礫層の侵食が要害をつくる:高天神城の地形と地質part2【お城と地形&地質 其の九-2】
戦国時代の「城」は、様々な理由でそこに建っています。
高天神城は山頂の標高こそそこまで高くはありませんが、細長く入り組んだ独特の山容を上手に活用した堅牢な城でした。
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容易に敵を寄せ付けないそのような山容はどのようにして形成されたのでしょうか?
高天神城の地形の振り返り
高天神城の地形をもう1度確認しましょう。
上図の赤点線が概ねで描いた当時の高天神城の範囲です。
尾根の先端部等に曲輪が配置され、近づく敵を効果的に撃退したと思われます。
周囲の地形を見ても、尾根が細長く伸びている様子が特徴的な地形です。
このような地形が形成された背景には、もちろん地質が関係しています。
高天神城周辺の地質
ではさっそく高天神城周辺の地質図を確認しましょう。
高天神城はちょうど赤色(Og:小笠層群)と黄色(Ka:掛川層群)の境界付近で、ギリギリ赤色の地質の上に建っています。
それぞれの地質は以下の通り。
〇小笠層群
新生代更新世前~中期(約258万~13万年前)の礫層。
時代が新しいため固結してませんが礫を主体とするため侵食されにくく、急斜面を形成します。
〇掛川層群
新生代鮮新世~更新世前期(約360万~180万年前)と小笠層群よりはやや古いですが、まだ軟らかめの未固結~半固結の砂~泥です。
構成粒子が砂や泥であるため、小笠層群よりも侵食に弱い地層です。
地質が地形へ及ぼす影響
高天神城は未固結の礫層でできた山の上に建っています。
つまり特徴的な「細長い尾根」は礫層が原因で形成されたと考えられます。
では具体的にどのようにして現在の地形になったのか?
検証してみましょう。
5万分の1地質図幅「見付・掛塚」解説書(槇山ほか1957)によれば、小笠層の礫層は長径10~30cmの礫を主体とする地層です。
層準によって泥や砂を主とする層もあり、全体として扇状地堆積物の特徴を持っています。
つまり古めの段丘堆積物と言えます。
礫層は未固結であっても侵食に強いため、縁辺部は崖や急斜面になっています。
小笠層は時代が古いため段丘地形は侵食で失われ、上図のような急斜面の山地になっています。
これがさらに侵食して細長い尾根になったと考えられます。
この山がどのように侵食するか?見てみましょう。
①小さい礫から抜け落ちる
厳密には、はじめに礫と礫の間を埋める基質(砂や泥などの細粒分)が雨水等で流れ、周囲の基質がなくなると、抑えがなくなってポロリと抜け落ちます。
こんな感じです。
②抜け落ちた礫の周辺の基質が流出
礫が抜け落ちた場所はへこみになるため、水が集まりやすくなります。
ただでさえ礫が抜け落ちたため、周囲の基質が侵食され、へこみが拡大していきます。
基質の侵食が進みへこみが大きくなると、内部にあった礫の脚部が欠損し、不安定になっていきます。
上図の赤丸で囲った礫が抜け落ちるのは時間の問題でしょう。
③さらに抜け落ち、また基質が侵食
さらに礫が抜けると、また基質が侵食してへこみができます。
なお地面に近い礫は比較的安定しています。
④礫の抜け落ちと基質の侵食が繰り返され、山頂部がやせ細る
礫の抜け落ちと基質の侵食が繰り返され、山の侵食が進みます。
ただしこの時、地面に近い礫ほど安定しやすいため、山頂に向かって先細りするようなかたちで侵食が進みます。
どうでしょうか?
これが進んでいけば、高天神城のような細長い尾根ができるだろうと想像できると思います。
徳川と武田で決死の攻防が繰り返された高天神城。
その独特な山容のおかげで敵を寄せ付けない要害でしたが、それは上図のような「礫層の侵食」のおかげだったと思われます。
お読みいただき、ありがとうございました。
引用・参考文献
槇山次郎・坂本 亨(1952) 見付・掛塚.5萬分の1地質図幅説明書,地質調査所,43P.