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Ⅱ 遠江侵攻と武田氏 #3 信玄と三方ヶ原の合戦(2)

武田軍の侵攻ルート

1572年10月3日、武田信玄はついに駿河から遠江に向けて出馬。
山県昌景・秋山虎繁ら別動隊は信州伊那から青崩峠を越えて、三河・遠江へ進軍した。

信玄が山家三方衆にあてた書状を紹介する。

兼日の首尾に違わず、各の忠節誠に感じ入り存じ候。
向後においては、日を追って入魂せしむべき存分に候。
いよいよ戦功専要に候。
当城主小笠原悃望(こんもう)候間、明日国中へ陣を進め、五日の内に天竜川を越え浜松に向かい出馬し、三か年の鬱憤を散らすべく候。なお、山県三郎兵衛尉申すべく候。

(要約)
期日どおり、首尾よく物事が進み、各々の忠節誠に感謝している次第だ。
今後は、日を追って存分に入魂してほしい。ますます戦功が専要(重要)です。
当城主(高天神城)の小笠原(小笠原氏助?)が悃望(切望)したので、明日国中(国府の見附)へ陣を進め、5日のうちに天竜川を越え浜松に向かい出馬し、3か年の鬱憤を晴らすつもりです。なお、このことは山県昌景(書状を持っていく者)が話します。
※注:初心者が訳したものなので、間違っている箇所もあると思います。ご容赦ください。

翻訳のためネットを調べていると、『三か年の鬱憤』という言葉がよくキーワードとして出てくる。武田氏は、3年にわたり徳川家康に対して怒りを募らせていたんだ、と。

3年前といえば、ちょうど今川氏真の領土を取り合っていた時期。
兼ねてから取り決めていたことを家康側が破り、その後も敵対的な行動にでていたからだろう、と思われる。信玄の中で、「早く徳川家をつぶしたい…」と思っていたのだ。

実は信玄も、氏真の領土について、信玄側も一度家康との約束を破ったことがある。その時は信玄は謝罪の文を出し、手を引いた。

「自分は家康との盟約通りに動いたのに、家康は盟約を破っても知らぬ顔をして、周りを固めだしている。」という行動が信玄には許せなかったのだろう。だから、周囲の国から攻められないように調整を図り、家康に全精力を費やせる時を待ったのだ。そして、3年の期間を経て、それを実行するときが来た、ということだ。

この書状によると、信玄は高天神城から見附を経て、当初は天神川を超えて浜松に至ろうとしていた。
さらに駿河の田中城までは東海道を進軍し、そこからは遠江へ海岸線を進み、高天神城へ向かったと思われる。
牧之原市にある”石雲院”の書に、「10月10日、武田勝頼放火、伽藍・什物とも焼失」という記録が残っており、御前崎市の”白羽神社”の神主に宛てられた武田氏朱印状も残されているからである。
寺院に宛てた禁制は、”10月19日華厳院、28日可睡斎、11月某日妙音寺”となっている。

信玄の侵攻ルート。田中城→石雲院→白羽神社→高天神城。高天神城を訪れ、浜松に向かうルートを辿っている。

今回の家康領国への出兵は「3か年の鬱憤」を晴らすところにある。
それは、上杉氏との同盟を結んだことにある(2年前)、という説と
信玄の意向に反し、家康が氏真と和議を結び、北条氏と手を打って氏真を沼津に去らせたことを指している(3年前)、という説がある。

個人的には、両方ともが信玄の怒りを買う原因になったと思う。
上杉と手を結ぶことに対して放置していたら、挟み撃ちにあって、武田の立場が苦しくなる。当然このことも信玄を動かした動機になると思う。
3年前の氏真の対応から沸々と怒りを募らせていたのだろうな。

他方、山県・秋山の別動隊は青崩峠を越えて遠州に入り、佐久間から三河へ進軍した。
山家三方衆は既に服属しており、長篠に陣を張り、野田城を攻めて放火した。
野田城の守将は菅沼貞盈で、菅沼一族は武田氏についたが、貞盈は徳川方についていたのであった。
その後、二俣の地で合流した。

二俣、という地名がついたのは東海道と海岸沿いの二つの道が合流する地点だからその名がついたのかもしれない。二俣”の道にわかれる地”ということだろう。合流もしやすい土地だろうと思う。

東美濃の岩村城は秋山虎繁の別動隊により11月14日に攻略という説と、
岩村城主・遠山氏が自発的に従属した、という説がある。
奥平道紋宛て書状では、信玄は「浜松に向かう」とあったが、実際は二俣城に向かった、と朝倉義景宛ての文書で明らかになっている。
飯田城・天方城を落としたのはその過程だと思われるが、久野城は久野氏の抵抗激しく、落とすことは出来なかった。
11月7日付、穴山信君書状が匂坂(さぎざか)の陣中から出されているので天竜川沿いに北上して合代島に陣を構え、二俣城攻めにかかった。
これに山県・秋山の別動隊も合流した。

19日には「落城近日たるべきのこと」と落城が近いと言っているが、中根正照や青木貞治ら籠城衆の抵抗にてこずり、水の手を断つなどして、11月にようやく攻略。中根らは開城して、浜松へ去っていった。

ひたひたと迫る武田の軍。斥候の知らせを聞く家康はどのような気持ちでこの時期を過ごしたのだろう…。

どのような手を打って、対策を講じようとしていたのかが気になる。

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