宇佐美りん 『推し、燃ゆ』 : ごく当たり前の、今風「純文学」
書評:宇佐美りん『推し、燃ゆ』(河出書房新社→河出文庫)
ベストセラーになった、2020年刊行の芥川受賞作である。
私が買った単行本の古本は、初版刊行から約半年後の2021年3月の増刷分で、なんと「第43刷」。この本の帯には「47万部突破!」とあるのだが、ざっと調べてみると「80万部突破」という帯文もあった。300万部売り上げたという又吉直樹の『火花』には及ばないものの、純文学作品として破格のベストセラーなのは間違いのないであろう。
本書の帯背面には、下のような「紹介文&推薦文」が並ぶ。
だが、端的に言わせて貰えば、本作は、ごく当たり前な「芥川賞」受賞作であって、「推し」という今の「社会風俗」を扱っている点にしか「新しさ」はない。
それをはずせば、純文学作品では極めてオーソドックスな「悩める若き主人公の自意識を描いた作品」でしかない。
もちろん、オーソドックスな「悩める若き主人公の自意識を描いた作品」だというのは、相応の「作家的力量」はある、ということなのだが、言い換えれば、それ以上のものはない、ということでもある。したがって、この作家が、このまま歳をとって、それ相応の題材を扱い、それをこのレベルの作品に仕上げたところで、この作品のように「売れる」ことは金輪際ないだろう。
そして、この作品に「推薦文」を寄せた人たちも、私と大差のない作家(の力量)理解において、作者を「書ける新人」として推薦しているに過ぎないし、「売れる純文学」として応援しているに過ぎない。こういう「売れる作品」がたまに出てこないことには、長期低落傾向にある「今の日本の純文学(主流)=自意識の葛藤を描く小説」は、商業出版物としては、もたないからである。
しかし、推薦文を寄せたような「比較的売れている先輩」たち(とその周辺の文学関係者)が、声をそろえたところで、それだけでベストセラーになるほど、小説出版界の現状は甘いものではない。
本書が売れたのは、まず第一に、最先端の「若者風俗」である「推し(活)」を扱っていたからであり、その作品が「芥川賞」をとったからである。つまり「話題性」と「権威」の二つが重なって、売れたのであって、決して本作の「文学性」によって売れたのではないと、そう断じても良いだろう。
本作が描いているのは、「推し(対象であるアイドル)」を「推す」ことで、なんとか「生きる意味」を見出し、そこに「救い」を求めている、悩める女子高校生が主人公である。
彼女は、「軽い学習障害」を抱えているのだが、その原因は「家庭」にある。彼女に「知的障害」まであるわけではないのだが、家庭における「うまくいかなさ」において、その軽度の学習障害を乗り越える気力が起こらず、またそこを母親に責められることによって、負のスパイラルに陥っている。そして、そんなどん詰まりの彼女を精神的に救っているのが、彼女の「推し(対象)」である男性アイドルへの、過剰な「推し活」だ。
端的に言って、彼女の「推し活」は、「現実逃避」であり「依存」でしかない。中年女性が「宗教教祖」に入れ上げるのと、なんら違いはない。
「推し(対象)」自身とその周囲(業界)が捏造した「商業的幻想」ではあるにしろ、そうした「虚像」を鵜呑みにできるのは、彼女がそれを「信じたい」からであり、フラットな立場から「信じられる」と判断した上で、支持しているのではない。端的に言って、彼女は「逃避対象としての幻想」が欲しいのであって、生身の人間を応援したいのではないのだ。
本書が「売れた」主因は、間違いなく『推し、燃ゆ』というタイトルである。
まず、流行の社会風俗である「推し」というものを、わかりやすく前面に押し出したところが(商業的に)良かった。
多くの読者は「ああ、いま話題の推し活の話か。それを純文学者が書いているのなら、どんな掘り下げがあるのだろう」といった「期待」をするし、若い読者であれば、純文学者という権威が、自分たちの文化を「肯定的に描いてくれた(のだろう)」と思い、期待して読むことにしたのだろう。
本書が、ゆったりした字組で120ページほどの作品(つまり、長編というよりは中編)で、いかにも「読みやすそう」という印象を与えたのも良かっただろう。
また、このタイトルは、多くの読者に「誤解」を与える点でも、売上に有利に働いただろう。
本書タイトルの『推し、燃ゆ』というのは、第一義的には「推し(対象)が、炎上した(炎上被害に遭った)」という意味で、それは本書帯にも、
とあるとおりだ。
ただし、タイトルというのは、何も「一義的」である必要などない。むしろ、優れた文学作品のタイトルというものは、「内容説明」的に一義的なものではなく、しばしば象徴的「多義性」を含んだものだから、本書のタイトルを多義的に解釈したとしても、それは決して間違いではなく、むしろ文学読者らしい読み方だというべきだろう。
つまり、本書のタイトルは多義性に開かれていたのだけれど、実際には、それほどのものではなく、単に「内容紹介」的なものに止まっていたと理解するのが、正しいであろう。言い換えれば本書のタイトルに「推し(対象)が、炎上した(炎上被害に遭った)」という以上の意味を読み取ってしまった人は、善意による「深読みのしすぎ」をしてしまったのである。
具体的にいうと、『推し、燃ゆ』というタイトルには、次のような、読みが可能だ。
以上の四種類の意味を読み取ることが可能なのだが、本書のタイトルが直接的に意味しているのは、前述のとおり(1)であり、せいぜい(4)の意味を含むかもしれない、という程度で、(2)(3)の意味は含まないと断じていい。
では、「(2)(3)の意味は含まない」とはどういうことかというと、本書のタイトルが正しく意味しているのは、(1)やせいぜい(4)という「否定的」な意味であって、(2)や(3)のような「肯定的」な意味は含まない、ということである。
つまり、本書のタイトルだけを見て、「推し(活)」を肯定的に描いてくれているのだろうと期待した、特に若い読者は、その期待を裏切られることになる。なぜなら、主人公は、明らかにメンタルに不調を抱える人物であり、作者が手放しに主人公を肯定しているとは、とうてい感じられないからだ。
無論、作者は主人公を「否定」していないし、「批判」もしていない。言うなれば「救いのない彼女に、寄り添っている」とは言えるのかもしれないけれど、「推し活」をやっている人たちが、この小説を読んで、「純文学者という権威者」から「推し活」の意味を「積極的かつ肯定的に支持された」、言い換えれば「お墨付きを与えてもらえた」とは思わないだろう。
現に「推し活」をやっている人で、この作品に「救われる」のは、主人公と同じような「困難」を抱えており、「推し活」しないではいられない人たちに限定されるだろうし、それも主人公の気持ちが「わかる」というレベルの「共感」であって、作者がこの作品に込めた「現代社会の病理」的な意識にまで届くものではないだろう。
「わかるわかる」で売れるのは、本作が、飯田一史が『「若者の読書離れ」というウソ 中高生はどのくらい、どんな本を読んでいるのか』の中で挙げていた、いま「売れている本」の「三大ニーズ」と「四つの型」の要素の、一部に当てはまるところがあるからだ。
つまり、本書に当てはまるのは、「三大ニーズ」の(1)と(2)、「四つの型」の(1)の一部である、若者の「自意識(を描いている)」といった部分である。
したがって、本書に、「推し活」に対する「(積極的な)肯定」を期待した若い読者は裏切られる。
そして「たしかに、こういう依存的な人も大勢いるけれど、みんながそうだというわけではない。推し活が、現実逃避のためのものでしかないかのような、誤った印象を与えるこの作品は、明らかに一面的であり、偏見を助長するものでしかないから、その点で、この作品を肯定的に評価するわけにはいかない」ということにもなろう。
一方、前記のとおり「対象依存的な推し活」をやっている、本作主人公と似た人たちなら「わかるわかる」というレベルで本作を高く評価できるだろうし、それとは真逆に「なんで、推し活なんて馬鹿げたこと(高度資本主義的な罠)にハマるんだろうか」というような疑問を持っている、比較的年長の読者には「やっぱりなあ(若い子たちは、今の日本の展望のなさに病んでいるんだ)」という「わかりやすい意味付与」において、本作を受容し、その点で本作を肯定的に評価するだろう。朝井リョウの『未来の考古学者に見つけてほしい時代を見事に活写した傑作』という評価は、多分にこうした「社会心理(病理)学」的なものと言えるだろう。
だが、私としては、本作を単なる「感情肯定的なもの」としてありがたがる若い読者の評価も、「今の若者の困難を鋭く描いた作品」としてありがたがる年長世代の評価も、ともに「安易」なものとして、およそ肯定的に評価することはできない。
というのも、私が読んだ印象では、本作は「推し活」という新しい文化を扱ってはいるものの、書いていること自体は「何も新しいことがない」からだ。
言い換えれば、「推し活」という「目新しいガジェット」以外は、昔からよくある「自意識文学」を一歩も出ない、極めて「保守的」に無難な作品でしかないのだ。その範囲において、かなり手堅く、よく書けていたとしても、である。
私が本作を読んで、まず感じたのは「昔からこんな作品、よくあったよなあ」ということである。
例えば、ふた昔ほど前なら、この主人公は「家族の問題」を原因として「拒食症にとり憑かれた少女」として造形されたのではないだろうか。
実際、本作の中で主人公は、自身の「重さ」や「肉」というものに対する「わずらわしさ」を繰り返し表明している。だから、昔なら「拒食症」になるところが、今は「推し活」だというだけの違いである。
昔なら、食べることを拒否することで、その「肉体性」から離脱して「肉の汚れなき精神的存在」であろうとしたのだろうが、今の時代には、そんな「抽象的」な態度は採れない。端的に言って、自分がそんな「超越的なもの」になれるとは思えないから、それを他所に探して、それに憑依することで、自分の「肉体」であり「現実」から逃れようとする。
したがって、その「憑依対象」は、「肉体的存在」であってはならない。まさしく「アイドル(偶像)」という「抽象的な存在」でなければならず、本作の主人公が「推しを、もっと理解したい」と言いながら、その「推し」とは、自分の中で抽象された存在、つまり「イメージ=偶像」としての「推し」でしかなく、本当の意味での「生身の人間(肉)」ではないことに、明らかであろう。
このようなわけで私は、本作を「よくある自意識系純文学作品」だと思うし、すでに書いたとおり『中年女性が「宗教教祖」に入れ上げる』のを描いた作品と、(題材的には違っても)本質的には何も違わないと評価するのである。
本作が「ベストセラー」になったのは、タイトルに対する「誤解」が、その主たる原因であり、文学的に特に優れていたからというわけでないのは、「推薦文」を寄せた人たちとて、大差のない認識であろう。一見彼ら彼女らが、大絶賛しているように見えたとしても、彼ら彼女らにとって、本作がその読書人生における「オールタイムベスト50」に入ることは絶対にないだろうし、「ベスト100」に入ることもないだろう。それどころか10年もせぬうちに、この作品のことを忘れてしまっているのではないだろうか。
もちろん、何度も書いているように、本作が「それなりによく書けている若手作家の作品」だというのを、私とて否定するものではない。ただ、それだけのものだと言ってしまえば、それだけのものでしかないのだ。
したがって、本作を読んで「思っていたのとは違う」とか「面白くなかった」とか「読みにくかった」といった評価が、若い読者を中心に少なくないというのも、しごく当然のことだと言えるだろう。
本作は、「最先端の風俗」を扱った「オーソドックスな自意識系純文学」なのだから、もともとそういう「自意識系純文学」が好きな読者か、「推し活とかをやっている今の若者って、何を考えているんだろう?」ということで本書を読んでみたオジサンオバサン、あるいは、主人公と同様の「依存」傾向のある若い読者の「あるある」的受容以外では、本作を「文学」として、「傑作」だと評価する人は、さほど多くはないはずなのである。
(2023年11月29日)
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