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歴史・人物伝~大河コラム:大河ドラマ「どうする家康」武田勝頼はなぜ敗者となったのか

大河ドラマ「どうする家康」の9日放送分で、織田・徳川連合軍の甲州侵攻によって武田勝頼が討ち死に(実際には自害だった)するというシーンがありました。いわゆる天目山の戦いのことです。

勝頼は長篠の戦いで惨敗したわけですが、そこから一気に勢力が衰えていったというわけではなく、一時は領土を拡大するほど勢力を伸ばしました。長篠から滅亡までの7年間、何があったのでしょうか。


ドラマでは天目山の戦いの前年にあった高天神城の攻防について描かれていました。高天神城は、徳川家康にとって遠江東側の拠点でしたが、勝頼が攻め落として武田氏がくさびを打つ形になっていました。

高天神城が徳川軍の攻撃によって落城寸前に追い込まれたのにもかかわらず、勝頼は援軍を出しませんでした。一方の家康も降伏を認めず、攻め落とすことで勝頼の威厳を失墜させることができたのです。

この時の勝頼は、援軍を出さなかったというよりも、出せなかったのだと思われます。簡単に言えば「四面楚歌」の状況に追い込まれていたからでしょう。勝頼は家康だけを相手に戦えばいいわけではなかったのです。

この状況を引き起こした遠因は、天正6年(1578)の上杉謙信の突然死でした。謙信の死後、養子の二人(景勝と景虎)が後継者争いを引き起こします。景虎が北条氏政の弟だったことが、武田氏にも影響を及ぼすわけです。

武田氏と北条氏は同盟関係にあり、勝頼は景虎を支援していました。ところが景勝側が勝頼と密かに接触し、和睦を持ちかけてきます。上杉氏との長年の対立を解消したかった勝頼にとっては渡りに船でもありました。

ただ、「二股膏薬」のような態度を取った勝頼に対し、北条氏は景虎敗死をきっかけに同盟関係を断絶します。そればかりか、北条氏政は徳川家康と同盟を結び、武田氏を挟み撃ちにするという手段に出たのです。

勝頼は景勝の妻として妹を送り込んで同盟関係を強化しましたが、上杉氏も内乱の影響が残っているうえに、北陸で織田軍と激しい戦いをしており、勝頼に援軍を出せるような状況にはありませんでした。

その結果、武田氏は西の織田信長・徳川家康、東の北条氏政という大勢力の大名と敵対することになり、四面楚歌となってしまいます。そのなかで高天神城の落城があり、さらに一門衆の穴山梅雪、木曽義昌の造反が重なったのでした。

歴史に「if」はありえませんが、勝頼が景勝と和睦せず、景虎が後継者争いを制していたとしたら、武田・北条・上杉の3国同盟が強固なものとなり、歴史は変わっていた可能性が高かったと想像してしまいます。


「どうする家康」は、いよいよ本能寺の変に向かってカウントダウンが始まっていきます。明智光秀を主人公にした「麒麟がくる」とは一味違った本能寺の変の解釈、さらには神君伊賀越えというハイライトがどう描かれるか、楽しみですね。


★丁寧に歴史を追求した本格派の戦国WEBマガジン「戦国ヒストリー」にて、ユーザー投稿で執筆中。よかったらご覧ください。


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マイケルオズ@日々挑戦する還暦兄さん(フリーランスライター)
noteでは連載コラム、エッセイをほぼ毎日書いています。フリーランスのライターとして活動中ですが、お仕事が・・・ご支援よろしくお願いいたします!