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◆読書日記.《西郷信綱『古代人と夢』》

<2023年2月24日>

<概要>
夢にも固有の歴史があった。
夢を独自なうつつと信じていた「古代人」の文化と精神のなかに「忘れていた今」を想い起こす独創的な精神史。

(本書・表紙の内容紹介より引用)

<編著者略歴>
西郷信綱(さいごう のぶつな)
1916年生まれ。東京大学文学部卒業。専攻、古典学。
著書に、『国学の批判』(未来社)、『詩の発生』(未来社)、『万葉私記』(未来社)、『古事記注釈』全4巻(平凡社)、『梁塵秘抄』(ちくま文庫)、『源氏物語を読むために』(朝日文庫)などがある。

(本書・袖の著者略歴より引用)

 西郷信綱『古代人と夢』読了。

西郷信綱『古代人と夢』平凡社ライブラリ版

 日本の国文学者による、日本の中世以前の人々が「夢」というものをどう捉え、どう扱っていたのかという事を古典文学や文献から推測し「夢にも固有の歴史があった」という事を説明する内容。
 本書はもともと1972年に刊行され、それが1993年に平凡社ライブラリで復刊されたものである。

 本書の内容に入る前に、タイトルにある「夢」というテーマについても、「古代人」についても、少々注釈が必要と思われるので引用して説明しておこう。

 本書における「夢」の扱いは、著者によれば「古代人の夢経験そのものの分析ではなく、古代人の夢の性質や型、あるいは夢に対する彼らの態度に向けられる(P.27)」とある。その上で重要なのは――「古代人の夢を神話研究の一環として考察することにある(P.27)」という点であろう。
「夢」の研究でありながらも本書は「神話研究」の一環として書かれたものだという事なのである。

 そのため、本書の中間部分ではテーマが「夢」から大きく離れ(ているように見える)「第四章 黄泉の国と根の国」として『古事記』からオホナムヂ(大穴牟遅)の神話をメインに論じられる事となる。

 本書が「夢」をメインに論じられている内容だと考えて読み進めていると、読者はこの辺りの「脱線」に疑問しかわかないと思われるので注意が必要だ。

 また、本書で言う「古代人」の扱いについては、著者自身が「私は夢を信じた人々を、ここではかりに古代人と呼んでおく(P.28)」と言っているように、はっきりとした時代を区切っているわけではない。
 著者は本書で、それをおよそ「平安末期ないし鎌倉初期あたりを以て一区切りとし、話をそれ以前の時期に限りたい(P.24)」としているが、これはあくまで目安であって、何かのきっかけがあって急変したわけではない。
 その時代に残された文献の中に、夢の内容を問題にしない人びとが見られるようになったので、ひとまずこの区切りとしているわけである。
 読者は著者の言う「古代人」というものを、ひとまず平安後期以前の日本の人々のうち、夢をある種の宗教的で超越的な力があるものだと信じていた人々の事だと思って読むと良いだろう。

 著者によれば、日本の古典文学の中には非常に多くの「夢」に関する記述が存在するそうだが、著者が採り上げるまではそれに関する学術的な研究がほとんど行われていなかったらしい。
 ぼくとしては本書の内容は「神話」の部分や古典の部分については参考になったが、「夢」の扱いについては他の人類学などの研究で良く知られた知識が多く、少々物足りない印象を持ってしまったのも、これが50年以上前の初期研究に属するものだったからかもしれない。

 だが、本書の目的である、日本の「古代人」が夢に対して持っていた独自の捉え方を、文献を踏まえて説得的に示そうという試みは概ね成功しているのではないかとも思える。

◆◆◆

 著者の主張の特徴は、何と言っても古代人が「夢」を単なる人の「精神内の幻影」としてではなく「独自な現実(うつつ)」として捉えていたと言う点であろう。

 夢は人間が神々と交わる回路であり、そこにあらわれるのは他界からの信号だと考えていた。

本書P.22より引用

 著者が本書の中間部分でオホナムヂ神話について詳しく論じるのは、神話の世界も"含めて"古代人は他界を自らの生活と関係のないものではない、というふうに捉えているからだ、という事であった。

 何故なら、古代人の夢にはしばしば観音が現れ、神託を授け、神仏から啓示を与えられるといった話が出てくるからだ。

 古代人は、夢を「独自な現実(うつつ)」と捉えていた。
 だから、古代人はそういった神仏が、彼らの生活とは全く関係のない次元の話とは捉えていなかったという事である。「関係がある」と思っていたからこそ、彼らは観音からのお告げを授かるなどして、神仏と自分が交信しているという感覚を持っていたのだろう。

 神話の話と夢とは、そういう部分でつながる。

 では、なぜ古代人は夢で見たものを「独自な現実(うつつ)」と捉えていたかと言えば、彼らは「夢」というものを「自分の魂が、自分の身体を抜け出して見たもの」だと考えていたからである。

 例えば、平安期以前の日本人には、夢は「魂が見るもの」という考え方があったようだ。人は寝ると自分の中から魂が飛び出して行ってその世界の中のものを見る。
「自分」と「魂」は別物で、「私が魂を持つのではなく、私は魂の保管場所なのである」のだという。つまり「魂の他者性」という奴だ。

「魂の他者性」という考え方は、人類学では「soul animal」としてお馴染みのテーマかもしれない。

 例えばフレイザーの『金枝篇』の中でも「魂の本質」という節で詳しく説明されている。こちらの説明のほうが、本書の《魂の目》の考え方はイメージがしやすいかもしれない。

 一般に蛮人は、非動物界の生成過程を、その現象の内部もしくは背後で作用している生きた存在によって生み出されるものと仮定することで、理解している。そして生命という現象自体もまた、これと同じように理解されている。一匹の動物が生きて動いているのは、それを動かしている小さな生き物が、内部に存在するからに過ぎない、と蛮人は考える。ひとりの人間が生きて動いているのも、彼が、自分を動かしている小さな人間を内部に備えているからに過ぎないのだ。この動物の内部の動物、人間の内部の人間が、魂である。そして、動物や人間の活動が魂の存在によって解釈されるのと同じように、眠りや死といった休止は、魂の不在によって解釈される。つまり、眠りや忘我(トランス)は一時的な、死は永続的な、魂の不在状態なのである。

J・G・フレイザー『初版 金枝篇』(ちくま学芸文庫)P.178
J・G・フレイザー『初版 金枝篇』(ちくま学芸文庫)

 本書に出てくる「古代人」も、これと全く同じ感覚が生きていた時代の人として説明されているわけである。

 万葉集に夢を「伊目」「伊米」と記しているのからもわかるように、古くはユメといわずにイメといった。そのイメは「寐目」で、睡眠中の目のことである。こころみに聖書辞典をひくと、ヘブライ語の夢という語も「見る」という語根を有すとあり、その他にも例は多いのではないかと思う。
(略)
 とにかく夢は寝て見るものであり、日本語のイメという語は、いみじくもそのことをいいあらわしている。「取る」が「手」の動詞化であるのと同じく、「見る」は「目」の動詞化である。かくて寝ているとき夢を見るのは魂であり、比喩的にはイメは《魂の目》(ピンダロス)だということにもなろう。荘子には夢に栩栩然として胡蝶となったというが、蝶はすなわち魂を象徴する。蝶や蜂や鳥は、いわゆるsoul-animalの代表的なもの。おそらくこれら動物のひらひらとした動きに、出で入る息のリズムを思わせるものがあるからであろう。

本書P.49-50より引用

※上の文中の「寐目(イメ)」の「寐」は寝る、眠るの意。

 要は、これはある種の身体と魂の二元論的な感覚が元になっているのである。

 ちなみに、この「soul animal」の代表例である蝶や蜂や鳥は『金枝篇』でも、セレベス島の例やマルケサス諸島の人びと、あるいは南米のトナマ族の例として紹介されている。

 本書でも「soul animal」の例として『後拾遺集』の和泉式部の和歌を例にとっている。

物思へば沢の蛍も我が身よりあくがれ出づるたまかとぞ見る」

 あまりにも有名な一首だが、いちおう説明するとこれは和泉式部が男に忘れられ、貴船神社を参詣していたところ、川で蛍の飛び交うところを目撃した際に詠んだ作品であり、恋わずらいに悩んでいた式部が川に飛び交う蛍の灯を見て「あの光は悩み続ける自分から出て行って浮遊する自分のたましいのようだ」と感じたという意味である。

 この歌に出てくる「soul animal」は、螢であった。この歌にも「人間の魂は身体と分離しうるものだ」という当時の人間の心身二元論的な感覚が流れているわけである。

 この歌は後拾遺集によれば「御かへし」として、貴船神社から男の声で和泉式部に「奥山にたぎりて落つる瀧つ瀬のたまちるばかりものな思ひそ」と返歌が返ってくる。
 これは、奥山にあって激しく落ちて砕け散る瀧の水のように、心を千々に乱して恋わずらいをしてはいけませんよ、という意味なのだそうだ。

 が、それにしてもこれはいったい誰が言った返歌なのか?どこから聞こえてきた声で、いったい「男の声」とは誰だったのだろうか?

 これは本書の著者によれば「神詠」であり、後拾遺集にある「貴船まいり」とは参籠によって神より神詠を得たという事だと説明する。「とすれば、「玉ちるばかり物な思いそ」の神詠は夢中の告げとして得られたものに相違あるまい(P.56)」と著者は言う。
 つまり、式部は貴船神社に何をしに来たのかと言えば、恋わずらいを解消したいと祈請する目的で、神様からの神告を得るため貴船神社に籠りにきていたのである。

 本書によれば、平安期の女性と言うのは、このように人里離れた聖なる場所に閉じ籠って、祭式的に夢のお告げを得るために参籠する事があったそうで、これは更級日記などにも同じような場面が描かれている。

 この時代「夢」は神仏や他界と繋がっているという考えがここにも見えるわけだ。そのために、和泉式部も夢の中で聞こえた声に一定の信頼を持ったのである。

 夢の中で見ているものというのは、自分の物理的身体から飛び出た魂が目撃した世界の話として「別の私が見た、別の世界の話」であるからこそ「違った形での現実(うつつ)」であると、古代人は信じた。

 そのため「夢のお告げ」というのは、ある時期まではある一定の信を得られたのである。それが、本書の冒頭にも解説されているように、夢のお告げが公的な政策の決定の材料となった理由でもあった。

 例えば『日本書紀』の崇神紀には王位を継ぐべき人間を夢見の内容で決めたという記述があると紹介している。古代の王位継承では「長子が家督を継ぐ」といったルールがなく、そのために代替わりの際はそのたびに揉めていたのだという。
 崇神紀に記されているのはその王位継承の方法のひとつであったようだが、その他にも後白河天皇の即位や天武天皇が壬申の乱にふみきった契機となったのも「夢見」によってであったと言われる。
 これら「公的な夢」は、私生活で見た夢というよりかは、平安時代の女性らが行った参籠と同じように、沐浴をして祈願する事で得られるといった儀式的な夢であった。だからこそ、そういった夢は公的な信用を得たものであった。

 本書で紹介されている「夢を信じた人びと=古代人」の持っていた「夢の精神史」は、夢の内容が公的なものから私的なものへ移行していく歴史であった。

『日本書紀』や『今昔物語』から時代は下がり、『蜻蛉日記』や『更級日記』の時代になるにつれ、夢は公的なものから個人の運命を左右するようになっていったのだ。

 夢は、跡継ぎを決めるためや政治的吉凶を占うといった公的なものから、個人の悩み事や恋わずらい、子供の未来を占うためといった私的なものに移っていく。

 その後、霊的な夢は中世あたりから徐々に迷信として斥けられ、科学的思考が確立してからはそれが「夢見る人自身の精神的行為」と捉えられるようになる。
 それが、本書に書かれた「夢を信じた人びと=古代人」の時代の後の夢の精神史となる。

 そして、科学的思考が確立してから「精神的行為」として夢の研究を行ったのがフロイトであった。

 ちなみに……上の和泉式部の見た貴船神社からのお告げを精神分析的に見てみれば、彼女の夢はフロイトのいう「子供の夢」の様にストレートに願望を充足させるような内容になっているのではないかと思える。
 つまり貴船神社からの返歌は、彼女の恋わずらいを慰めてくれる何者かに守られたい願望を、ストレートに反映しているのではないかとも思うのだ。

 そして本書の例として挙げられている「古代人」の夢というものは、しばしばこのような解釈の余地のないようなストレートな願望を反映したものが見られる。
 解釈が難しい夢というのも例はあるが、それをどう解釈するかと言うのは、しばしば「夢解き」の人に依頼して吉凶を判断してもらったと言われている。
 この際、どんな夢も悪いほうに解釈するとそれはたちまち悪い予兆となり、良い様に解釈してもらえばそれは吉夢になるという。こういう話からも、いまと比べて当時は随分と「夢」と「現実」との距離が近かったという感覚が伺えるのではないだろうか。

 また、そういう感覚があるからこそ、本書で紹介されているロジェ・カイヨワの言「人間は信じやすく、影響されやすく、また虚栄心もあるので、自分が神的予言の対象になっていると思うと悪い気はしない。夢判断を理解するには、この点を忘れない事が必要だ(P.222)」という指摘は、当時の人の感覚を巧く説明しているのではないかとも思える。
 何事にも、神仏のご加護を得たと確信をもって臨むのと、そうでないとでは個人の行動も変わってくるのだから。

 因みに、もちろん先日レビューもあげたフロイト『夢と夢解釈』は、ぼく的には本書を読むための下準備だと思って読んだのである。

 われわれが科学以前と呼んでいる時代においては、人は夢の説明について困惑しなかった。覚醒後想起されたとき、夢は人びとにとって人間以上に高度な、悪魔的な、神々しいもろもろの権力が発する慈悲深いお告げか、あるいは逆に敵対的なお告げであった。自然科学的思考方式の発展とともに、これらすべての含蓄ある神話は、心理学に置き換えられた。そして今日では、教養人のなかではごく少数者しか、夢とは夢見る人自身の精神的行為であることに疑念をもつ人はいない。

ジークムント・フロイト『夢と夢解釈』講談社学術文庫版 P.16

◆◆◆

 上にも説明した通り「古代人=夢を信じていた人びと」の時代には、眠っている時や失神している時などは、一時的に魂が身体から分離している状態で、人が死んだ場合は身体は朽ちていくが、魂は分離して滅びない、という死生観を人びとは持っていた。
 そこには、人びとの生活しているこの現実が、夢を通して「あの世」や「神界」など他の世界とも繋がっているという観念が存在している。

 だから、夢の中で神仏が出てきたら、それもそれで「違った形での現実(うつつ)」であるし、人が死んだ時は「永続的に魂が身体から離れている状態」だから、その魂が行く場所として「黄泉の国」がある。

 死者の国としての「黄泉の国」は、『古事記』のオホナムヂ(大穴牟遅)が訪れた「根の国」と入り口が同じ「黄泉平良坂(ヨモツヒラサカ)」にある言われる。黄泉の国も根の国も同じく地下にある世界で、その入り口の「黄泉平良坂」は単なる坂道ではなく、著者によれば「地下へと通じる洞窟を暗示している(P.114)」のである。

 本書によれば、洞窟は神話的な空間と繋がっている。

 かつての「古代人」の時代、洞窟は三つの用があったと言われている。

 一つ目は、住居としての洞窟であった。

 二つ目は、墳墓としての洞窟である。かつて洞窟は死者を葬るための場所として使われていたというのである。この辺りが「黄泉平良坂=洞窟」が死者の国である「黄泉の国」に繋がっている場所だという神話のイメージと繋がっているわけである。

 そして三つ目の用は「聖所」としての洞窟であった、という。かつて山の洞窟などは修行者が籠る場所として利用されていたと言われている。

 例えば一遍絵伝では「予州浮穴郡に菅生の岩屋といふ所に参籠し給ふ。此所は観音権現の霊地也。仙人練行の古跡なり」と伝えているそうで、修行僧もその聖地に籠って修行していた。

『北野天神縁起』によれば日蔵上人は金峯山の岩屋に籠って修行した折りに頓死したが、十三日目にして蘇ったとされている。死んでいた間の日蔵は三界・六道を経って蘇ったというそうで、つまりはこの聖所も「黄泉の国」と繋がるイメージがある。

 他にも昔から仏教ではしばしば洞窟を参籠の場所として僧侶が修行をしていた。
 有名な例は空海が室戸崎の洞窟で修行していた際、明星が飛来し空海の口に飛び込んできて悟りを開いたというのがある。これは隔離状態で断食修行している人間に起こりがちな生理現象としての幻覚であろう(身も蓋もない言い方で申しわけないが)。あるいは、宗教体験としてありがちなトランス状態で見た幻であったとも言えるかもしれない。

 洞窟に籠って修行するとしばしばこの手の幻影を見るもので、例えば奈良時代の修験道の僧・泰澄も越知山の岩屋で修行していた折りに神仏からお告げを得る霊夢を見たという例があった。

 このように「夢」‐「洞窟」‐「死者の国」といったものはそれぞれイメージ上で重なってくるわけである。

「死」も「眠り」も、古代人からすれば同じ「離魂」のイメージとして相同的なものであり、仮死状態で見たヴィジョンも、トランス状態に入って見た幻覚も、睡眠中に見る夢も、彼らにとっては「違った形での現実(うつつ)」として、同じものなのである。

◆◆◆

 さて、ここからは若干、本書の内容とは離れてしまうかもしれないが、前回に引き続いて「夢」をテーマに読んできたので、ついでに思想・哲学分野での「夢」の扱いについても少しだけ触れておこうと思う。

「夢の利用」というと、普通は古代の人びとからすれば「夢占い」や「神仏の夢告げ」など、宗教的なものや神秘主義的なものとして利用されるイメージが強いかもしれないが、ものの本によれば、古代ギリシアでは必ずしもそうではなかったのだという。

 例えば、かのアリストテレスは夢というものは理性を損ねるものだと考えていたそうだし、ヘラクレイトスも夢見る人はロゴスの世界から逸脱して自分の内に籠るものだと考えていたのだという。

 つまり、古代ギリシアの哲学者の考え方では、夢は非理性的なもので「論理に反するものだ」というふうに見る伝統があったのだそうだ。狂気や酩酊のように人を惑わす幻覚こそが、古代ギリシアの哲学者らが考えた「夢」であった。

 が、それが時代が下ってキリスト教が支配する時代になると、夢は他の地域と同じく神のお告げや死者の伝言などといった意味合いが出てくるようになる。

 キリスト教絵画でも有名な画題としてたびたび採り上げられる聖母マリアの『受胎告知』などはまさに典型的な「夢のお告げ」だ。
 他にもジョルジュ・ド・ラ・トゥールの画いた有名な『聖ヨセフの夢』も天使からお告げを受ける聖ヨセフの夢を書いているものだし、『創世記』でヤコブが見た天へと伸びる梯子の夢も神告げの一種だった。

レオナルド・ダ・ヴィンチ『受胎告知』

 この頃になると夢は、神との交信が行える天と地との架け橋的な意味合いを持つようになるのである。

 このように、ヨーロッパでは古代ギリシアとキリスト教時代では、夢の価値というのは正反対であったのである。
 ただ、この場合はギリシアの哲人のほうが異常に論理的に過ぎるのであって、むしろキリスト教時代の人びとの「夢」観のほうが、世界標準的であったと言えるだろう。

 ある意味、古代ギリシアからの哲学としての「夢」の捉え方というのは「夢という、現実と見まごうような"まぼろし"を、どう考えれば良いのか?」という点にあるのではないかとぼくは思っている。

 古代ギリシアの哲学者は、それを理性を惑わせる非理性的なまぼろしとして斥けた。

 ぼくとしては近代に至って「夢」はまた別の観点が発生し始めたと思うのだが、それは「夢」というテーマを考える時、ぼくはしばしばデカルトを思い出すからである。

 夢を見ている間、人間は自分が夢を見ている事を自覚していない。
 では――「あなたは自分が今、眠っていて夢を見ている状態か、そうでないのかどうやって判断するのか?」

 夢と現実をどう区別すればいいのか?というのはいわゆる有名なデカルトの「夢の仮説」と言うものだった。この発想が、いわゆる有名な方法的懐疑につながっていく。

 自分の感覚と言うものはしばしば自分を騙す。
 視覚であり、聴覚であり、記憶でさえも、夢の中では確かに働かない。われわれはしばしば夢の中の世界に順応して、現実の世界とはかけはなれた状況を受け入れてしまっている。

 このように、あらゆる経験が夢や幻覚といったもので騙されるとしたら、自分はいったい何を信じればいいのか?

 では、この世の中で「確実なもの」とはいったい何なのか?――という事から「絶対疑い得ない確実なものとは何か?」を考えたのがデカルトだったと言える。

 デカルトが光学の研究を行っていた事は有名だが、彼は光の屈折によって物の見え方が変化する事を知っていたのだ。

「見えているもの」は、そのままの姿でそこにあるわけではない。この世界は、見えているままに存在しているものではない。――それは、彼の「論理的な考え方」によって導き出された懐疑であった。

 何もかも、全てを疑おうと思えば何もかも疑う事ができる。例えば「自分は本当は存在しないのではないか?」なんていう事さえ疑う事ができるかもしれない――が、「存在しないのではないか?」と疑っている自分自身の存在だけは否定しようがない。

 ここからデカルトは「我思う故に我あり」という考えに行きつく。斯くて昔は「別の私=《魂の目》」であった「古代人の夢」が、近代に至ってデカルト的な近代的自我を生み出す契機となるわけである。


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