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前田・佐々抗争を巡る~小矢部市と津幡町の史跡

1.両雄激突

1583年(天正11)、賤ケ岳の戦いにて柴田勝家を破り勝利した羽柴秀吉
実質的な織田信長の後継として権力を得た秀吉には、もう一人降さなければ男がいた。
徳川家康である。
中央にて小牧・長久手の戦いを主に激突する両雄とは別に、北陸にて秀吉VS家康の代理戦争が繰り広げられた。
それが、前田・佐々抗争である。
秀吉に付いた利家を許すことが出来ない成政は、「さらさら越え」を強行してまでも、家康と共に秀吉、利家討伐を誓う。

2.前田・佐々抗争

1584(天正12)、この頃より加賀の「前田利家」と越中の「佐々成政」、両者の関係に緊張が強まる。
前田利家が、佐々軍への備えを強化。
前田秀継を現在の津幡に七千石を与え「津幡城」に配する。
佐々成政も、前田軍に備えるため、「一乗寺城」を主に、「源氏ヶ峰城」「龍ヶ峰城」「松根城」を強化。
1584年(天正12)、佐々成政率いる佐々軍が、一乗寺城から前田軍の「朝日山城」を急襲するも、撃退される。
その後、戦いは、前田軍優位に進み、前田秀継により「龍ヶ峰城」も攻略。
戦況が芳しくない成政は、乾坤一擲、能登末森城の攻略に着手する。
末森城は、加賀能登において最細部の地にて、ここを奪取することにより、加賀と能登を分断する狙いがあった。
末森城を急襲した成政であったが、末森城の奥村永福が死守。
間もなく、前田利家本隊が駆けつけ、前田軍勝利として末森城の戦いは完結する。
しかし、敗走中に前田方の「鳥越城」を奪取し、成政は最低限の面目は保った。
その後、羽柴秀吉が成政征伐の本腰を上げ、成政は、本国防衛に専念するため「富山城」に帰還する。
この抗争の舞台である津幡町の観光スポットは、「津幡町の史跡「観光」を目的別で知りたい」にて確認するとよい。

3.富山の役

十万を超える軍勢にて富山城を完全包囲する秀吉。
秀吉本隊を現在の小杉に置き、「白鳥城」「安田城」の両城で富山城を睨む。
後方の北からは、上杉景勝率いる越後軍が攻撃に加わった。
間もなく、成政は降参。
ここに、富山の役が完結すると同時に、前田・佐々抗争も終わりを告げる。


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