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高天神城を兵糧攻め

 天正8年(1580年)、徳川家康は、高天神城を取り巻く「高天神六砦」(小笠山砦、能ヶ坂砦、火ヶ峰砦、獅子ヶ鼻砦、中村砦、三井山砦)を完成させ、さらに多くの砦(現在26砦が発見済み)を築かせ、高天神城への補給路を断たった。いわゆる「兵糧攻め」である。

 高天神城から武田勝頼へ救援要請の書状が届けられたが、兵糧や援軍を送らなかった。この理由には、
・武田勝頼が織田信長の武勇を恐れたため(『信長公記』)
・駿河国東部を北条氏政に攻撃されており、そちらを重視したため
・織田信長との和睦を試みていたから(「甲江和与」)
・横田尹松が「高天神城は捨てるべき」と注進したから(『甲陽軍鑑』)
が考えられる。
 兵糧や援軍を送らなかった武田勝頼は、「天下の面目」を失った(『信長公記』)。

武田四郎、御武篇に恐れ、眼前に甲斐、信濃、駿河三ケ国にて、歴々の者、上下其の数を知らず、高天神にて干殺にさせ、後巻仕らず、天下の面目を失ひ侯。

『信長公記』

 翌・天正9年(1581年)1月3日、織田方に「武田勝頼出陣」の噂が届き、これに備えるべく織田信忠が清洲城に入った(『信長公記』)。しかし、武田勝頼が出陣した形跡はなく、これは誤報だったようである。
 翌1月4日、織田信長は、横須賀城の城番として、水野直盛、水野忠重、大野衆の3部隊を派遣した。

 正月三日、武田四郎勝頼、遠州高天神の城後巻として、甲斐、信濃一揆を催し、罷り出づるの由、風説に付きて、岐阜中将信忠卿、御馬を出だされ、尾州清洲の城に御居陣なり。
 正月四日、横須賀の城御番手として、水野監物、水野宗兵衛、大野衆、三首指し遣はさる。

『信長公記』(巻十四)天正九年辛巳

 岡部元信は、遠江国内の武田方の全城(高天神城、滝堺城、小山城の3ヶ城)の引き渡しを条件に、城兵の助命を嘆願する矢文を徳川陣へ射た。『どうする家康』の徳川家康は、織田信長に対応を相談せず、独断で焼却したが、実際の。徳川家康は、きちんと織田信長に報告し、結果、織田信長からの返事が、横須賀城の城番・水野宗兵衛忠重宛に届いた。以下に全文を載せる。まずは、要約。

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