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どうする信長、信康事件と駿河進軍(大河ドラマ連動エッセイ)

 大河ドラマ「どうする家康」に連動して、織田信長のどうする?「どうする信長」を書いてみました。ドラマでは、家康嫡男信康と夫人の瀬名(築山殿)の最期が描かれていました。
 信康は1579年8月4日、岡崎城からの退去となり、同9月15日、二俣城(浜松市二俣)で自害しています。瀬名は、同年8月29日、小藪村(浜松市冨塚)で殺害されたとされています。ただ、事件の原因や経緯については、確かな史料がなく、謎が多い事件です。
 「当代記」では、「信康は信長公の婿といえども、父家康公の命令に常に違背し、信長公も軽んじていた。家臣に情なく行われ、非道の間かくのごとし。」と信康の処分の理由が書かれています。瀬名に関しては、1575年の謀反未遂の大岡弥四郎事件に関与したとの指摘が歴史研究家からされています。信康が武田に内通していた、という文書はありませんが、「母親の瀬名が武田に内通していた可能性がある」「信長を軽んじていた」「嫡男の地位を追われる」ということであれば、武田と内通していた可能性が考えられます。
 1575年5月、長篠の戦い(新城市)の後、徳川は三河(愛知県東部)から武田を駆逐し、遠江(静岡県西部)でも武田の城を落としていました。ただ、徳川だけでは、兵数で劣っており、武田本軍と決戦する力はありませんでした。同年9月、家康は小山城(静岡県吉田町)を包囲しますが、勝頼本軍が救援に来て、徳川軍は勝頼本軍との戦いは避け、退却します。
 1576年になると、8月、徳川勢が駿河の山西地域(静岡県西北部、藤枝市など)に進出します。勝頼は自ら軍を率い、対応しますが、勝頼の来襲に家康は遠江に退去し、合戦は起きませんでした。
 1577年9月、家康は武田方の高天神城(掛川市)を攻める態勢をとります。勝頼は駿河の田中城(藤枝市)まで進み、決戦を期しますが、ここでも家康は退去し、合戦は起きませんでした。家康は何度も勝頼本軍との決戦を避けています(ただし、長篠の戦いで、武田軍は重臣を始め、多くの歴戦の将兵を失っており、練度は低かったと考えられます)。1576年春以降は、毛利、本願寺、上杉の信長包囲網ができており、信長としては、大軍の援軍を家康に送ることは難しくなっていました。

 ところで、家康と信康の関係は、いつころから問題が生じたのでしょうか?信康に対する家康の警戒は、信康自害の一年前、1578年9月くらいから表面化しています。三河在住の家臣に岡崎城への出仕不要を告げています。9月以前に、信康と瀬名によるなんらかの動きがあったのだろうと思われます。信長は10月に三河に来る予定でした。信康の問題を家康と協議するためであった可能性がありますが、摂津(大阪府北部)で荒木村重の謀反が起きたため、摂津へ出陣し、三河へ来ることはありませんでした。
 信康事件を信康側の親武田の動きととらえると、信長としては、これを排除しなければなりません(家康が主導的に行うか否かはともかく)。なぜなら、信長は武田と和睦する考えはなく、滅ぼし、自領にする予定であったからです。1582年の武田攻めでわかるとおり、信長自らは安土城にいて、まず、武田攻めは岐阜にいる嫡男の信忠に任せます。信忠付きの武将らに甲斐や信濃は分け与えられるのですが、武田と和睦すれば、織田家の領地は広がりません。また、武田領を得ることで、関東そして東北に支配を拡げていくことができます。武田が織田の支配下に入るのであれば、別ですが、単なる和睦というのは信長としては飲みにくい話です。

 1578年夏、武田と徳川との軍事態勢はこれまで武田優位でしたが、転換点となる、徳川優位へ変わり始める出来事がありました。勝頼の上杉外交の変化とそれを原因とする武田と北条との同盟破綻です。
 同年6月、武田勝頼は、越後(新潟県)の上杉謙信死去後の後継の調停のため、越後入りしました。謙信の後継候補者は、北条家から養子入りした上杉景虎と謙信の甥の上杉景勝の二人がいました。もともとは、関東で交戦中で自ら動けない同盟相手の北条氏政から、上杉景虎を支援するように依頼されたことによりますが、勝頼は、景勝側の工作を受けて、景虎支援ではなく、景虎と景勝の和睦を仲介します。
 これを知った家康は、好機到来として、7月、遠江で武田方の高天神城の奪回に向け、同城近辺に付け城となる横須賀城(掛川市)を築城しました。この後、家康軍は駿河田中城(藤枝市)付近で、苅田(米を刈り取ること)を行い、大量の食糧を得ました。ただし、武田方の城を攻略することはありませんでした。これに先立ち、信長は6月25日「勝頼は飯山(長野県)にいると聞いている。あまり慎重にならなくてのよいのでは」と手紙で伝えています。家康が慎重なことにはいくつかの理由がありますが、信康の武田への内通、謀反への警戒があったのであれば、理解できます。そうであるのならば、このとき、信長は、信康側の動きについてまだ知らなかったと思われます。同年9月、上に書いたとおり、家康は、三河の家臣に信康の居城岡崎城への出仕不要を伝えます。

 明けて1579年初頭より、同盟関係にあった武田と北条の関係が悪化していきます。これは、上杉謙信の後継問題で、武田が北条家出身の上杉景虎(謙信の養子)を支持せず、上杉景勝(謙信の甥)を支持したため、また、上杉景勝から東上野(北条が支配を主張)を譲り受けたためでした。同年正月、北条から家康に太刀が送られており、このときから、徳川・織田と北条の対武田同盟の機運が生じました。北条は、北関東で、武田、結城、佐竹らに包囲されており、劣勢に立たされていました。武田領の駿河を北条と徳川で挟撃できれば、武田が北関東に出陣することの抑えになり、これを期待していました。

 北条の徳川・織田への接近は、信長と家康にとって非常に大きな朗報でした。信長は、1578年2月、播磨で別所長治が謀反、同年10月、摂津で荒木村重が謀反という状態で、東国に大軍を出すのは難しい状態でした。家康は、遠江の武田方の高天神城、小山城を攻略するチャンスです。北条軍が駿河と伊豆の国境に兵力を出せば、勝頼が遠江まで来て、補給を行ったり、後詰めで、家康と決戦を迫ることがむずかしくなります。
 このあと、北条と武田は、伊豆と駿河の国境付近でそれぞれ城を築城、あるいは普請強化し、対決姿勢を強めていきます。家康としては、北条との同盟成立を急ぎたいところでしたが、信康の立場や動きはどうだったのでしょうか。6月5日、家康は岡崎城へきて、信康と五徳の仲直りを行ったと記録されています。はたして、家康が行ったのは、夫婦仲の仲介だけだったでしょうか、実は、北条と同盟し、武田を挟撃する外交方針の説得だったのではないでしょうか。信康の答えはどうだったのでしょうか。家康は、7月16日、重臣の酒井忠次らを安土城へ派遣し、信長に信康を追放することを報告したとされます(前記「当代記」)。

 ここで、信康の処分についてどうする信長?です。「父家康公の命令に常に違背し、信長公も軽んじていた。家臣に情なく行われ、非道の間かくのごとし」の信康の処分をどうする?ですが、信長の答えは、「この旨を昨月、酒井忠次をもって信長に内証を得らるところ、さように父、臣下に見限られる上は、是非に及ばず。家康存分次第の由返答あり」とのこと。信長は、「家康の決定に任せる」との回答だったとされます。この後、家康は8月3日に、岡崎城へ行き、信康と面会、翌4日の信康の岡崎城退去となります。繰り返しになりますが、信康は同9月15日、二俣城で自害しています。瀬名は、同年8月29日、小藪村で殺害されたとされています。

 信康の退去後、家康は北条との交渉を進め、9月3日、家康は北条と同盟を結びます。北条は、織田との同盟の仲介を家康に依頼し、家康もこれを承諾、早くも同11日には、京都にいた信長に、北条から鷹が届けられます。
この流れを見ると、信康の存在が、織田・徳川と北条の対武田同盟の障害になっていたように見受けられますね。

 徳川・北条同盟の成立とともに、家康は、9月13日、北条との武田挟撃を明言し、浜松城を出陣します。一方、勝頼は、8月(信康処分後)、家康の駿河出陣準備の情報を聞き、同月20日、駿河沼津に出陣します。北条も9月17日、伊豆に出陣し、黄瀬川を挟んで、武田と対峙します。家康は18日、駿河本宮山(森町)に着陣します。そして、勝頼が北条との対峙で動けない状態の中、家康軍は用宗城(静岡市)を攻撃、落城させ、軍を国府である駿府に進めます。ここでまた、どうする信長?なのですが、家康の駿河進軍について、どういった指示を出していたのでしょうか?

 一方、北条と徳川に挟まれた勝頼は、北条との決戦を決意して、北条に対し、決戦の申し入れをしますが、断られます(北条は大きな犠牲が出るかもしれない決戦に慎重です)。北条に戦意がないとみた勝頼は、一転、西進し、徳川との決戦に舵を切ります。駿河での平地決戦の好機とみたのです。勝頼はここで、北条に対し、「徳川と決戦するのでここを引き払う。追撃するのであれば、覚悟してこい」と伝え、西進します。
 勝頼は田中城を経由して、駿府の徳川軍を西方向から攻撃しようとしていましたが、部下の長坂光堅が、北条の動きを見極めるべきと提言し、川成島(富士市)でいったん進軍を止めます。9月23日昼過ぎ、豪雨が降り始め、富士川の水位が上がりました。24日、北条軍の動きがないことを確認した勝頼は、増水した富士川を渡り、25日夜、駿府に入りました。一方、徳川軍は25日、武田の接近を知り、全軍がその日のうちに大井川を渡り、遠江へ帰っていました。勝頼が望んだ家康との決戦は行われませんでした。勝頼は運のなさを嘆いたと伝わっています。

 勝頼本軍はそのまま駿府にいました。北条と徳川は翌10月、勝頼本軍の挟撃を図りますが、北条は関東の情勢悪化のため、駿河攻めを取りやめます。掛川城まで来ていた家康軍は11月12日、横須賀城に入り、高天神城の周囲に砦を築きます。これを知った勝頼は、同月26日、高天神城に入り、補給を行います。横須賀城の徳川軍と対峙しますが、同月末、駿河へ退却し、12月9日、甲斐に帰りました。北条からの後詰めを警戒したのでしょう。
 徳川・北条同盟の効果は大きく、この後、勝頼は二度と遠江侵攻と高天神城の救援を行うことはできませんでした。高天神城は1581年3月、落城しますが、城兵の多くが餓死していたとされます。

 信康が武田と内通していたか否かは、判然としません。内通していたとすれば、対武田方針で、彼の追放と自害は必要なことだったといえます。仮に、武田と内通をしていなかったとしても、家康とすれば、背後の岡崎に不穏な動きがあれば、北条と協調し、東へ兵を進めるのは慎重にならざるを得ません。彼を軍中や背後に置いたままであれば、北条との同盟成立時期、協調の軍事行動、9月~11月の徳川の軍事行動のすべてが変わったものになったでしょう。信康の処分に対する信長の回答「家康の決定に任せる」は間違いではなかったと言えます。
 ただ、信長は、9月の勝頼の駿府急襲未遂については、「家康はまだまだ危うい」と思ったのかもしれません。信長は、家康の駿河進軍についてどこまで指示していたのでしょうか。どうする?ではなくで、何も言っていなかったのでしょうか。。
 家康の首が勝頼に取られていたら、、家康もついていました。ひょっとすると、信康の自害の9月15日の10日後に、家康も後を追っていたのかもしれないのですから。1581年、高天神城が落ちた際、信長は家康に対し、「兵を休ませろ。深追いするな」と手紙を送っています。このときは、家康の進軍を制止しています。二年前の勝頼の急襲未遂に懲りたのでしょうか。家康軍の油断も心配ですし、家康が独自で駿河で勢力範囲を拡大することも警戒していたのでしょう。
 



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