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佐々成政が脳筋過ぎる件について。 「マイナー武将記」

こんばんは!実田成実です!今回もマイナー武将記です。今回の主役は…

 佐々成政です!(*・ω・人・ω・*)どうぞ読んでいって下さい!

尾張時代

佐々成宗の三男として、尾張国春日井郡比良城にて生まれた成政には兄に政次、孫介がいたが、成宗の次男・孫介が1556年9月27日の稲生の戦いに武者大将として出陣し奮戦するも29歳で討死、長男・政次も1560年の桶狭間の戦いで討死にするなど、兄弟が相次いで亡くなったため、1560年に父・成宗から家督を継ぎ、比良城主となりました。ちなみにこの時、成政は25歳でした。

本能寺

それからなんやかんやあり(書くの面倒いから飛ばします)本能寺の変、勃発。この時は、越中で上杉景勝を攻めており、あと少しで上杉景勝の本城である春日山城に迫る勢いでした。しかし、このクーデターによって、北陸方面の各将はそれぞれの領地に兵を引き上げた。それにより、上杉軍の反撃に遭い、成政はその防戦で身動きが取れなかった。一方、成政と同じく北陸方面軍に属する柴田勝家は光秀討伐を目論んでいたが、対峙していた毛利輝元と和睦して中国大返しによっていち早く畿内に戻った羽柴秀吉に明智光秀を討ち取られた。1583年に起きた賤ヶ岳の戦いでも勝家方に与する。しかし、成政は上杉景勝への備えのため越中を動けなかったため、叔父の佐々平左衛門が率いる兵600人を援軍として出すにとどまった。そして、柴田勝家は北ノ庄城に敗走する。勝家方だった成政は娘を人質に出して剃髪する事で秀吉に降伏し、越中一国を安堵されました。

脳筋の力

小牧・長久手の戦いの最中に秀吉と信雄との間で和議が成立して家康が停戦すると、真冬の飛騨山脈(北アルプス)を自ら徒歩で越えて浜松へと歩き、家康に再挙を促した。しかし家康の説得に失敗し、織田信雄や滝川一益からも快い返事は得られなかった中、再び越中へ帰国した。かわいそ(´・ω・`)がんばって真冬の北アルプス歩いて超えたのに…しかし反秀吉姿勢を崩さなかった。そして秀吉は成政討伐しに、10万の兵で城を囲み、成政は降伏した。成政は領地没収。そして妻子共に、大阪へ移住させられました。

最期

そのあと、1587年の九州征伐で成政は、功をあげ、肥後一国を与えられた。秀吉は早急な改革を慎むように指示したとも言われる。病を得ていたとも言われる成政は、検地を行おうとする。しかし、それに反発する隈部親永を中心とする国人が一揆を起こしました。これを自力で鎮めることができなかった成政は、謝罪のため大坂に出向いたが、秀吉に面会を拒否され幽閉される。秀吉は助命嘆願に耳を傾けず、加藤清正を使いとして、成政の切腹を命じました。

今回の記事はいかがだったでしょうか?また今度お会いしましょう!さようならー

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