徳川家康さま☘️をたどる#46☘️小牧・長久手の戦いの背景と影響
初筆 2023年 8月 5日 / 加筆修正 未
この記事は有料ですが、今とこは
実質最後まで無料で読めます🤗
有料部分の文章は
「ご覧いただきありがとうございました。」
のみですよ☺️✋
またこの記事の前半と同じ内容を音声で聞けます。
無料で聞ける:徳川家康さま☘️をたどる#46
⬇️
https://stand.fm/episodes/64cdffa82571f4183e4b4d2d
1 コンセプト
徳川家康さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
家康さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)
三河物語 / 大久保彦左衛門忠教さま著
信長公記 / 太田牛一さま著
2 前回からのつなぎ
前回は以下を話しました❗️
小牧・長久手の戦いの動機と大義名分は以下。
秀吉さま、動機:世論に天下人と押されていて、織田信雄さまが先に戦を仕掛けてきたのなら、織田家を無力にする絶好のチャンスのため
織田信雄さま、動機:織田家家臣の秀吉さまが織田家を差し置き天下を取ろうとしてるから。大義名分でもある。
家康さま、動機:秀吉さまが気に入らない。家康さまは織田家ご一門衆扱いなので、織田信雄さまに助力する大義名分あり
長久手戦では家康さまが圧倒的勝利だったが、秀吉さまが信雄さまを追い詰める作戦で信雄さまに不利な条件で和議。家康さまは戦う大義名分がなくなった
前回はこちら
⬇️
3 家康さまは事前に小牧長久手の戦いをとう捉えていたのか
話を小牧・長久手の戦い以前に戻します。
この戦いでの兵力比較をすると
羽柴軍兵力トータル10万人、
徳川・織田連合軍3万人、と言われています。
数字の上だけから見ると
家康さまにとって不利な戦です。
また上方で次期天下人と目されていた
秀吉さまには援軍が現れるかも知れません。
両軍の激突前段階で不参加だった有力大名が
この戦をどういった戦と考えるか、ですが、
表向きはあくまで、織田家のお家騒動なのです。
いや、この段階でも世間の情報に疎かったり
常識的にしかモノを捉えないような人は
小牧長久手の戦を織田家のお家騒動と信じて
疑わないがですが、まさか有力大名は
そんな捉え方はしないとは思います🤚
当然、秀吉さまも、家康さまも、
織田家のための戦ではなくて、
自分たちの戦と考えています。
秀吉さまは、徳川家・織田家を無力化するのが
真の目的。
では、家康さまはどうでしょうか❓
どの程度の目的があったのか、
一時史料ではまったくはっきりわかりません。
そしてこの時点の
家康さまの同盟関係をチェックします。
家康さまは小牧長久手の戦い以前に
日本全国の家康さまに同心する
大名や地方国衆を味方につけていました。
北条氏政さま:相模・このとき同盟状態
佐々成政さま:越中(富山県)元柴田勝家さま与力
長宗我部元親さま:四国ほぼ全て
雑賀衆・根来衆:紀伊の国衆・忍び系
これらの大名や国衆はもし本能寺の変がなかったら
次に信長さまに平定されていた勢力であり、
ここに家康さまが加わり、小牧長久手の戦い前に
秀吉包囲網とが形成されていました。
家康さまがこのような情勢を理解して
事前に同盟状態にしてたということは
小牧長久手の戦いを、けっこう
一気に天下を取る戦と考えたのかも知れません。
いや、単純に、兵力差がある状態ゆえに、
家康さまは同盟関係にある有力大名や
国衆がいるということを周囲に見せつけて、
さらに羽柴軍に勝手な援軍が現れないように
牽制する程度の目的だったかも知れません。
あるいはやってみて、どうなるか
少しずつ目的を軌道修正するつもりだったのかも。
4 もし家康さまが小牧長久手の戦いで天下を取るつもりだったのなら
小牧長久手の戦の前に、秀吉包囲網を作っておいた
家康さまが小牧長久手の戦いて一気に天下を
取るつもりだったとして、それは成功したでしょうか❓
ワタシほっしーの個人的な見解ですが
失敗してると思います。
いや場合によっては秀吉さまを
討ち取ることはできたかも知れません。
けどそれは単純に日本をまとめられる人物を
討ち取っただけで、家康さまが天下を治められるか
どうかは別の話です。
この時点で家康さまが天下を治められるという
世論はほぼ形成されてない状態。
この段階では、家康さまの知名度は低すぎます。
家康さまに、天下を治めてくれという
追い風はありません。
家康さまがこの段階ですべきことは
徳川家の軍事力を広く世間に提示すること
家康さまの統治能力を広く世間に提示すること
家康さまの領国での人気と集める尊敬を広く世間に提示すること
です。
そして少なくとも軍事力は、小牧長久手の戦いで
広く世間は提示することができました❗️
次期天下人と目されていた羽柴秀吉さまと戦をし
無勢にもかかわらず、大損害を与えることができた
家康さまだったのです。
これまでは織田軍ローカル内では
そこそこ、実力そして人間を評価されてきた
家康さまが、少なくとも軍事力、そして
織田信雄さまに頼られるという信頼について、
ついに全日本的に注目を集めることに
なったのが、家康さまにとっての、
小牧長久手の戦いの意義でした。
5 小牧長久手の戦い前後の徳川領国の大水
1584年・天正12年3月から11月まで続いた
小牧長久手の戦いの1年前、1583年・天正11年
家康さまの領国である東海地方一円で
「50年来の大水」と言われるほどの
大規模な大雨となり、さらに翌年、
小牧長久手の戦いに多くの人員が動員され
田畑が荒廃し、飢饉が発生していました。
小牧長久手の戦いのときに、徳川家は実は
秀吉さまとの戦を継続できる状態ではなく、
領国の立て直し必須状態でした。
織田信雄さまが家康さまに相談なしに
秀吉さまと和議を結んだおかげで
家康さまは助かった面もあります。
6 秀吉包囲網の総崩れ
織田信雄さまが秀吉さまと和議を結んでしまったため
家康さまも秀吉さまと和議を結びました。
そのせいで、秀吉包囲網を作っていた
大名・地方国衆のうち
長宗我部元親さま:四国ほぼ全て
雑賀衆・根来衆:紀伊の国衆・忍び系
佐々成政さま:越中(富山県)
は、それぞれの地域で孤立してしまった形になり、
それぞれ羽柴軍と戦となり、降伏してしまいました。
雑賀衆・根来衆・四国の長宗我部元親さまは
1585年・天正13年8月までに秀吉さまに降伏しました。
佐々成政さまは小牧長久手の戦いが終わる
1584年・天正12年11月に、越中から信州を越える
雪深いルートで浜松を訪問して、家康さまに
小牧長久手の戦いを継続するように直談判、
しかし家康さまはこれを拒否💦
佐々成政さまは1585年・天正13年8月の
富山の役で秀吉さまに降伏しました。
なお北条氏政さま・氏直さまは
地理的な優位もあり、まだ秀吉さまに
服従はしてない状況でした。
7 次回
小牧長久手の戦いはいったん講和条約が結ばれました。
しかしこの時点で、秀吉さまは家康さま・徳川家と
もう一戦交えて完全に屈服させるつもりでいました。
そして小牧長久手の翌々年の1586年・天正14年までに
秀吉さまは15万人の兵を動員し、
美濃大垣城にその兵を集結させます❗️❗️
家康さま、それ、またしてもピンチなんちゃうん❓💦
ここから先は
¥ 100
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?