天正8年(1580)12月21日は信長の使者が家康の陣所を訪問して遠江・高天神城の攻囲を慰労した日。この城は6年前に信長の援軍が間に合わず家康が武田勝頼に奪われた。降伏を申し出る城側に対して信長は家康に許すなと命令。援軍なく見殺しになれば武田の威信は失墜すると見越したものだった。
天正2年(1574)6月17日は武田勝頼が徳川方の小笠原氏助が守る遠江の高天神城を攻略した日。家康が待っていた信長の援軍が三河吉田城に到着したこの日に氏助が降伏し開城した。信長は畿内北陸の情勢により援軍が遅れたという。19日に遠江今切の渡で開城を知った信長は岐阜へ戻ることになる。
天正9年(1581)3月22日は家康が武田勝頼の属城高天神城を攻略した日。理由はどうあれ勝頼は援軍を送れず城将岡部元信らは討死し武田の威信は失墜。これは信長が家康に城兵の降伏を認めさせず勝頼が見殺しにした形を狙ったからとか。周りの人が離れていく流れを作られてしまうと辛いですよね。
天正8年(1580)12月21日は遠江・高天神城を囲む家康の陣所を信長からの慰労の使者が訪問した日。6年前に信長の援軍が間に合わず家康が奪われた城。信長は降伏を許すなと伝えたとか。武田勝頼は援軍を送れず落城し威信は失墜する。6年前に自分が家康の信頼を失いかけた仕返しに見えます。
天正2年(1574)6月17日、武田勝頼が徳川方の高天神城を攻略した日。高天神を制す者は遠州を制すという。後に、ここに援軍を送れず武田の威信が失墜し、味方の離反を招いたことが滅亡の決定打になったとも。父・信玄も落とせなかった城。偉大な父を持った重圧を想像すると切なくなります。