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太平洋に面した静岡県掛川市に、城がありました。
その名も「高天神城(たかてんじんじょう)」

今は、ありません。
なぜなら徳川家康の手によって破却されたから。
城跡が、その名残を留めているに過ぎない。

掛川駅の近くには有名な「掛川城」がありますが、
これは1994年に天守が再建されたもの。
こういう「いかにも城らしい城」とは違う。
地味な城です。

しかし戦国時代の日本の行方を左右したほどの
劇的な歴史が、この高天神城にあります。


本記事では、この城にまつわるお話を。

まず、地理的に確認しましょう。
掛川城が今の掛川駅のすぐ北のあたりの
「盆地」にあったのに対し、
高天神城は掛川駅の南の「山の中」にあった。
いわゆる「山城」です。

守りやすく、攻めにくい。
天然の要害で、乱世、戦国時代らしい山城。

「高天神を制したものは遠江を制す」
と言われたほど、戦略的には大事な城です。
急斜面が多く、通路以外から登るのは難しい。
この上から矢を射かけられたら、
防ぐのは難しいだろうなあ…と思わせる城。

さて、この城をめぐる戦いで
キーパーソンとなる戦国大名が三人います。

徳川家康、武田信玄、武田勝頼。

そう、この高天神城をめぐって、
徳川家と武田家がバチバチにやりあったんです。
いわば「戦国の覇者」を決める戦いが
この城で繰り広げられた、と言ってもいい。

もともとは今川家の城でした。

駿河・遠江(今の静岡県)を領有していた
今川家が強かった時代は、
この高天神城もそんなに重要ではない。
なぜなら、領地の中にあるからです。
最前線、国境なら重要ですが、
内側にあるなら、あまり意味はない。

ところが有名な「桶狭間の戦い」で、
今川義元は織田信長に討たれて死亡。
信長は徳川家康と同盟を結ぶ。
東の今川家・武田家に対する戦略を
家康に任せることにしました
(自分は西に上洛したいので)。

家康、その信長の期待に応え
三河(名古屋の東のあたり)から
どんどん東に進むんです。

浜名湖のある浜松から東へ、掛川へ。

ただ、今川家の領土を狙っていたのは
家康だけでは、ない。
武田信玄も狙っていた。
山の中の信玄、海が欲しい。
北の海に行くのは上杉謙信に阻まれたけれど、
南の海なら、義元亡きいまがチャンス!

ということで、家康と信玄は密約を結び、
大井川の西を家康、東を信玄が取ることにして、
武田家も今の静岡県に進出した
のでした。

徳川家と武田家。

遠江と駿河で
今川家の領土を分け取りにしたものの
次第に仲が悪くなっていきます。
武田信玄は東の北条氏と仲直りして
ついに兵を動かし、
徳川家の領土に攻めていきました。


これが、1572年のことです。

武田信玄はこの高天神城を攻めます。
「なんと攻めにくい城だ」と、
この城を無視、西に進んでいきます。
ところが信玄、なんと家康の居城である
浜松城までも無視して、西へと進もうとします。

「これを見逃しては、恥だ、屈辱だ!」

家康は出撃。…これが信玄のワナ。
「三方ヶ原」というところでボコボコにされて
命からがら逃げ帰ることになりました。

もし信玄が元気だったのなら、
家康はこれでジ・エンドだったでしょう。
しかし天運、彼に味方し(三方ヶ原だけに)、
信玄はこの陣中で病死します。

武田軍、撤退。武田勝頼が後を継ぎました。

さて、偉大な信玄の後を継いだ勝頼。

「俺はやれる! やれる男だ!」とばかりに
改めて、高天神城に攻めてきました。
その軍勢、およそ二万五千!
対する城兵、およそ千人。

城は家康、織田信長に救援を求めますが、
その援軍は間に合わず、落城します。
1574年、信玄が死んだ翌年のことです。

「あの父、信玄が攻め落とせなかった城を
俺は落としたぞ、どうだ、凄いだろ!」
勝頼は有頂天になった、とも言われます。

ところが、その後の展開は皆さんご存知の通り。
1575年の「長篠の戦い」によって
織田・徳川連合軍に、武田軍は敗北。
撤退することになります。
しかし、高天神城までは奪われませんでした。

…後付けで考えれば、この時点で
高天神城からも撤退していればよかった。
武田家の滅亡もなかったかもしれない。


というのも勝頼、長篠の戦いには負けたものの
まだまだ実力十分。やる気もあったんです。
あの信長も家康も、すぐに
武田家に攻め入るほどの余力はなかった。

そのうち、北の上杉謙信が死亡。

後継者の座をめぐり「御館の乱」が起き、
武田は北条氏と敵対することになります。
…これが、ケチのつき始めでした↓

「北条氏を敵に回したこと」が、
武田氏滅亡の序章だとすれば、
「高天神城の落城」は、
武田氏滅亡の直接の幕開け。

1580年、家康は「高天神六砦」と呼ばれる
六つの砦を北・東・南にぐるりと作り、
高天神城を取り囲みました。
城は孤立し、補給路が断たれた。
いわゆる兵糧攻め。城兵が飢えます。

そもそも高天神城は、勝頼の本拠地である
甲斐(山梨)からは遠すぎるのです。

維持することが、難しい。

翌年1581年、とても戦えない…と
降伏を申し出てきた高天神城。
さて、信長と家康はどうしたと思いますか?

この降伏の申し出を「黙殺」します。

その背後には、恐るべき計算がありました。
「東で北条氏と戦っている武田勝頼に
高天神城を助けに来る余力はない。
城を見殺しにする勝頼に対し、
最前線にいる家臣たちはどう思うだろうか?」

…そう、信長と家康はあえて
「勝頼に高天神城を見殺しにさせる」状況を作り
武田家の団結にひびを入れる作戦を取った
のです!

家康は力ずくでこの城を攻め落とします。
城兵の多くが、戦死しました。

勝頼、助けに行きたかったかもしれませんが
「兵を温存するため、援軍は無用でござる」
という城からの手紙もあり、見殺しに…。

「最前線で命を懸けて戦っているのに、
助けを出さないのか!」
「そんな主君のために命を懸けられるか!」

はい、信長と家康の思う壺。

この落城によって、武田氏の諸将は
疑心暗鬼に陥りました。

木曾義昌、穴山信君、小山田信茂…。
勝頼に対する謀反や反乱が相次ぎまして
あえなく1582年、武田氏滅亡。

人呼んで「高天神崩れ」です。

家康は高天神城を崩すことにより
勝頼の評判を崩すことにも成功したのでした。

まとめます。

武田信玄は「人は石垣、人は城」と言い
人間心理をまとめることで
戦国最強の武田軍を作り上げました。

武田勝頼は城や領土に固執し
人間心理をばらばらにすることで
武田家の滅亡を引き起こしました。

イケイケドンドンだけでは
人はついてこない、という好例。

無視すべきは無視する。
必要ないところは維持しない。
状況に応じて、良いタイミングで
すぱっと切り捨てる。取捨選択。


ただし、他の人が納得できる形で。
個人ならともかく、集団で活動している場合、
捨てることで何かが壊れることがあります。

「広げる」のは簡単。
「縮める」のは難しい…。


そんな歴史の教訓を、今は無き高天神城が
私たちに示してくれているように思うのです。

◆本記事は以前に書いた記事のリライトです。
『高天神崩れと取捨選択』↓

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