武田信玄と高天神城
──武田信玄は高天神城を落せたか、落とせなかったか?
兼日の違わない首尾、各々(おのおの。皆々)の忠節に関しては、誠に感じ入りました。向後(今後)に於いては、日を追って入魂、存分にして下さい。弥々(いよいよ/ますます)戦功が専要(重要)です。当城主・小笠原が悃望(こんもう)しましたので、明日、国中(遠江国の中心=国府所在地の見付)へ陣(軍隊)を進め、5日以内に天竜川を越え、浜松に向けて出馬し、(元亀元年の徳川家康による同盟破棄から今日(元亀3年)までの)3ヶ年の鬱憤を散らす(はらす)つもりです。猶、(詳しくは、この書状を持って行った)山県昌景が話します。恐れながら、謹んで申し上げます。
元亀3年(1572年)10月21日 武田信玄(花押)
道紋(奥平定勝)
武田信玄の西上作戦の際、落せなかった城は、高天神城、久野城、堀江城の3城とされる。そして、四男・武田勝頼は、高天神城を落として「父・信玄越え」を果たし、名を上げたとされるが、・・・
また、武田信玄の遠江国侵攻ルートは、南下(青崩峠→浜松)とされてきたが、・・・
──たった1通の手紙が歴史認識を変えた!
①「当城主小笠原悃望」=当国高天神城の城主・小笠原氏助が降伏。
②武田信玄は南下ではなく西進(高天神城→国中→天竜川→浜松)。
武田信玄は南下ではなく、西進して、高天神城を落としていた!!!
現在の歴史学会は、「一次史料(手紙、日記)の重視」であり、たった1通の手紙が定説を崩してしまったことは珍しくはない。
★「元亀3年10月21日道紋宛武田信玄書状」の論点
①「不違兼日之首尾、各忠節」とは何の事か?
②「当城主小笠原」とは誰の事か?
③「悃望」の意味は「懇望」か、「降伏」か?
--------------------------------------------------------------------------------------①西進説:奥平定勝による奥三河の国衆達の調略。
南下説:奥平定勝による伊那谷(小笠原信嶺)~奥三河の国衆達の調略。
②西進説:当城主小笠原=こちらの国の高天神城の城主・小笠原氏助
南下説:当城主小笠原=そちらの国の伊那谷の松尾城の城主・小笠原信嶺
③西進説:「悃望」は城主が降伏する場面で使用される単語。
南下説:「悃望」は「懇望、切望」であって「降伏」とは限らない。
--------------------------------------------------------------------------------------【論争史】
新説(西進説)発表:柴裕之『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』2014
↓ 反論(旧説=南下説支持)
鴨川達夫「元亀年間の武田信玄」2012
https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/kiyo/22/kiyo0022-05.pdf
↓ 反論(新説=西進説支持)
・本多隆成「武田信玄の遠江侵攻経路 -鴨川説をめぐって-」2013
↓ 反論(旧説=南下説支持)
・鴨川達夫「武田信玄の「西上作戦」を研究する」2015
https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/kiyo/25/kiyo0025-01.pdf
↓ 反論(新説=西進説支持)
・本多隆成「徳川・武田両氏の攻防と二俣城」
↓ 反論(旧説=南下説支持)
・柴辻俊六「武田信玄の上洛路は青崩峠越えか駿河路か」2020
↓ 反論(新説=西進説支持)
・本多隆成「信玄の遠江侵攻経路 -柴辻俊六説批判-」2022
宛て先は奥三河の奥平定勝ですし、使者は奥三河担当の山県昌景ですから、手紙の内容は「そちらは順調のようですね。これまで以上によろしくお願いします。こちらも順調です」なんだろうけどね。
★浜松市博物館 テーマ展「家康伝承と浜松」
令和4年12月24日(土曜日)~令和5年9月24日(日曜日)
・期間限定展示「武田信玄書状」
令和5年4月11日(火曜日)~令和5年5月28日(日曜日)