佐々成政の辞世 戦国百人一首89
武将・佐々成政(さっさなりまさ/?-1588)は、尾張国春日井郡の在地豪族の家系出身である。
もともとは織田信長の縁戚筋となる織田信安に仕えていた佐々氏だったが、成政は1550年から織田信長を主君とし、頭角を現わしていった。
信長が世に踊り出ていった過程の多くの戦に出陣している。
このごろの厄妄想(やくもうそう)を入れ置きし鉄鉢袋今破るなり
ここに至るまで悩まされた災難災厄や苦しみを巡らせていた妄想の「入れ物」である鉄鉢袋つまり自分の肉体を今破り裂いて死んでいくのだ。
(*鉄鉢とは、托鉢僧が持つ鉄製の鉢、鉄でできた武将の兜の頭を覆う部分などの意味)
実はこの成政の辞世は、武将列伝『名将言行録』にある太田道灌の辞世、
きのふまでまくまうぞう(莫妄想)をいれおきし
へなむしふくろいま破りてむ
に非常によく似ている。
「へなむし袋」とは、肉体のことであるので、鉄鉢袋と似たもののようだ。
どうして道灌の辞世と似たものを作った(模倣だとも言われる)のだろう。死を前にして動揺のあまり辞世を考えられなかったのか、太田道灌の生きざまに自分を重ねるところがあったのだろうか。そこのところはよくわからない。
佐々成政でよく知られるエピソードとして、徳川家康を説得するために、富山から真冬の飛騨山脈・立山連峰を自ら踏破して浜松に赴いたという「さらさら越え」がある。
まずは彼の武将としての活躍を振り返った上で、なぜ彼が極寒を押して雪山を通って家康に会いに行ったのかを説明したい。
佐々成政は信長軍の中でもエリート武将だった。信長の親衛隊であり、馬廻衆から選抜された精鋭集団「黒母衣衆」の筆頭であった。
・1570年 姉川の戦い
・1570-1574年 長島一向一揆
・1575年 長篠の戦い
これらの戦いでは鉄砲隊を任されるなど、重要な任務を遂行するやり手の武将だったことは間違いない。
さらに
・1570~80年 石山合戦、
・1578年 有岡城の戦い
などでも活躍。
1582年には越中国守護となっている。
が、同年に主君・織田信長が本能寺の変に倒れた。その後に素早く中国地方から舞い戻り、信長の仇である明智光秀を打った羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)は、織田家臣団の中で発言力を増し、柴田勝家と対立。
秀吉台頭の事実は、佐々成政にとって面白いものではなかったろう。
秀吉に武将としてのセンスがあったとはいえ、成り上がり者に対する成政の気持ちにビターな感情が混ざっていたとしても不思議はない。
秀吉と勝家が戦った1583年の賤ヶ岳の戦いでは、成政は勝家側についた。
ただし、上杉景勝とにらみ合い、富山から動けなかったため、成政は叔父に600の兵を付けて援軍として柴田勝家に送っている。
ところが、勝家は敗走し自決してしまった。
敗軍についていた成政は、越中国こそ安堵されたが、娘を人質に出すこととなっている。
それでも成政は、翌年1584年に羽柴秀吉方と織田信雄・徳川家康方の間に起きた小牧・長久手の戦いで、秀吉につくと見せかけながら信雄と家康の連合軍方へと味方した。そして、能登にある秀吉方の前田利家の末森城を襲撃。しかし、金沢城から急ぎ駆けつけた利家軍によって背後から攻撃され、撃退されてしまった。
それでも成政は、体制を整え直した上で、もう一度攻撃を仕掛けようと計画していた。だがそんな時、なんと織田信雄が連合を組んでいた家康の了承もないまま秀吉と和睦してしまったのである。彼の本拠地の長島城を囲まれそうになったことに慌て、勝手に決めたのだ。
これでは「信長の息子である信雄のために」との理由で立ち上がった徳川家康の大義名分が成り立たない。戦う理由を失った家康はやむを得ず停戦している。
納得いかないのは佐々成政だ。
敗戦から体制を立て直し、再度秀吉攻めに向かおうとするその時に起きた和議である。家康にさえ相談もなかった信雄のフライング和睦には到底賛同できかねた。
実際、半年以上も膠着状態が続いていた小牧・長久手の戦いは、信雄・家康連合軍サイドにも勝つ可能性はあった。それをむざむざ和睦するなど負けを認めるようなものだった。悔しがる成政の気持ちは理解できる。
「あの成り上がり者秀吉に和睦など・・・」
成政はもう一度戦いたかった。
そのためには、領地に戻った家康に直談判するしかない。
それには、成政のいる富山から浜松城の家康の元へと向かうルートの選定が問題となる。東は越後の上杉景勝、西は越前の前田利家、そして南部の美濃は秀吉の勢力圏。これらを避けて浜松に向かうには、北アルプスの山を抜けて行くしか方法がない。
だからこそ彼は、無謀な冬山を越えを実行した。プロの登山家でも難渋するような極寒の中、標高2000mから3000mもある北アルプスのザラ峠を越えて浜松まで辿り着いたのだ(*成政が取った雪山ルートについては諸説あるが、冬山を越えて家康に会いにいったことは事実である)。
しかし、やっとの思いで辿り着いた浜松で、もう一度の戦を望む成政に対する家康からの返事は「ノー」。
さらに織田信雄や滝川一益にも同様の話を持ちかけるが、良い返事はなく、成政は失意のまま帰国せざるを得なかった。
これが「さらさら峠」と呼ばれる、佐々成政のエピソードである。
成政の信念や行動力を示す逸話ではあるが、その努力に対してなんと虚しい結果だったことだろう。
その後も成政は、徳川家康を押さえて天下人として権力を得た秀吉に対して、反抗的な姿勢を取り続けた。そのためついに1585年、秀吉のターゲットとなる。
秀吉は佐々成政征伐に立ち上がり、富山城を10万の兵で包囲した。
圧倒的な兵力により、成政は織田信雄の仲介で降伏。
命こそ助けられたが、領土のほとんどが没収となり、富山城も破却された。
大坂に移住させられた成政は、以降秀吉の御伽衆として仕え始めることになった。秀吉に仕える身となった彼の胸の内はいかほどのものだったろう。
それでも彼は1587年には九州征伐で武功を挙げ、肥後一国を与えられることにもなった。
同年、新たな国・肥後において、佐々成政は早く領国化してしまおうという焦りもあったのだろう、検地を無理に推し進めようとした。すると、地元の国人たちが反発するという肥後国人一揆が勃発。成政は、懸命に鎮圧を試みるがかなわない。秀吉に助けをもとめ、派遣された立花宗茂・高橋直次らの軍、さらに九州・四国の大名たちを総動員してようやく鎮圧することに成功した。
しかし、そもそもの一揆の原因は成政にあったのである。怒り心頭の秀吉により、成政の切腹が命じられてしまったのである。
切腹の際、成政は短刀を腹に突き立て横一文字に引いたあと、内臓を掴み出し、天井に投げつけたという。
その行動が事実ならば、彼の辞世の言葉に納得するかもしれない。
「なぜ俺が」
「なぜこの俺が秀吉などに切腹させられることになったのか」
そんな思いだったのだろうか。
エリート武将は成り上がり者に人生を狂わされ、勝負に負けたこと、思い通りにならない悔しい思いを身体の中にため込んでいた。
そしてその成り上がり者の命令により切腹することに我慢がならなかったのかもしれない。
「鉄鉢袋、今破りてん」
溜まりに溜まった不満や怒りを切腹によりあふれ出させたのだ。