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岡崎から視る「どうする家康」#15織田の援軍に焦る場面をどう見るか

歴史を眺めるときに現代の考え方が投影されていることは良くあります。もちろん「どうする家康」でもドラマを現代から考えるのも面白い見方です。

岡崎編での松平と今川の関係

「岡崎編」では山岡荘八の連載時期と併せて、昭和20年代の反映を前稿で考えてみました。ご参照ください。

ここで、今川=米国 松平=日本という構図が、小説の中に投影されています。「今川勢の占領下で横暴にじっと耐えて独立の日を待つ岡崎」の姿は、山岡荘八の連載当時の昭和20年代の日本の姿そのものです。

浜松編では織田との「同盟」を考える

「浜松編」の主な構図は、「織田との同盟のもとで、武田とどう向き合うか」です。これも山岡荘八の小説でも冷戦体制下の日米安保が投影されている面があります。

構図としては「徳川=日本、織田=米国」で考えると、重要な示唆があるように思います。日本にとっては日米安保が最重要だけに、まず米国から見た感覚を見てみたいと思います。

大東亜戦争でのフィリピンと米国-I shall returnが意味するもの

米西戦争米比戦争(1902年)を経て、フィリピンは実質的には海外領土として米国が支配していました。フィリピン・コモンウェルス(独立準備政府)初代大統領マニュエル・ケソンの要請で米陸軍マッカーサー少将やアイゼンハワー少将(後大統領)が軍事顧問として派遣されています。

大東亜戦争開戦直後マッカーサーは、フィリピンで米比軍を統合した米極東陸軍の司令官でしたが、早々に水際撃滅作戦を断念。フィリピン脱出し、オーストラリアに逃れます。ここで有名なI shall returnです。当時日本側は笑いものにしていましたが、その後周知のとおりフィリピン奪還しています。

これは何を意味するのか。

米軍は、いったん退却して十分に態勢を整えて反撃する考え方です。占領されても後で奪還して「解放」したので、米国としてはフィリピンを結果として「守った」ことにはなりますフィリピンの犠牲は米国にとってはどうでも良いことになっています。だからI shall returnなのです。

冷戦期で日米間の認識の相違

冷戦期の日本はどうだったのか。「仮にソ連が北海道に侵攻し一部を短期限定的に占領」された場合でも独力として対処し、米国の援軍を待つというのが基本的な発想です。これは昭和50年代「基盤的防衛力構想」にも「限定的かつ小規模な侵略については、原則として独力で排除すること」とされています。

米軍としては、占領されても奪還すれば、日本との同盟を守ったことにはなります。しかし一時的とはいっても占領で失われた生命財産はどうなるのでしょうか奪還の戦闘で失われる生命財産はどうなるのでしょうか。米軍の発想と大きな落差があります。

米国から援軍が来るまでの犠牲は一体何ですか。
援軍はどれだけ待てば来ますか。
それまでは見殺しですか。

話を戦国時代に戻します。そうした「同盟」の観点で浜松編での注目場面をあくまで「岡崎から視た」「徳川目線」の感覚で挙げます

注目場面①姉川の戦いで同盟として充分協力したはず

姉川の戦い(元亀元年1570年滋賀県長浜市)は織田徳川連合軍と浅井朝倉連合軍の戦いです。同盟軍として参加しています。当初は浅井朝倉が優勢でしたが、徳川が朝倉に横から突撃(サイドアタック)で形勢逆転。酒井忠次・石川数正・本多忠勝・榊原康政・渡辺守綱などドラマにも出る主力メンバーの奮戦で朝倉軍は不意を突かれ、戦局が一変しています。

「岡崎から視る」と、信長は誰のおかげで姉川の戦いに勝てたと思っているのでしょうか。勘違いするなと文句言いたい。これは現代の私が言っているのではなく、江戸時代の徳川に都合良い誇張はあるにしても当時の岡崎の感情です。信長に一方的に支援を懇願する同盟ではありません。十分協力していることは強調したいと思います。

注目場面②二俣城攻防戦・高天神城攻防戦で援軍来ずに見殺し

二俣城は浜松市天竜区二俣にあります。後に信康の最期となる地です。

武田の浜松侵攻で二俣城攻防戦が行われています。(三方ヶ原の戦いの前哨戦)信長の援軍待ちで浜松城から出ずに見殺しです。信長の援軍も無い状態で数的に不利です。ここで決戦を回避するのは、軍事面からは合理的です。
ただし、援軍待ちでは地元の支持が得られなくなる政治的なリスクもあります。実際、地侍が武田に離反しています。側近井伊直政の地元にも近く示しがつきません。家臣団にも不満が出ます。威信の低下では今後の経営にマイナスですので家康もかなり焦ります。

高天神城攻防戦

高天神城は現在の静岡県掛川市。武田に包囲され籠城戦で抵抗しましたが家康は浜松から決戦を挑まず、信長の援軍を待っていました。しかし耐えきれず降伏。織田軍は吉田城(豊橋市)まで来ていました。

高天神城や二俣城を信長の援軍待ちの見殺しでいいのか。「どうする家康」ここは焦りながら苦しい場面です。

注目場面③三方ヶ原の戦いでの援軍は何しに来たのか

援軍が来たのは三方ヶ原の戦いです。徳川単独は数的に不利です。事情として動員が限定されます。①稲武足助の矢作川沿いの侵攻も想定され根拠地岡崎にも兵力必要。②豊川沿いに侵攻され吉田(豊橋)陥落すると岡崎浜松間の連絡遮断され致命的なので吉田にも兵力温存の事情あります。

ところが、織田は明智光秀・羽柴秀吉・柴田勝家の主力でなく、補欠部隊を送ってきました。これがしょぼい戦いぶり。信長包囲網の事情はあるにしても織田の援軍は徳川が裏切らないための「督戦隊」ではないか、と言う指摘が歴史学者からも出ています。「督戦隊」は歴史だけの単語ではなく、ウクライナでも出ている用語です。

「岡崎から視る」「徳川目線」だと「織田の援軍は何しに来たんだ!」と文句言いたいところです。家臣団にも「織田はあてにならない」とブーイングの嵐。これも現代に私が言っているのではなく、当時の岡崎の感情です。

注目場面④長篠にも援軍がなかなか来ない

有名な長篠の戦い。鉄砲が華々しいので注目されますが、家康長女亀姫の婿として奥平信昌が前哨戦となる長篠城で籠城します。

なお、二人とも関ケ原合戦後に岐阜に入ります。加納城です。

二俣城に続き、信長の本隊が援軍としてなかなか来ずにやきもき焦る場面です。援軍をめぐる焦りで「どうする家康」。長篠城を脱出して岡崎城に状況を報告し長篠城に戻る鳥居強右衛門。籠城でヘトヘトの奥平勢に武田に囚われた強右衛門が「援軍は必ずくる!」を伝える名場面があります。援軍は到着し、歴史に名高い長篠の合戦に至ります。

「援軍」は歴史ドラマの用語なのか

ここで、現代に話をもどします。「援軍」は歴史ドラマの話で出てくるだけの単語と思い込んでいませんでしょうか。これらは、尖閣や台湾危機はじめ日米同盟が問題になっている今だからこそ注目の場面なのです。「援軍」のありかたが問われています。

ストレートに言いましょう。尖閣や沖縄が「二俣城」や「高天神城」になっていいですか?米国の援軍待ちになっていませんか?「長篠城」の籠城の苦労は何ですか?

尖閣を「援軍待ち」でいいのか?

産経新聞の元旦企画で岸田総理が歴史学者の磯田道史氏と対談しています。政治家としてNHK向けにサービス精神で言ったのかもしれませんが、山岡荘八『徳川家康』を読んだそうです。

これらの場面をどう読んだのかドラマで「援軍」に焦るシーンはどう感じるか。気になるところです。

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