京極夏彦ほか 『ひどい民話を語る会』 : 葬り去られた庶民の素顔
書評:京極夏彦・多田克己・村上健司・黒史郎『ひどい民話を語る会』(KADOKAWA)
「ひどい民話」とは、「こりゃあ、ひどい!」といって、呆れたり、笑ってしまったりするような民話のことである。
では、「民話」とは何か?
これは意外に難しい。
例えば、「昔話」や「伝説」とは、どう違うのだろうか?
なんとなく「違う」というのはわかるけれども、私のような素人には、その違いの説明は難しいし、多くの場合、それらは混用されているようである。また、当然のことながら、そうしたものの中間領域に属する「お話」も少なくない。
そこで、京極夏彦による、シンプルな説明に耳を傾けると、こうなる。
やはり、民話は『グレーゾーン』なのだ。だから、漠然としており、「定義」を問われてたりすると困ってしまう。
ただし、その「曖昧さ」が魅力でもあるのだと、黒史郎は、次のように語っている。
民話の魅力とは『ちゃんとしてなくてもいい』こと、つまり「自由」だということである。
「昔話」や「伝説」的な要素を多分に含みながらも、「それらしい形」に収まっている必要がない。それらを参考にしながらも、勝手気ままに改変したようなものが、民話の中には残っている。と言うか、「昔話」や「伝説」と呼ぶにふさわしいものから排除された、いわば「出来損ない」「駄作」「B級作品」が、「民話」として保存されているのである。だから、一一とにかく「昔話」や「伝説」では、到底お目にかかれないような、「ひどい」作品があるのだ。
○ ○ ○
本書は、雑誌『怪と幽』に掲載された「対談」や「座談会」などを、まとめたものである。
メンバーは、「妖怪」や「お化け」を中心としながらも、「民俗学」的な知識がやたらにある、オバケというかオタクというか、とにかくそのあたりの知識が尋常ではない人たちだ。
そして、そんなメンバーによって本書で語られる「ひどい民話」は、主に「シモ」の話である。ぶっちゃけていえば「ウンコ、小便、屁」にまつわる話である。
民話には、そういう「下品な話」が多いのだが、他の類型としては、「艶笑譚」というのがある。要は「エッチな」というよりは「スケベな」話のことなのだが、こちらは、この「妖怪」メンバーが取り上げるタイプではないということで、主に語られるのは「シモの話」、特に「ウンコと屁」の話だ。
「小便の話」は、前二者に比べるとグッと少ないそうで、やはり、インパクトが弱いからであろうという話になっている。「ウンコ」は「ムン!」あるいは「ぶりぶりっ!」、「屁」が「ブウっ!」なのだが、「小便」は「ジョロジョロ…」と間延び感があるからではないかと、私も思う。
が、そんなわけで、本書で主に語られるのは「お下品な話」である。「上品」ではない。「とり澄まして」いない。
なぜなら、民話とは、庶民が囲炉裏端において、つまりごく少数の「内輪」における「娯楽」として語り伝えたものなので、思いっきり「下品」になれる。なっていいのである。
「本」にするとか、「ネット」で公開するとか言ったものではなく、仲間内の飲み会での「バカ話」みたいなものだから、相当「下品」なのもある。
とにかく「ウケれば良い」わけで、「コンプライアンス」が問われることもなければ、「政治的に正しい話(ポリティカル・コレクトネス)」じゃなくても良いのだ。
要は、「何でもあり」の「自由」だから、相当、幼稚でバカバカしくもお下品なのがあり、じつに適当なのもある。一一だから、そういう「出来損ない」は、どうしても「学問」の対象たる「昔話」や「伝説」からは、排除されてしまったのだ。
例えば、日本を代表する「昔話」たる「桃太郎」には、じつに多様なバージョンが「民話」の中には遺されている。だが、そうした「出来損ない」は排除されて、形の整えられた「桃太郎」が、「昔話」という地位を得て定着する。
こうした事情について、京極夏彦は、尊敬する柳田國男について、次のように語っている。
このように、言うなれば「民話」の中には、公的な「学問」や「芸術」からは排除されていった、「下品なもの」が生き残っていた。だからこそ、「民話」には、今、語るべき「人間の真実がある」ということになる。
したがって、本書で語られる「民話」は、その大半が「ウンコ」か「屁」がらみの「下品なバカ話」であり、良くて「何それ?」っていう「いい加減な話」「適当な話」で、まあ、「バカくせー!」とか言いながら楽しく読めば良い本なのではあるのだけれど、やはり、それだけの「バカ本」ではないのだ。
非凡な教養のある人たちが、なぜわざわざ、こんな話ばかりを集めてきて本にしたのか?
それは「今の社会」には、そうしたものが失われており、それを是非とも、取り戻す必要があるからである。
京極夏彦は「ひどい民話」が失われることを惜しむ理由として、「民衆の声」や「民衆の真実の姿」といったことを、持ち出しかけて、それを止めている。一一なぜか?
それは、「ひどい民話」をパージしてきたのは、いつだって「時の正義」だったからである。「大義名分」だったからだ。
だから、京極自身は、その「罠」にハマらないためにも、「面白いから」という価値観を強調した。
「正しい」から残す、のではない。なぜなら、そうした価値判断を全面的に認めてしまったら、「間違っている」と思えるものは「パージしても良い」、いや「パージすべきだ」となってしまう公算が低くないというのは、人間の歴史が示してきた事実である。
だから「正しい」から「遺す」のではない。「面白い」から、ひとまず残すのだ。
仮に「面白いけれども、問題がある」と思えるものが出てきたら、パージするのではなく、ひとまず残して、その上で、どのような残し方が適切だろうかと、遺し方を考えるべきなのである。
なぜ、京極たちは、ここまで「危機感」を募らせたのであろうか?
それはたぶん、今の子供たちが「公私の区別」なく「正しいものは正しいし、間違ったものは間違ったものだ」という単細胞な価値観を、親たちから植え付けられ、その結果として、「人間」として、不自然に窮屈な生き方をしなければならなくなっており、それが様々な問題を引き起こしている、あるいは、引き起こしつつあると、そう考えているからではないだろうか。
「妖怪」を、一面的な知識で特定の場所に縛りつけてしまう「不自由さ」は、明らかに間違っている。それは何よりも、人間の「想像力の不自由」に他ならないからだ。
同様に、本来「人間」は、自由な「動物」であって、ウンコもセックスもしないような「神様」ではない。
なのに、「美女はウンコをしない」ような顔をしているし、「知識人はセックスをしない」ような顔をしている。
無論、彼らだって「ウンコ」もすれば「セックス」もするのだが、彼らが、そんなことを「しない」ような顔をしているのは、それが「公の場」での顔だからであり、そういうところでは、むやみに「ウンコ」や「セックス」を持ち出すべきではないと承知しているからに他ならない。
真昼間から公衆の面前で「尾籠な話」をしたり、それを聞いたりして、喜ぶ人もいるだろうが、それで不快になる人も多いから、そういうことは「公の場」ではひかえ、あくまでも『パーソナルな場所=囲炉裏端=親密空間』用に、「取っておく」のである。そう、それらは「とっておきの話」なのだ。
だが、その「区別」がつかなくなった人がいる。
「本音と建前」の区別がつかず、「ミソとクソ」の区別がつかない人が出てきた。
だから、京極たちは、そこに危機感を感じたのだ。
「人間は動物なんだから、服なんか着ているのは欺瞞。したがって、外でも裸で歩き回ることが正義だ」といったのと似たような「正論」を、文字どおりに真に受けてしまう、「リテラシー」の低い人たちが「我こそは正義の美旗を掲げる者」だといった調子で、「公私の区別」を「偽善呼ばわり」して、「人間」の一部である「動物的な部分」をパージして、人間を「ウンコもセックスもしないお人形さん」にでも変えようと、本気で頑張り始めているのが、今の世の中の、ある「一面」なのではないか。
もちろん、「正義」も「正論」も「建前」も「きれいごと」も、絶対に必要である。
けれども、それが「すべて」ではないし、それは「強制」しきれるものでもなく、人がその可能な範囲において、個々に「求めるべきもの」なのである。
「ウンコ」もしなければ、「セックス」もしないような人間に、仮に進化できたとして、しかしそれは、果たして「人類の幸福」なのか。いや、それはもはや「人間」ではない「不気味な何か」なのではないだろうか。
一一と、この本のレビューとしては、いささか上品にまとめすぎたきらいはあるけれども、こんな私だって、「セックス」はほとんどしないが、「ウンコ」なら毎日する。あなただって、今日もしたはずである。一一便秘でなければ、だ。
(2022年12月19日)
○ ○ ○
○ ○ ○
○ ○ ○
○ ○ ○
○ ○ ○
○ ○ ○
・
・
○ ○ ○
・
・