Ⅱ 遠江侵攻と武田氏 #3 信玄と三方ヶ原の合戦(2)
武田軍の侵攻ルート
信玄が山家三方衆にあてた書状を紹介する。
(要約)
期日どおり、首尾よく物事が進み、各々の忠節誠に感謝している次第だ。
今後は、日を追って存分に入魂してほしい。ますます戦功が専要(重要)です。
当城主(高天神城)の小笠原(小笠原氏助?)が悃望(切望)したので、明日国中(国府の見附)へ陣を進め、5日のうちに天竜川を越え浜松に向かい出馬し、3か年の鬱憤を晴らすつもりです。なお、このことは山県昌景(書状を持っていく者)が話します。
※注:初心者が訳したものなので、間違っている箇所もあると思います。ご容赦ください。
翻訳のためネットを調べていると、『三か年の鬱憤』という言葉がよくキーワードとして出てくる。武田氏は、3年にわたり徳川家康に対して怒りを募らせていたんだ、と。
3年前といえば、ちょうど今川氏真の領土を取り合っていた時期。
兼ねてから取り決めていたことを家康側が破り、その後も敵対的な行動にでていたからだろう、と思われる。信玄の中で、「早く徳川家をつぶしたい…」と思っていたのだ。
実は信玄も、氏真の領土について、信玄側も一度家康との約束を破ったことがある。その時は信玄は謝罪の文を出し、手を引いた。
「自分は家康との盟約通りに動いたのに、家康は盟約を破っても知らぬ顔をして、周りを固めだしている。」という行動が信玄には許せなかったのだろう。だから、周囲の国から攻められないように調整を図り、家康に全精力を費やせる時を待ったのだ。そして、3年の期間を経て、それを実行するときが来た、ということだ。
信玄の侵攻ルート。田中城→石雲院→白羽神社→高天神城。高天神城を訪れ、浜松に向かうルートを辿っている。
個人的には、両方ともが信玄の怒りを買う原因になったと思う。
上杉と手を結ぶことに対して放置していたら、挟み撃ちにあって、武田の立場が苦しくなる。当然このことも信玄を動かした動機になると思う。
3年前の氏真の対応から沸々と怒りを募らせていたのだろうな。
二俣、という地名がついたのは東海道と海岸沿いの二つの道が合流する地点だからその名がついたのかもしれない。二俣”の道にわかれる地”ということだろう。合流もしやすい土地だろうと思う。
ひたひたと迫る武田の軍。斥候の知らせを聞く家康はどのような気持ちでこの時期を過ごしたのだろう…。
どのような手を打って、対策を講じようとしていたのかが気になる。
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