井上光貞監訳 『日本書紀』 : 『日本書記』は 〈問題篇〉である。
書評:井上光貞監訳『日本書紀』(中公文庫)
本書・現代語訳版『日本書紀』は、どのような「動機」で手に取るのかによって、おのずと「楽しめるか否か」が変わります。
現代語訳なので、「文意」を読みとること自体は難しくありません。しかし、本書は「娯楽小説」ではありませんから、「歴史小説」や「時代小説」を読むようなつもりで読もうとすると、かなり「退屈な読み物」とならざるを得ない。
それは、全体として統一感のある『古事記』に比べても、「文学として読むのはつらい」という趣旨の断りを、監訳者自身が入れているとおりです。
つまり、本書は「娯楽作品」として楽しむ対象ではなく、「日本の歴史」を考える上での「基礎文献」と考えるべきであり、そういうものとして読めば、そこに書かれている「物語」が、「物語」そのものとして面白いか否かではなく、「なぜ、こんな物語になったのか」とか、『日本書紀』という「書物」は「なぜ、このような、まとまりを欠いた構成になったのか」といった、「謎」について「考察する楽しみ」も出てくるのです。
『日本書紀』という書物を大摑みに紹介すると、「神話」つまり「宗教的フィクション」である「神代」部分と、歴史的文献が比較的豊富に得られるようになって以降の時代を描いた「継体天皇から崇峻天皇まで」の「大筋で歴史的事実に沿った、政治的正史」部分、そしてその両者(完全なフィクションと政治的正史)をつなぐ「中間部分(神武天皇から武烈天皇まで)」との、三部構成になっています。
正確に言えば、「一続きの物語」を作るためには、そうならざるを得なかったのだと言えるでしょう。
(1)「神代」部分(フィクション)
(2)「神代=宗教的フィクション」と「政治的正史」をつなぐ、「半フィクション」(神武天皇から武烈天皇まで)
(3)歴史的文献を豊富に使用して書かれた「政治的正史」(継体天皇から崇峻天皇まで)
(1)「神代」部分は、「昔話」などでよく知られた「エピソード」が多いので、読みやすいだろうと思う人も多いでしょうが、じつは、そうではありません。このパートは、有名な「エピソード」の伝承的別バージョンをいくつも並べた、資料の網羅併記式となっており、かなり退屈です(要は、似たようなくり返しが多い)。
そのうえ、登場する神々の名前が、いずれも難しい漢字の当て字によるものですから、一読しても頭に入らないし、区別しづらい。また、そうした神々が大挙して登場し、それぞれの「異名」まで紹介されるのですから、ストーリー自体は素朴単純であっても、もともと耳慣れた有名な神様以外は、まったく頭に入ってこないのです。
(2)それに比べると、「中間部分」を構成する「神武天皇から武烈天皇まで」の部分は、名前のわかりやすさでずいぶん読みやすくなります。
しかし、このパートの前半は、特に「フィクションと歴史的事実を架橋する部分」なので、登場する天皇や関係者の多くが「フィクション」である蓋然性がきわめて高い上に、彼らによる「こうして蛮族を平定して、平和な統一国家を樹立しました」という「物語」は、多分に「政治的な自己正当化および権威付けのフィクション」でしかない場合が多いのです。なにしろ、初期天皇の事跡についての「文献」というものは、無いに等しいのですから、六世紀になってから「朝廷(天皇家)の歴史(正史)」を描こうとすれば「創作しないことには、一貫した歴史として、つながらない」からです。
したがって、この「中間部分」の多くは「ご都合主義的かつ一方的な、眉唾ものの歴史」だと言うべきでしょう。
(3)それでは、それ以降、内外の文献資料が豊富になってから書かれた部分は、「歴史的事実」を書いているのでしょうか。
無論、そうではありません。
「文献資料」というのは、それぞれが「著者の立場」の影響を受けており、大和朝廷の関係者が書いたものと、中国や朝鮮などの外国の歴史家たちが書いた「日本への言及」では、当然のごとく「温度差」があります。つまり、日本の側では「我々が、いちばん偉い」というノリで書きますし、外国の国々も「当然、我々の方が偉い」という書き方をしますから、そこには、事実に関しての「多くの齟齬」が見られます。
したがって、そうした「多くの矛盾をはらむ資料群」を元にして書かれた「第三部」とでも呼ぶべきこのパートは、「朝廷(天皇家)の歴史」として好都合な「歴史書(正史)」を作るための「恣意的解釈と記述、および編集(都合の良い部分を強調し、不都合な部分はカット)」という作為が加わります。
つまり、この部分で描かれた歴代天皇やその周辺重要人物たちの「実在」は確かであったとしても、「その事跡の、意味や価値」は必ずしも信用できるものではない、ということなのです。
さて、そんな「フィクションに現実を接ぎ穂して、虚実織り交ぜた半虚構の歴史資料」の中から、「より現実に近い歴史」を掘り出そうとするのが「歴史学」という学問であり、本書はそのための「資料」であり、「問題篇」に過ぎません。
したがって、本書に書かれていることをそのまま「鵜呑み」にするのは、『聖書』に書かれた「処女懐胎」とか「イエスの処刑3日目の復活と昇天」を信じるキリスト教徒と同じ、「非理性的宗教信者」だということになりますが、そうではない多くの知的読者にとっての『日本書紀』とは、「どこが事実で、どこがフィクションか」を考えるべき、歴史的資料に他ならない。
ですから、この「問題篇」だけを読んで「楽しもう」というのは、ほんらい筋違いなのだと考えるべきでしょう。
言い変えれば、本書を「楽しむ」ためには、他の資料を参照にしつつ、「真相とはなにか」を「考える」必要があるのです。
そして、その意味では、『日本書紀』は、私たち日本人が「今を生きる現実」に直結した、重要かつ興味深い問題(例えば、皇室・天皇制の問題など)を探るための、「第一歩」となるものなのです。
初出:2020年7月13日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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