人間は皆クソ野郎

生きてる人間は地球上のほかの生物から見ると、皆んな揃ってクソなのではないか。
迷惑で、残虐で、自分達のことだけしか考えていない。最高に自分勝手で最低な生き物であることは否定のしようがないはずだ。
意図的ではなくとも、生きていくために森林を伐採し自然を破壊して家を建て、動植物の命を頂き生命を保っている。
そんな我々が“綺麗”だとか“美しい”などと唱えているとしたら、それは最上に傲慢なことなのかもしれないと思うようになった。
まして自分のことを“高尚だ”“徳が高い”などと信じていることはこの上なく傲慢なのかもしれない。

清く、正しく、美しく。
そういったことは大勢から賞賛されて喜ばれ「素晴らしい」と褒められる。

だが実際に「真面目な人間ほど馬鹿を見る」ことはとても多い。
私たちは、大衆から否定されないために生きているのだろうか?
せっかくの命を、自分のしたいことをせずにただ時間を浪費していくことのどこに価値があるのだろう。
多くの生物たちにとって、意志せずとも害を与えてしまう存在である人間という生き物が、
“本来の自分”を全うせずして、どこに生きている価値があるのか。

ほとんどの宗教は欲を抑えることを提唱するが、そのすべての欲こそが、我々の生命を維持し今を繋いで来たはずだ。
そもそも人によって“善悪”や“得て不得手”はそれぞれ生まれた時から違っている。違っているからこそ色んなことを自然と補い合いこの世は成り立っている。
そもそも違った性質で“前提条件の異なる”人々の「思考」というものを統一しようとすることの不自然さ。


『本来』をわからなくさせていく知識や教育。
そういったものが人間を不自然な姿へ追いやった結果がこの現代なのだと思う。

真面目で堅実な人間がいつか報われると唱えられていることわざや言葉のなんと多いことだろう。

人間が生きるとは、意図せぬ間にも常にどこかの何かを犠牲にしながら成り立っているのだ。

こんなに恵まれた場所に生まれながら、何かに遠慮して『自身』を発揮できなかったり、体調や精神の不調を「仕方のないもの」として諦め「人間というカタチをしているだけの生物」に成り下がってはいないだろうか。
自らの人生を、心から『生きて』いるだろうか。

こちらの“体の手入れ”というものと出会い、取り組み始めてから見えて来たことがある。それは、
すべての不調の源は、何かしら自分の『本来』から外れているために起こっているということだ。

まずはいちばんそばにある“自身の肉体”を根源から蘇らせて『自分の人生』を生きることからしか、“本来の人生”はみえてこないように思う。

“健康に縁のある人生”を憧れで終わらせず自らと向き合うことを決めるから、自分自身のちからを生かせるように変わっていけるのだろう。

そんなことを思った9月の始まりである。

🔽“本来の自分自身”の視点とは?

🔽自分の内面と向き合う時の具体的なエピソード


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