天正12年(1584)12月25日は越中富山城主・佐々成政が浜松城の家康を訪れ秀吉との戦いの継続を懇願した日。小牧長久手の戦い後に織田信雄と家康は秀吉と和睦。成政は命がけで冬の北アルプスを踏破し家康へ徹底抗戦を促すも失敗。このあと三河吉良で鷹狩り中の信雄を訪ねるも説得に失敗した。
天正16年(1588)閏5月14日は肥後国人一揆の責任を問われた佐々成政が尼崎で切腹した日。信長の黒母衣衆筆頭として活躍し本能寺の変後は秀吉と対立した。秀吉に許された後に九州征伐の手柄で肥後一国を任された。しかし早急な検地などの影響で国人一揆が起き成政は自力で鎮圧できなかった。
天正15年(1587)8月7日は肥後で検地を強行した佐々成政が応じない隈部親永を攻撃した日。この後親永に応じた一揆に発展。翌年秀吉から責任を問われ成政は自害。検地は元々敵対していた成政と一揆勢力の一掃を図る秀吉の画策とも。逆らえない指示から自らを守るには一体どうすればいいのやら。
天正15年(1587)8月7日は肥後で検地を強行した佐々成政が応じない隈部親永の隈府城を攻撃した日。このあと国人や百姓が親永に応じて一斉に蜂起し成政の隈本城を攻撃する一揆に発展。自力で鎮められなくなった成政は秀吉に援軍を要請。翌年秀吉から責任を問われた成政は切腹を命じられる。
天正15年(1587)5月30日は九州平定した秀吉が佐々成政に肥後国一国を与えた日。肥後の国人衆は成政の家臣団に組み込まれた。成政が性急に検地を進めたため国人衆の不満が爆発し7月に蜂起。成政は鎮圧できず一時隈本城が包囲される事態に。秀吉に援軍を要請して12月にようやく鎮圧された。
天正12年(1584)12月25日は越中富山城主・佐々成政が浜松城の家康を訪れ秀吉との戦いの継続を懇願した日。小牧・長久手の戦いで家康と秀吉に和議が成立。成政は命がけで冬の北アルプスを踏破し家康へ再挙を促すが失敗。失意の中で帰国へ。自ら赴くとは世の流れに抗う覚悟の凄さは感じます。