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辞世の歌の魅力【第2回】 武士の生き様編

前回は特に夢というワードに焦点を当て、人生のはかなさを詠んだ歌を取り上げました。

今回は、その人のキャラクターがダイレクトにあらわれてる、そんな歌を取り上げたいと思います。


ちなみに第1回はこちら。読んでみてね。




四十九年一睡夢 一期栄華一盃酒 - 上杉謙信

唐突に短歌ではなく漢詩に飛びましたが、越後の竜こと上杉謙信です。

自ら軍神である毘沙門天の化身を名乗り、義を重んじ、軍を率いては戦国最強とも評価される武将です。

ただ一般のイメージに反し、内政においても豪雪地帯というハンデを克服するため、織物などの産業を奨励して商業に力を入れるなど、一定の評価を与えられるべき人です。

まあ豪雪地帯というハンデがでかすぎて、主な稼ぎが関東へ遠征して強奪するという方向になってしまうのはしょうがないんだけどさ。義を重んじるとは?


そんな上杉謙信の辞世ですが、
四十九年の人生も一夜の夢のように儚い。(関東管領の)上杉の家を継ぐ栄華を得たが、それも一杯の酒のような物だ
という意味合いです。

これを素直に詠むと、第1回に紹介する方がふさわしい気もするけど、そこは上杉謙信の最期が係わってきます。



謙信の死は病死であることは間違いないが、具体的な死因は特定できず諸説有りました。

突飛なところでは外国の記録に
「上杉景勝の叔母である謙信は、婦人病で亡くなった」
とされている物があるそうで、それが上杉謙信女性説の根拠の1つとされています。

私は上杉謙信女性説に対しては、一貫して面白ければ良いんだよという立場をとっています。

しかしながら現在ではそのほかの資料から、謙信はとんでもない大酒飲みとわかっています。
夕飯はろくに食べず、大量の酒と塩(もしくは塩っぱいつまみ)で済ませていたことがわかっており、死因は高血圧からくる脳卒中という説が有力なようです。

酒で自分の人生飲み干すような酒好きが、自身の栄華を一杯の酒に例えてるわけですよ。これは深いですよ。

彼が飲み干した栄華は、たった一杯の物足りない物だったのか?それとも何物にも代えられない甘露なる美味を持った大切な一杯だったのか?
そのあたりの解釈をするには、戦国武将としての生き様と同時に、酒飲みとしての彼の心意気も読み解かなければならないようです。


余談にはなりますが、新潟県は一人あたりの清酒消費量は全国最多の13.3リットル。2位の秋田県の9.3リットルと比較して実に1.34倍と、大差をつけて独走しています。

上杉謙信の魂は、現代の新潟にも間違いなく受け継がれています




この頃の 厄妄想を 入れ置きし 鉄鉢袋 今破るなり - 佐々成政


次にご紹介するのは佐々成政です。

肥後(現在の熊本県)において統治に大失敗して大規模な一気を誘発させてしまい、責任を追及され切腹して死にました。

熊本のあたりでは現在でも極悪人として知られていますし、一般的には無能な武将という評価が定着しているのではないでしょうか?

が、富山県東部においては現在でも非常に尊敬されている名君です。

富山県の旧大山町では現代でも佐々成正武者行列が行われています・・・というところまでは知っていたのですが、まさかのさらさら越え再現で、富山から立山連峰を超えて長野県大町までの武者行列をやっているとは。まあ本当に山越えまでするわけではないけどさ。


で、なんで富山県東部、特に名前を出した旧大山町で成政がこんなに尊敬されているかというと、当地に史跡として残される佐々堤に代表される水防の成果ですね。

佐々堤は常願寺川に接続する霞堤です


さらに富山における水防についてお話しておきましょう。

上記の常願寺川は、日本を代表する激流です。間違いなく皆さん、社会科の教科書でこの川の名前を見たことがあります。断言します(日本で初等教育を受けてない方はまた別ですが)

そういうわけで、この地においての水害は強烈です。

現代でも災害で流された5mを超える巨石が平野部でいくつも見られます。


現代においては堤防も整備されましたが、この堤防や砂防ダムがなければ、1年で富山平野は埋まってしまう程度に立山から土砂が流出しつづけています。

富山県は今でこそ1つの県ですが、元は現在の石川県と併せて1つの県でした。そこから富山が独立した理由は、富山区域の水防を行いたいが、議会で加賀や能登から選出の議員に反対され、できなかったからです。

それほどまでに富山を水害は苦しめていました。

だからこそ堤防が整備され、現在では日本国内でも最高ランクの対策がとられています。各地で堤防が決壊しまくった平成30年台風第21号の時でも、私は富山の実家を一切心配しませんでしたし、実際河川による被害はほぼありませんでした。

そもそも風は立山連峰が遮るからもともと台風の被害はそこまではないし、さらに立山の加護で地震すらほぼありません。


能登半島の地震で、新潟のが揺れひどかったりするし

もっとも上記台風の時は、海側から風が吹いてきて立山の加護の反対を突かれた形になったので、富山県民大混乱でしたが。俺、あの時結構多くの地元の友人の相談に乗ってた笑


かなり災害の話にずれましたが。佐々成政という人はその水害に対抗するため、陣頭指揮を執って、戦国時代に作られたとは思えないような高度な堤防を築き上げました。

ゆえに富山県東部においては、佐々成政という武将は現代においても名君として尊敬されています。


ちなみに上記で悪人と評価されていると書きましたが、戦国ゲーム等見ても戦闘面では比較的有能に描かれています。その辺がパブリックイメージかなと。

元々は柴田勝家の下、前田利家や不破光治とともに府中三人衆と呼ばれました。柴田勝家の死亡後も秀吉に一人抵抗し続けた、不器用な人というのが私の佐々成政に対する印象です。

辞世の句はわかりやすいですね。
最近の悪いことを袋(=自分の腹の中)に詰め込んで、自らの手で袋を破り捨て決着をつけよう
という感じでしょうか?

誤解されがちですが、切腹は本来、処刑方法ではありません。
自裁という言葉がありますが、すべての責任は自分にあり、自分が責任を取りましたし、これ以上何も自白できません。なので他の人には責任は一切ありませんという、あくまでも自ら処する責任の取り方です。

もちろん実際には死刑同然に命じられることもあったのでしょうが、表立って処刑方法となるのは成政の切腹から7年後、豊臣秀次が秀吉の命で切腹し、さらに秀次の家族や使用人に至るまで処刑された一件からの話です。

この辞世の歌は、まさにその切腹本来の意味をそのまま読んだだけとも言えます。

不器用な人間が不器用な生き方をしたあげくの、不器用な責任の取り方。
僕はこの不器用な人の、不器用な辞世の歌が、すごく好きですまあ不器用だから腹切る羽目に陥ってんだけどさ


どうせ余談が長くなったので、途中出てきたさらさら越えについても説明しましょう

佐々成政が富山城に立てこもり、羽柴秀吉に抗するも、多寡の差は覆せず。
最後の頼みと静岡にいる徳川家康の元へいき、徹底抗戦を訴えたという史実があります。

で、その静岡に行くのに、どうやら真冬の立山を超えて長野へ抜けたらしいというのが、長く唱えられている定説です。

ぶっちゃけ日本史的には大したことではないのですが、これが事実なら日本の山岳史が覆るレベルの壮挙です。

で、この冬の立山越えのことをさらさら超えと言います。

これをどのようなルートで行ったか、どのような方法をとったか等の検証は、専門ではない私ですら何度も見ている程度には行われています。

現在では冬季立山越えの実在は疑われていますが、家康のもとに行ったのは史実みたいなので、いろんなルートが候補として挙げられています。
が、その候補ルートは立山越えよりはましなだけで、もれなくみなヘルモードです。

もう少し器用に生きようよ。



秀吉の城攻めから城兵を守るために切腹した人の辞世の歌

中国地方において秀吉は城を大群で囲み、籠城していた城内は地獄絵図となりました。
籠城していた城主は開城および自身の切腹と引き換えに、城兵の助命を嘆願します。

大体の人はこれを読むと、備中高松城水攻めにおける清水宗治のことと思うと思いますが、鳥取城における三木の干殺しでの別所長治の行動とも一致します。

清水宗治に関しては美談として伝わりますが、別所長治の名は現代では一般的ではありません。

この差は何だったんでしょうか?



別所長治については、元来秀吉の傘下に入り行動していました。
その後、諸説はありますが、叔父にそそのかされ、あるいは足利義昭の切り崩しに乗り、秀吉に反旗を翻しています。

つまり自分で裏切った結果、凄惨な三木の干殺しに会い、城兵が味方の死体を食べて生き延びるという地獄絵図を経て、自らの首と引き換えに兵の助命を願い出たわけです。自分で書いてようやく理解したけど、思いのほか酷いな


清水宗治については、毛利輝元に従い籠城で秀吉を迎え撃つ。
しかし大規模な水攻めにあい孤立。

戦国屈指の猛将 吉川元春や戦国最強の知将 小早川隆景要するチート軍団毛利軍をして、手出しできず傍観しかできない状態。

そこで遠く離れた京で本能寺の変が発生し、信長が討ち死に。

そのことを知らせる毛利軍の忍者を偶然捉えて、秀吉もそのことを知るわけです。

後詰めは期待できず、毛利軍に攻められたら逆に秀吉が一巻の終わりという状況。

ここで毛利本体と交渉し、清水宗治の切腹と引き換えに備中高松城開放という交渉をまとめ上げるわけです。

実はこの後、両者の辞世から差を読み解くつもりだったけど、予想外にすでに差がありすぎた。



別所長治の辞世がこれです。

今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば

多くの命を助けるために死ぬのであればもはや恨みはない、というような意味でしょうか。

多分回りはお前に恨み骨髄だぞ・・・といいたいところだけど。比較のために好意的に見て、裏切ったことに過失がないとした目線で見ると、かなり悟り、そして諦めた辞世だなとは思います。


一方で清水宗治の辞世がこちら。

浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して

これを辞世として読む。私、本当にすごいことだと思います。

高松の苔に武士としての名を遺した、今こそこの世を去ろう。とでも訳しましょうか。
宗治の切腹の引き換えは高松城の開城ですが、同時に秀吉と毛利家の間で講和も結んでいます。
それは決して毛利家に有利なものではなかったのですが。
しかし清水宗治は自身の命と引き換えに、秀吉の大軍を追い返すことに成功しています。

取り方によってはこの辞世の歌は、秀吉に対する勝利宣言とも取れます。


また、現代に伝わる、この切腹の際の作法も見事でした。

身だしなみを整えたのちに、小舟に自身と兄、そして介錯人を乗せて秀吉の前に出ます。

同船した兄は、体が弱かったために家督を継げず、弟である宗治にすべてを押し付けて出家した形になりました。

小舟で秀吉の前に出た宗治は、そのまま戦場で舞を一刺し演じ、そののちに切腹して果てています。同船した兄は、その後を追い腹を切りました。

中国大返しを控え、焦るはずの秀吉は、しかし名将 清水宗治の切腹を最後まで堂々と見届けています。
またのちに小早川隆景に「清水宗治こそ武士の鑑」と言っています。


余談にはなりますが。
この時点で毛利本体に攻撃を受けたら秀吉は必死。
詰んでいるとまでは言えないまでも、詰めろの状態までは秀吉は追い込まれていました。

そこで(本人は意識していないでしょうが)清水宗治に勝利宣言と見事な切腹という刃をのど元に突き付けられ、秀吉としては焦りを隠し、堂々とそれを受け止めてほめたたえるしかなかったのでしょう。

もしそこで焦れば、宗治を軽んじれば、秀吉は猛攻を受けて死んでいたでしょうから。

もっとも怪物・秀吉のことなので、それらをすべて読み切ったうえで、余裕で受け止めた可能性も否定はできませんが。



まあ余談は置いといても、似た状況で諦めを辞世とした別所長治と、勝利宣言を辞世とした清水宗治。

まあ享年の時点での年齢で、清水宗治は別所長治のおよそ倍だったわけで。そりゃ差が出るとは思いますが。

まあそれでも両者の評価の差の原因は歴然だなと。



なんか余談がめちゃくちゃ長くなったんですけど。

次回第3回も、今回と似たようなテーマで紹介します。
次回紹介予定の歌の中には、私の思う最高の辞世と、そして最低の辞世が含まれています。

ぜひ読んでください。


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