランスから届いた支援物資もそのまま受け取れて、収容所のドイツ軍将校たちよりも良い食事ができたし、捕虜だけのクリスマスパーティーだって許されたのだ。
だからこそ、そんな待遇をうけた彼らが、いかにも「戦争映画」らしく、トンネルを掘っての脱走を試みようとするというのは、私には少々奇異に感じられもした。命に関わる危険を冒してまで逃げるよりは、この安全な捕虜収容所に止まって、戦争が終わるのを待っていた方が、よほど得策ではないのかと、そう思えたからである。
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ともあれ、彼らの脱走計画は、戦況の変化による「捕虜の移送」ということで、実現を見るには至らず、マレシャルとド・ボアルデュー、ローゼンタールの3人は、他の仲間と別れて、「将校専用収容所」へと送られることになる。そこは「古城」を改造した、古雅と呼んで良いような収容所であった。
そして、そんな収容所で所長として待っていたのが、かのラウフェンシュタイン大尉であった。彼は、戦闘で脊髄を痛めていたため、とうとう前線勤務からは外され、言うなれば「名誉職」である、捕虜収容所の所長という閑職にしりぞけられていたのである。
ラウフェンシュタイン大尉は、前回と変わらず、3人を紳士的に迎えて、優遇的な取り扱いさえした。
それは、同じ貴族であるド・ボアルデューへの「親近感」から出たもので、彼はある時、ド・ボアルデューに「私たちは、敵同士ではあれ、祖国のために命を捨てる覚悟のある職業軍人だ。だから、私はあなたを、心から尊敬している。しかし、世の中は、もう私たちのようなもの(貴族)を必要としなくなった。だから私は、本当なら戦場で死にたかった。それなのに、このように死にぞこなってしまい、生き恥を晒している。その点、貴方の場合はまだ、貴族の誇りを持って、祖国のために戦えるのだから、私はあなたが羨ましい」というような真情を吐露し、ド・ボアルデューもこれに「私だって同じことですよ。私たちの時代はすでに過ぎ去ったのです」と、ラウフェンシュタインに心からの共感を示し、彼を慰めるのであった。
(※ なお、本稿中のセリフは、すべて記憶によるものであり、その趣旨を書いているので、字幕のセリフに忠実なものではない)
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そんな折、マレシャルとローゼンタールは、またも収容所からの逃亡計画を進め、当初はド・ボアルデューも前回と同じく、これに参加するつもりでいた。
ところが、ある時、彼らの部屋を訪れたラウフェンシュタインから「捕虜の中には逃亡を試みる者もいるのだが、あなたの部下には、そんなことをさせないようにしていただきたい。そんなことになると、私は祖国への勤めが果たせませんし、あなたたちに対する監視や束縛も強化せざるを得ないのですが、できれば、そんなことをしたくはない。だから、あなたにはここで、その約束をしてほしいのです。同じ貴族として」と言われ、ド・ボアルデューは「わかりました。私は、逃亡を試みたりはしないとお約束しましょう。しかし、私はここでは、他の兵士たちの上官というわけではありませんから、彼らも分まで約束することまでは致しかねます」と答えるのであった。
そして、マレシャルらの逃亡計画が間近に迫った時、ド・ボアルデューはマレシャルに「私は逃亡には参加しない」と告げる。
驚くマレシャルに「この計画を成功させるには、看守たちの目を引きつける役が必要だから、私がそれを引き受けよう。君たちは、私に気兼ねすることなく逃げてくれ」と言って、申し訳なさがるマレシャルを説き伏せた。
そして、ついに決行となった夜、フランス人捕虜たちは、示し合わせて騒ぎを起こした結果、収容者全員を集めての、中庭での「全員点呼」が行われることになったのだが、その際、ド・ボアルデューだけが中庭に姿をあらわさず、それに気づいて看守たちが、すわ逃亡かと騒ぎ出した時に、ド・ボアルデューは、ひとり中庭を見下ろす高所に姿を見せて、殊更に縦笛を吹いて、看守たちを挑発するような態度を見せた。
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その姿に、あっけに取られるラウフェンシュタイン所長であったが、もちろん放置はできず、部下に捕まえろと指示するが、ド・ボアルデューは「止まれ、撃つぞ!」という警告の声を無視して、するすると高所へと逃げてゆき、彼が看守たちを引きつけている間に、マルシャルとローゼンタールは、無事脱出をを果たす。
だが、それを確認できないド・ボアルデューは、ラウフェンシュタインから「止まりなさい。でなければ、私も撃たざるを得ません」と警告されながらも、「止まるわけにはいきません。撃つのならお撃ちなさい」と言って、さらに逃走しようとしたため、ラウフェンシュタインはやむなく、ド・ボアルデューの脚を狙って撃ったのだが、距離があったために、その弾はド・ボアルデューの腹に当たってしまった。そして医務室の運ばれたド・ボアルデューは治療を受けたものの、それは致命的な深傷であった。
もちろん、ラウフェンシュタインは、ド・ボアルデューを撃たねばならなかったことを残念に思っていたし、彼の脚に当てられなかったことを悔やみ、そのことをベッドのド・ボアルデューにも謝罪したのだが、ド・ボアルデューは「いや、気にしないでください。私があなたと同じ立場だったなら、同じことをしましたから」と答えるのであった。
そして、そんな時に捕虜が2名逃げているという知らせをうけ、ラウフェンシュタインは、ド・ボアルデューがそのために、あんな振る舞いをしたのだと納得するのだが、すべては後の祭り。やがてド・ボアルデューは息を引き取り、ラウフェンシュタインは、彼に、荒地に建つ城では貴重な花を捧げて、その死を悼むのであった。
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その後、脱走したマルシャルとローゼンタールの二人は、徒歩で中立国のスイスを目指していたが、空腹と寒さと疲れのために、危険だとわかっていながらも、とある野中の民家の馬小屋に入り込んだ。だが案の定、その家の主婦に見つかってしまう。
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彼女エルザ(ディタ・パルロ)は、戦争で夫を失ったドイツ人寡婦で、幼い娘と二人暮らしであった。
しかし彼女は、疲れ果てている二人に食事を与えて、ケガで歩けなくなっていたローゼンタールの治療もしてやり、二人をフランス人の逃亡者だとわかっても、ドイツ軍に通報することはせず、そのまま彼らの面倒を見てやった。
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そして、やがてエルザとマルシャルの間に愛が芽生える。
だが、逃亡者である二人がこのままこの家に止まれば、いずれドイツ軍に見つかるしかなく、エルザたちに迷惑をかけることになるのがわかっていたから、マルシャルは「戦争が終わったら、必ず君たちを迎えに来る」と約束して、エルザたちに別れを告げて、再びローゼンタールとスイス領を目指して歩き出す。
まもなくスイス領というあたりまで来た時に、ローゼンタールがマルシャルに「本気で、あんな約束したのか?」と問い、マルシャルは「もちろんだ」と答える。
だが、ローゼンタールは「俺たちは、国へ帰っても、また軍人として働かなくてはならないし、戦争がすぐ終わるなんて保証はどこにもない。戦争が終わったら、なんていう期待は、大いなる幻影だよ」とそう言うのであった。
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そして、二人は、国境付近でドイツ兵に発見され、高みから背中を狙撃されそうになるものの、そのドイツ軍の分隊長は「撃つな。あそこはもうスイス領だ」と狙撃をやめさせ、二人は無事スイス領内へと入っていく。一一というところで、この物語は幕を閉じるのである。
○ ○ ○
つまり、タイトルの「大いなる幻影」というのは、第一義的には、ローゼンタールの言葉に示されたとおり、「戦争が終わる」などというのは、所詮「大いなる幻影」にすぎず、人間はいつまでたっても、愚かな戦争をくりかえすしかない愚かな存在だ、ということを語っていると、そう言えるだろう。
ということはだ、これは「二度目の世界大戦」への予感を抱えたルノアール監督が、「反戦平和」を訴えたと言うよりも、むしろ、人間に対する、ある種の「絶望」を語ったものと理解した方が正確なのではないだろうか。
またその意味で、「平和になったら、きっと君たち母娘を迎えに来る」と約束したマルシャルの言葉に象徴される「理想」や「希望」としての「平和」は、いつでも「大いなる幻影」でしかない、ということを語ったものだとさえ言っても、あながち過言ではないのではないか。「大いなる幻影」でしかないからこそ、そうした「理想や希望は、いつでも裏切られる」と。
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そして、こうした観点からすれば、ルノワール監督の父である画家ルノアールの目指したのは、「自由な表現」という「理想」だったのだけれども、それを抑圧していた「新古典派」の掲げた「伝統主義」というものもまた、彼らなりの「理想」に発したものだったのではなかったかと、そうも言えるのだ。
つまり、人間の歴史とは、いつでも、「理想」であったものが、いつしか「大いなる幻影」でしかなかったことが明らかになり、それを乗り越えようとして、また新たな「大いなる幻影」が現れてくるという、そんな虚しいくり返しなのだと、そのようにも考えられよう。
実際、本作においても、私にとっていちばん印象的だったのは、「マルシャルとエルザの悲恋」の部分ではなく、「ド・ボアルデューとラウフェンシュタインの、貴族的精神の黄昏」の部分であった。彼らが持っていた「理想」は、すでに過去のもの(大いなる幻影)となっていたのである。
そしてこのことは、何も「第二次世界大戦」を待つまでもなく、本作制作当時のヨーロッパの人たちには、すでに周知の事実であった。
人々にその事実を思い知らせたのは、「第一次世界大戦」において初めて登場した、毒ガス、機関銃、戦車といった「大量殺戮兵器」による、想像を絶した「大量死」である。
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それまでの「戦争」というのは、「鉄砲」や「大砲」がすでに登場していたとは言っても、まだまだ「人間同士のぶつかり合い」であったし、その意味で、まだ「騎士道精神」であるところの「正々堂々」の「理想」が、多少なりとも生き残っていた。
ところが、近代化による「大量殺戮兵器」の登場によって、兵士たち個々の「人間的な尊厳」は完全に奪われ、彼らを、大量生産される、原形もとどめないひき肉へと還元してしまった。
だからこそ、「第一次世界大戦」の終了後には「戦争法」が制定され、二度とあの悪夢のような戦争が起こらないようにと多くの人は願ったのだが、にもかかわらず、やはり「戦争」の悪夢は、人間をとらえて離さなかった。いや、人間の方が「戦争」を手放さなかったのである。
つまり、ド・ボアルデューとラウフェンシュタインの友情に象徴される、「貴族的精神」や「騎士道精神」といった「理想」は、「第一次世界大戦」の段階で、すでに息の根を止められていたのであり、彼らはまさに、時代錯誤な「死に損ない」としての「理想」を象徴していた、と言えるのである。
一一だから、本作を「反戦映画」と評するのは、根本的に間違いだと思うのだ。
ルノワール監督が描いたのは「反戦平和への願い」といった「理想」ではなく、むしろ、その「理想」というものが「大いなる幻影」だとしか思えない「現実」の時代を、「理想」への惜別の思いを込めて描いたのだと、そう理解すべきなのではないだろうか。
ルノワール監督を「人間の理想を描いた、理想主義的な監督」というように評する人もいるようだが、この表現も、まったく不十分だ。これでは、ルノワール監督が「理想を信じ、それを掲げた人」のように聞こえるからである。
本作を見ても分かるとおり、ルノワール監督の「理想主義」とは、「理想を信じる」ということではなく、「理想が理想でしかないことを悲しむ、現実主義的な理想家」だとでも評すべきなのではないだろうか。
実際、ルノワール監督は、本作の登場人物に酷似した、戦争体験のある人なのだ。
『第一次世界大戦には騎兵少尉として参戦し、後に偵察飛行隊のパイロットを務めたが、偵察中に片足を銃撃され、終生まで傷の痛みに悩まされていた。』
(Wikipedia「ジャン・ルノワール」)
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そして、そんなルノワール監督は「戦前のフランス映画」を代表する、良心的な作家だと見られていた。
『興行的には失敗が多いものの傑作と評価されるべき作品を発表していき、ルネ・クレール、ジャック・フェデー、ジュリアン・デュヴィヴィエ、マルセル・カルネとともに戦前期のフランス映画界を代表する映画監督となった。』
(Wikipedia「ジャン・ルノワール」)
だが、こうした「戦前期のフランス映画界を代表する映画監督」たちによる「お上品なフランス映画」は、戦後に巻き起こった「ヌーヴェル・ヴァーグ」の「リアリズム志向」によって、否定批判されることになる。
「理想」を描いていたはずのものが、かつての「新古典派」絵画と同じように、若者たちから「制度的抑圧者」だと告発される立場に立たされてしまったのだ。
「ヌーヴェル・ヴァーグ」たちからの批判に晒された時、彼ら「戦前期のフランス映画界を代表する映画監督」たちは、そこに、歴史の皮肉を見、ルノワール監督は、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の若者たちの中に、かつての「若き父」の姿を見たのではなかっただろうか。
(2024年6月10日)
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