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京極夏彦ほか 『ひどい民話を語る会』 : 葬り去られた庶民の素顔

書評:京極夏彦多田克己村上健司黒史郎『ひどい民話を語る会』(KADOKAWA)

「ひどい民話」とは、「こりゃあ、ひどい!」といって、呆れたり、笑ってしまったりするような民話のことである。

では、「民話」とは何か?

これは意外に難しい。
例えば、「昔話」や「伝説」とは、どう違うのだろうか?

なんとなく「違う」というのはわかるけれども、私のような素人には、その違いの説明は難しいし、多くの場合、それらは混用されているようである。また、当然のことながら、そうしたものの中間領域に属する「お話」も少なくない。
そこで、京極夏彦による、シンプルな説明に耳を傾けると、こうなる。

『 民話の定義は曖昧ですが、昔話と伝説と世間話は確実に違うわけです。昔話にはテンプレートがあるから、完全に似たような話ばかりになる。伝説はその土地の事物に関わっていなければいけないという縛りがある。民話とされるお話は、その中間くらいの話が多いですよね。土地との関わりのあるようなないような、話の型もイレギュラーな感じで。グレーゾーンなんですよね。昔話でも伝説でもない半端なゾーンは民話としか呼びようがない。』(P152)

やはり、民話は『グレーゾーン』なのだ。だから、漠然としており、「定義」を問われてたりすると困ってしまう。
ただし、その「曖昧さ」が魅力でもあるのだと、黒史郎は、次のように語っている。

『 民話の良さのひとつに「ちゃんとしてなくてもいい」がある。いきなり始まって途中でプツリと終わってもいい。疲れたり飽きたりしたら語り手は途中でぶん投げてもいいので、「むかしむかし」から始まって「めでたしめでたし」で終わるという必要もないわけである、なんてことは私が勝手に思っていることなので真に受けられると困るのだが、実際、民話集を読んでいると、唐突に始まって尻切れトンボで終わる話や、途中かなり端折ったな、とわかる話など、明らかな〝欠落〟の見れとれる民話がたまにある。』(P124)

民話の魅力とは『ちゃんとしてなくてもいい』こと、つまり「自由」だということである。
「昔話」や「伝説」的な要素を多分に含みながらも、「それらしい形」に収まっている必要がない。それらを参考にしながらも、勝手気ままに改変したようなものが、民話の中には残っている。と言うか、「昔話」や「伝説」と呼ぶにふさわしいものから排除された、いわば「出来損ない」「駄作」「B級作品」が、「民話」として保存されているのである。だから、一一とにかく「昔話」や「伝説」では、到底お目にかかれないような、「ひどい」作品があるのだ。

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本書は、雑誌『怪と幽』に掲載された「対談」や「座談会」などを、まとめたものである。
メンバーは、「妖怪」や「お化け」を中心としながらも、「民俗学」的な知識がやたらにある、オバケというかオタクというか、とにかくそのあたりの知識が尋常ではない人たちだ。

そして、そんなメンバーによって本書で語られる「ひどい民話」は、主に「シモ」の話である。ぶっちゃけていえば「ウンコ、小便、屁」にまつわる話である。

民話には、そういう「下品な話」が多いのだが、他の類型としては、「艶笑譚」というのがある。要は「エッチな」というよりは「スケベな」話のことなのだが、こちらは、この「妖怪」メンバーが取り上げるタイプではないということで、主に語られるのは「シモの話」、特に「ウンコと屁」の話だ。

「小便の話」は、前二者に比べるとグッと少ないそうで、やはり、インパクトが弱いからであろうという話になっている。「ウンコ」は「ムン!」あるいは「ぶりぶりっ!」、「屁」が「ブウっ!」なのだが、「小便」は「ジョロジョロ…」と間延び感があるからではないかと、私も思う。

が、そんなわけで、本書で主に語られるのは「お下品な話」である。「上品」ではない。「とり澄まして」いない。
なぜなら、民話とは、庶民が囲炉裏端において、つまりごく少数の「内輪」における「娯楽」として語り伝えたものなので、思いっきり「下品」になれる。なっていいのである。

「本」にするとか、「ネット」で公開するとか言ったものではなく、仲間内の飲み会での「バカ話」みたいなものだから、相当「下品」なのもある。
とにかく「ウケれば良い」わけで、「コンプライアンス」が問われることもなければ、「政治的に正しい話(ポリティカル・コレクトネス)」じゃなくても良いのだ。
要は、「何でもあり」の「自由」だから、相当、幼稚でバカバカしくもお下品なのがあり、じつに適当なのもある。一一だから、そういう「出来損ない」は、どうしても「学問」の対象たる「昔話」や「伝説」からは、排除されてしまったのだ。

例えば、日本を代表する「昔話」たる「桃太郎」には、じつに多様なバージョンが「民話」の中には遺されている。だが、そうした「出来損ない」は排除されて、形の整えられた「桃太郎」が、「昔話」という地位を得て定着する。

こうした事情について、京極夏彦は、尊敬する柳田國男について、次のように語っている。

村上 昔話と言えば、「桃太郎」という感じですからね。

京極 実は、犬・猿・雉を連れて鬼を退治して日本一の旗を掲げて帰ってくるという、いわゆる定型の「桃太郎」というのは、それほど広い範囲に伝わっていたものでもないんです。定型の「桃太郎」は近代になってから一本化されたような節があって、古いタイプと思われる話も多いわけですよ。
「桃太郎」については柳田國男も気にしていて『桃太郎の誕生』という論文も書いているし、類話も集めていますけど、その柳田國男がボツにした話というのがあるんですね。

村上 見なかったことにしたわけですか?

京極 そうです。後に『柳田國男未採録昔話聚稿』という本が出まして、そこに収録されてるんですけど、それを見ると落とした理由が分かります。
 色々とバリエーションがある「桃太郎」の中でも、一番ダメだよな、と思われる話が「ボボ太郎」っていうタイトルで。

村上 九州地方だと途端にヤバイ意味になるという。』(P18)

『 柳田國男は民俗学というか、民俗学の前身である郷土学を立ち上げる前、つまり自然主義文学運動にかぶれる以前は、ロマン派の新体詩人でした。ものすごくロマンチックな人だった。それが様々な理由から転向して、いってみればロマンを捨てていくわけですけど、それでも彼の中には沸々とロマンがたぎっていたんです。
 柳田國男は国語学者であり、農政学者であり、いろんな意味で自然科学的、あるいは社会科学的な事柄を勉強した人です。非常に理性の人なんですけど、民俗学に関しては尋常ではないロマンがたぎっていた。たぎるロマンにウンコは邪魔なんですよ(笑)。
 ただ、彼の目的はあくまで民俗の由来なり起源なりを知ることですから、邪魔とはいってもウンコを切るわけにはいかない。人間は必ずウンコしますし、どんな家にも便所はあるからです。切るわけにはいかないんですけど、ロマンとは相性が悪いですね。
 柳田國男に『桃太郎の誕生』という名著があります。序文を見ますと、発想自体は「ヴィーナスの誕生」という絵にあるわけです。パカっと開いた貝の前にヴィーナスが立っている絵。あの絵を見て「おぉ……」と思ってたんです國男は。いいですか一一。桃から生まれた桃太郎とヴィーナスの誕生を重ねるあたりで、もうすでにこの人の限界は見えていますよね(笑)。上品なんですね、國男さんは。』(P82〜83)

このように、言うなれば「民話」の中には、公的な「学問」や「芸術」からは排除されていった、「下品なもの」が生き残っていた。だからこそ、「民話」には、今、語るべき「人間の真実がある」ということになる。

したがって、本書で語られる「民話」は、その大半が「ウンコ」か「屁」がらみの「下品なバカ話」であり、良くて「何それ?」っていう「いい加減な話」「適当な話」で、まあ、「バカくせー!」とか言いながら楽しく読めば良い本なのではあるのだけれど、やはり、それだけの「バカ本」ではないのだ。

非凡な教養のある人たちが、なぜわざわざ、こんな話ばかりを集めてきて本にしたのか?
それは「今の社会」には、そうしたものが失われており、それを是非とも、取り戻す必要があるからである。

『 (※ 民話を)蒐集する側、発信する(※ 語る民衆の)側の意向はどうあれ、(※ 民話を聞いて)受け止める側には思い込みや偏見がたっぷりとあるものなんです。
 芸術というのは美しいもんだろう、高尚なものなんじゃないですか一一という刷り込みは、どうやら思いのほか根深く、広く一般に染み渡っていたようです。芸術か猥褻かで裁判が行われたりするわけですから、そこは推して知るべしです。
 美しい話、香しい話、せつなくも悲しい話一一そうした話こそ民話なんだろう、だって芸術というのなら感動はあるでしょう一一というような偏った思いが受け取る側にあったんでしょう。児童書の民話集からエログロが削除され、シモネタも自粛されました。公序良俗に反する箇所は修正されました。戦前とはまた違う形で〝健全な〟ものになっちゃったんですね。
 お婆さんは殺されず、狸も殺されなくなりました。花咲か爺は花咲か爺さんに、隣の婆はお隣のお婆さんになりました。
 ジジイやババアでは侮蔑的な呼称と思われてしまいます。すでに良い子が使う言葉ではなくなっていたんですね。
 まぁ、今の基準に照らすなら、例えばお婆さんを殺害して婆汁をつくりお爺さんに食べさせるなどという筋書きは、残酷極まりない猟奇行為にほかなりません。いや、狸を捕まえた段階で動物虐待といわれてしまうかもしれません。色々と考えさせられますが一一これはやむを得ないことでしょう。メディアを通じて公に発信される情報と、囲炉裏端というパーソナルな空間で語られるお話とでは、基準が変わるのは当たり前です。
 そんなこんなで。
 さまざまな時代、さまざまな局面で、さまざまな理由から、ひどい民話は表舞台からパージされ続けてきたんです。
 ひどいんですから、仕方がありません。
 でも、あるんですね。あったんです。採集されているんですから、誰かが語っているんです。その昔の爺ちゃん婆ちゃんが子供たちを喜ばせるためにあれこれ盛ったり、あちこち曲げたり、シモに落としたり、時に忘れちゃったり、すべったり、投げやりになったりして語った話が残されているんです。
 この、囲炉裏端の過剰サービスをなかったことにするのは勿体ないことではありませんか。
 学術的にはそんなに意味がないのかもしれませんし、芸術としてはそれほど価値がないのかもしれません。教育的にはよろしくないかもしれませんし、道徳的にもいかがなものかと言われてしまうかもしれません。
 でも、それもまた民衆の声ではあるんです。
 いや民衆と関係なくっても、面白いんです。』
 (P170〜172、「おわりに」より)

京極夏彦は「ひどい民話」が失われることを惜しむ理由として、「民衆の声」や「民衆の真実の姿」といったことを、持ち出しかけて、それを止めている。一一なぜか?

それは、「ひどい民話」をパージしてきたのは、いつだって「時の正義」だったからである。「大義名分」だったからだ。
だから、京極自身は、その「罠」にハマらないためにも、「面白いから」という価値観を強調した。

「正しい」から残す、のではない。なぜなら、そうした価値判断を全面的に認めてしまったら、「間違っている」と思えるものは「パージしても良い」、いや「パージすべきだ」となってしまう公算が低くないというのは、人間の歴史が示してきた事実である。

だから「正しい」から「遺す」のではない。「面白い」から、ひとまず残すのだ。
仮に「面白いけれども、問題がある」と思えるものが出てきたら、パージするのではなく、ひとまず残して、その上で、どのような残し方が適切だろうかと、遺し方を考えるべきなのである。

『囲炉裏端にはコンプライアンスもポリティカル・コレクトネスもないんです。そして一一。
 ひどい民話が誕生するんです。』
 (P11、「はじめに」より)

なぜ、京極たちは、ここまで「危機感」を募らせたのであろうか?

それはたぶん、今の子供たちが「公私の区別」なく「正しいものは正しいし、間違ったものは間違ったものだ」という単細胞な価値観を、親たちから植え付けられ、その結果として、「人間」として、不自然に窮屈な生き方をしなければならなくなっており、それが様々な問題を引き起こしている、あるいは、引き起こしつつあると、そう考えているからではないだろうか。

『 『季刊 民話』はね、お化けの宝庫なんですよ。だってこの本(創刊号)をパッと開くとですね、「奥丹後物語 草稿』という記事が載ってます。これ、立っている項目、全部お化けですよ。小石のたたり、雪んぼの話、不思議な土瓶、牛鬼の怪、小豆とぎ。もうお化けばかりですよ。小豆とぎとか小豆洗いは、長野、山梨、新潟と出現場所として有名な所があるでしょう。でもこの記事にもあるように、もっといろんな土地で磨いていますよ、小豆。『妖怪談義』(柳田國男)の「妖怪名彙」とか『綜合日本民俗語彙』(民俗学研究所編)に載っているから有名になってるけど、それ以外の土地の小豆とぎは無視されがちで、結局一部の土地のお化けということになってしまう。それはよくないですよね。妖怪の展示等で都道府県別の妖怪を紹介することがあるけど、「あれ? お前はここの妖怪か?」っていうことがたまにある。最近はそういうことを指摘する妖怪警察みたいな人が増えているみたいですけど(笑)。でも民話を読み漁っていると、気持ちが鷹揚になりますね。「まぁ大体こんなもんだべ」って。』(P163〜164)

「妖怪」を、一面的な知識で特定の場所に縛りつけてしまう「不自由さ」は、明らかに間違っている。それは何よりも、人間の「想像力の不自由」に他ならないからだ。

同様に、本来「人間」は、自由な「動物」であって、ウンコもセックスもしないような「神様」ではない。
なのに、「美女はウンコをしない」ような顔をしているし、「知識人はセックスをしない」ような顔をしている。

無論、彼らだって「ウンコ」もすれば「セックス」もするのだが、彼らが、そんなことを「しない」ような顔をしているのは、それが「公の場」での顔だからであり、そういうところでは、むやみに「ウンコ」や「セックス」を持ち出すべきではないと承知しているからに他ならない。
真昼間から公衆の面前で「尾籠な話」をしたり、それを聞いたりして、喜ぶ人もいるだろうが、それで不快になる人も多いから、そういうことは「公の場」ではひかえ、あくまでも『パーソナルな場所=囲炉裏端=親密空間』用に、「取っておく」のである。そう、それらは「とっておきの話」なのだ。

だが、その「区別」がつかなくなった人がいる。
「本音と建前」の区別がつかず、「ミソとクソ」の区別がつかない人が出てきた。
だから、京極たちは、そこに危機感を感じたのだ。

「人間は動物なんだから、服なんか着ているのは欺瞞。したがって、外でも裸で歩き回ることが正義だ」といったのと似たような「正論」を、文字どおりに真に受けてしまう、「リテラシー」の低い人たちが「我こそは正義の美旗を掲げる者」だといった調子で、「公私の区別」を「偽善呼ばわり」して、「人間」の一部である「動物的な部分」をパージして、人間を「ウンコもセックスもしないお人形さん」にでも変えようと、本気で頑張り始めているのが、今の世の中の、ある「一面」なのではないか。

もちろん、「正義」も「正論」も「建前」も「きれいごと」も、絶対に必要である。

けれども、それが「すべて」ではないし、それは「強制」しきれるものでもなく、人がその可能な範囲において、個々に「求めるべきもの」なのである。

「ウンコ」もしなければ、「セックス」もしないような人間に、仮に進化できたとして、しかしそれは、果たして「人類の幸福」なのか。いや、それはもはや「人間」ではない「不気味な何か」なのではないだろうか。

一一と、この本のレビューとしては、いささか上品にまとめすぎたきらいはあるけれども、こんな私だって、「セックス」はほとんどしないが、「ウンコ」なら毎日する。あなただって、今日もしたはずである。一一便秘でなければ、だ。

(2022年12月19日)

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